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めぐり逢いのスケッチとさよならのドローイング 《さよなら商業デザイナー(17)》

── 前回「本当に必要なもの」の続きです

──「さよなら」をするということは、どういうことなのか。私はなにをさよならするのか。どうすれば「さよなら」できるのか。──

人生では様々な出会いや出来事などとの「巡り会い」があります。その中で明暗のように「好都合」と「不都合」という捉え方をしている自分がいるという話を前回述べました。

そしてその「不都合な出会い」によって、数多くのことに「気づき」を学ぶこと。そしてその「不都合なご縁」は、自分の捉え方が都合良く解釈した世界観であるということ。

つまりは人は「ご縁」によって、自分を知るのです。あくまでも意識の話ですが、それを極端に例えるなら、他者や世界とは自分の反面なのだということと表せます。

それを自己と自我と定義するならば、自我とは内的自分であり、自己とは外的自分。心が見る世界と目が見る世界のように、境界線を用いるなら、自分とは内側の本体と外側の実体に区別することができて、即ち全容である自分という存在は、世界そのものでもあるということです。

では、その自分の世界に起こる人生も、そこで出会うご縁も、そうなると自分が用意したシチュエーションであり、世界とは自分のデザインしたストーリーでもあり、自分の描いたプロットのような原案「めぐり逢いのスケッチ」がどこかに存在するのかもしれません。

このままこの話をロマンチックな物語に発展させていくのもよいですが、この主題は残念ながらそうではないのです。なぜならそのスケッチとは、幾重にも仕掛けられた罠や謎がちりばめられたとても意地悪なシナリオだからです。


壮大なからくりミステリーのような人生のスケッチ

ならば私は「なぜこんなスケッチを描いたのか?」そこに理由があるのであれば、きっといつかの未来にはわかることでしょう。それを内面の自分は既に知っているのかもしれません。または、内面の自分こそがそんなシナリオの著者であり、外的自己はその役者ということなのかもしれません。しかし、いま現段階で自分が思う理由の答えは、それはきっと「必要だから」なのです。

前述したように、私はこれまで商業デザイナーとしての職業上のめぐり逢いの中で、生きづらさから、憤りや憎しみのような負の念を知ったと言えるでしょう。そしてそんな想念や経験を本当に邪魔だと自分は感じていました。
しかし思うのです。私にはそれが必要であり、またそれを望む需要も私自身であり、それを経験することを望んだ自分がいるのだと思えるのです。

しかもそれは私だけじゃありません。「袖振り合うも多生の縁」という言葉もありますが、そのすべての人や物に皆それぞれのスケッチがあるのですから、それこそ宇宙的規模の壮大な出会いの必然性が交差する物語です。

そんなスケッチブックを想像すると、完璧なシナリオによって精細に構築されたものでは無いのではないかと私は思うのです。それは謂わば、この世界や宇宙というのは、案外単純なシステムによって出来ているのではないかという思案と同じことです。

これは、詩人や芸術家でもあり今で言う文化人でもあったジャン・コクトーの表現で、言葉自体は思い出せないのですが「この宇宙はせいぜい手動の懐中時計の内部程度の仕組みで出来ている」という表現があるのですが「ひとつふたつネジが外れてもまだ動いている」まさにその程度の程よい隙間があり、大きさの概念を除けば案外スッカスカの密度的に自由度の高い構造なのではないかと私は思うのです。


めぐり逢いスケッチは常に描き換えられている

大まかな概要的な筋書きと主題があるだけで、あとはほぼ即興劇として、常にその内容は描き換えられているのではないか、そうでなければ数多の人生と増減する人口と、なにより星の数ほどの星々を含めた空間が機能的に巡るとは思えないのです。

人間にとっては「偶然」と思える数々のシーンですが、そこには「必然性」としての要素である「出会いの可能性」が常に100%に設定された舞台と配役だけの設定があり、前後の流れやその都度の意識と選択次第で未来は瞬時に描き換えられ、ほぼ自由に設定するという「揺らぎに対応した優れたシステム構造」によって、スケッチは常に描かれ続けているのだと私は想像します。

なので、目の前の出会うべくしてそこにいる人物に、例えば一目惚れをしてきっかけと理由はあるのですが、どうしても勇気が持てなくて通り過ぎてしまうなどという自由度が生まれるのです。

墜落する飛行機にどうしても乗れずに命を救われたような経験がある方もいるでしょう。その時に足止めをくらわせた人物や事象などの理由もあるでしょうし、またその人物をそうさせた事象や理由もその向こうにあるでしょう。そういうことにこそ、それこそ「ご縁」を強く感じることができると思います。

このまま展開するとこの話は主題を大きく外れ脱線事故を起こしそうなので、話を戻す選択を選ぶことにします。


めぐり逢いのスケッチを描いているのは、自分の心のカラーである。

では、その千載一遇の機会や一期一会の出会いを、そのような相互関係によって、逃したとしたならどうなるのかを経験に照らし合わせ考えると、ある意味先述した「不都合なご縁」のように、何度でもその機会は訪れるのです。

しかし、そこでパターンがあると言えば、それは姿や形を変えて、何度でも、自分がそれに気がつきその意図を成就するまで、ほぼ何度でも出会うのだと思います。一目惚れの場合は、悲しいですが、姿形は変わっていることのほうが多いのです。

しかし、本当に必要でご縁があるのなら、同じ人物と何度もめぐり逢うような劇的なシナリオを選ぶこともあるでしょう。そのように願いや願望的な強い想いもありますが、ご縁とは行動や心の在り方によって変わるものです。

私はその出会いの法則を考える時、人間とは実は「シグナル」を常に表しているのではないかと思うのです。きっとそれは救急医療などで使われるトリアージのようなもので、それは心の状態や体調や思考によって表示色が変わる「心のカラー表示」のようなものです。

それを互いに常に感じ取っているのではないかと私は思うのです。それはプロフィールでもあり、潜在意識の中で皆判断した上で、出会いやすれ違いを自分で選択しているのではないでしょうか。それがまた「類は友を呼ぶ」とも言えますし、出会いの原理なのでしょう。


すべてはそれぞれの自分に必要な物語をスケッチして世界を描いている

同系色で惹かれ合ったり、反対色で必要性を学んだり、そんな出会いを演出しているのが自分自身の描く人生のスケッチであり、出会いの法則がそこにあります。

なので、感情や考え方でも色合いは変化し結果は異なるように、やはり出会いとは「類は友を呼ぶ」という法則が主なのです。その反対に時には「敵」を呼び寄せてしまうときも人生にはあると感じます。

しかし、それもご縁です。そこから必要ななにかがあるのです。時には反面教師としてかもしれませんし、不都合の対しての寛容性を学ぶ機会とも言えますし、なによりそこで捉えてほしい感覚は「なぜその事物と自分は出会ってしまったか」という部分にきっとヒントはあるのだと思います。

「自分がそうだったから、自分がそんな心境や思考だったから、その者は寄ってきた」とも言えるのです。そこから目を背けていると、この場合も何度も訪れるかもしれません。そして回を重ねるごとに、その不都合さは大きく増して、自分に気づきを促すことでしょう。


自分のスケッチはどんなカラーで描かれているか

また、似たような思考や性格の者同士で、グループのような友人がいるのであれば、それぞれの言葉や視点をよく観察してみると、大体似たようなカラーでまとまっていると感じます。愚痴ばかりを言って成長の無い色の仲間たちや、時に厳しいけれど支え合い成長し合う色を持ったグループもいます。

私はきっと商業社会のグループとは合わなかったのです。だからあまり仲良しにはなれませんでしたし、かなり「色」が違っていました。故に私はそのグループから離れて行くのです。

そのように、その色が自分に合っているかどうか、共鳴するならば志の高い色合いを導き合える類を友として呼び寄せたいものですね。

先述したように出来事やご縁のすべては、自分にとって「必要」だったからこそ、その出会いにめぐり遭ったという視点で見直すと、逆境のような出来事も、不都合な事象も、心の傷みも辛い経験も、またそれを招いてしまった自分や巻き込まれてしまった自分も、すべては自分にとって「必要なご縁」なのだと解釈できます。

たぶんそのようなある意味で前向きな思考は、人によっては、また状況や時点においては、難しいことでしょう。そういう時はそういう時です。ある意味で陽射しをよけて生きる必要性があるのです。事実私も自分の職業に対して向き合うのに10年以上も放置してしまったのですから。

伸び悩みながら長いトンネルのような時期だったとも言えますが、個人的にはとても楽しみました。それがあるからこそ今や未来の自分はあるのです。


めぐり逢いのスケッチは自分に出会うための物語

人間とは、それでよいのだと私は思うのです。何年もそれこそただひとつの出会いから一生を通じて経験し感じ、ある意味で学ぶのです。時には怒りや呆れを捉えて、それでも優しさや温もりに感謝して、途方も無い意味の無いような時間を過ごしながら、きっと去るときは一瞬で去り行くのです。だからこそ出会いとは、それほどに重要なことなのだと思うのです。

自分が描いたいじわるな「めぐり逢いのスケッチ」はきっと自分にこそ一番見えない仕掛けが施されているのかもしれません。

なぜならその物語の数々のご縁はきっと、すべては自分にめぐり逢うために描かれているのかもしれないからです。

そうして人はいくつもの自分に出会い、自分の中のひとつひとつに気がついて、人は自分も環境という世界も変わっていくのです。同じ場所にいるように見えて、実は昨日とは別の世界に移行したかのように、自分自身さえも別人のように人とは変化し流転していくものだと思います。

そんな自分の変化に呼応して、それぞれの世界のスケッチに「別れ」はいつも唐突に描かれているものです。それさえも、この世界のすべては「必要」と捉える時、そこにはとても大事な理由と「さよならの原理」のようなものがあるのではないかとも思えてきます。


さよならの描写は「自分と別れる」ためのひとつの章の終幕

「めぐり逢いのスケッチは自分に出会うための物語」であるならば、そのシナリオスケッチに突然現れる「別れ」とは、それもまた「これまでの自分と別れるための描写」ということになるのかもしれません。

出会いから生じるポジティブな要素とネガティブな要素から、自分に表れる様々な感情や思考などによって、自分の中に存在する幾多の自分に気づき、その性格や性質などを捉え認め、自分というものは常に変化していきます。

そして変容した自分はその場所に違和感を覚える場合もあり、自ずとその場所から離れていくことがあります。または本人さえも無意識のうちに自然発生的に距離感が遠のいたり、別離の機会が訪れたりします。

そのように「別れ」とは、ある意味唐突に訪れるものですが、現実世界では、他者や組織や土地やそれにまつわる思い出との別れではあるのですが、それはまるでひとつの季節を過ごした自分にお別れをして、また新たなる自分に出会うためにさよならをするようにも思えるのです。

すでに学んでしまった課題や、なにかが一段階変わってしまった自分の世界観や気持ちの在り方、今では過去になった習慣や興味、あれ程大切に思っていたなにかが今では色あせてしまったかのように感じてしまう切なさや黄昏、時には楽しかった日々や他者からいつからか距離感や疎外感などを感じてしまうなどの場合もあるでしょう。

まるで蝶が段階を経て変容するように、人もまたメタモルフォーゼして、これまでの世界にお別れをして、巣立つような時点を迎えるものです。


「さよなら」は、めぐり逢いの成就という「完成形のドローイング」である。

そのように人生とは人物やその他生物や出来事も含めてあらゆる事物との「ご縁とのめぐり逢い」によって描かれるスケッチであるならば、「出会い」によって描かれたデッサンのような図案をもとに送る人生に「さよなら」という別れは、どのような形であってもそれはひとつの章ごとによる「完成形」という、区切られた物語の「成就」とも言えるものではないでしょうか。

出会いが下書きのデッサンならば、そこに「別れ」という完結を描きとる絵筆やペン入れのような完成形の輪郭を決定する「ドローイング」のように感じます。それはデザインで言えば構成プランの決定であり、フィニッシュとも言えます。別れをもって「成される」のです。

そうであるならば、唐突に訪れる「さよなら」は最終ページにあたり、出会いは冒頭ページであって、その本編にあたる人生の物語自体は、いつ描かれているのでしょうか。

それはもちろん「現在」という、生きる「いま」にしか存在していない、人生自体を描いている、常に現在進行形の「いま」という自分ということなのかもしれません。その「いま」の選択によって、次のシーンは常に変化し、最終的な結末も変わってくる。案外、そのように人生とは自由度の高い「偶然」のような必然性の繋がりによるものなのかもしれません。

その自由意志の世界の中で、いま私はひとつの「さよなら」を完成させようとしているということなのでしょう。そうであるならば、どんな「さよなら」になるかは、私の自由であり、私が描くのです。
そんなさよならを描ききる前に、「さよなら」はどのようにして成るのか。そんな随想に思いを一度、彷徨ってみたいと思います。


「縁」が断たれる時、絶たせるものとはなにか。

私の経験談なのですが、これも仕事絡みで、率直に言うと「依存傾向の強いひと」に困り果てたことがありました。詳細は省きますが、仕事や営業上の話題だとして、毎晩数時間に及ぶ電話相談とそのある意味で重い空気に、私は心底疲れ果てていました。

しかし、その者が担当する顧客で、仕事が私たちを繋いでしまっていますから、関わった以上案件が終結するまでは、その向こうのお客様に申し訳ないので、出来る限りの対応はしていたのです。しかし案の定、そんなですから本題である仕事の話は進まずに、まるでカウンセラーのように私はその者の対応に時間を奪われていたのです。

その時の私の感情は時に灰のようなグレーに、また時にはドス黒い闇のようで、どうしたらよいのだろうと上手く逃げられないものだろうかと、そのような思考回路でした。そして程々もう真っ白になりかけてしまい、「もうどうにでもなれ、いいよ、やってやろうじゃねえか」と、開き直ったその数分後に出来事は起こったのです。

その者から電話があり「お客様からお断りの連絡がありました」と知らせてきたのです。呆気にとられながらも了承し電話を切り、その者との縁はその時点を最後に途切れました。


「受容」と反比例する「拒否感」が引き寄せる不都合なご縁

そんな経験談なのですが、その時に漠然とですが、「そういうもんなんだな」と、私は何かを知りました。そこに「別れの原理」があるのではないかと私は感じます。そしてそれは同時にして「受容と需要の法則」とも呼べるものです。

よく恋愛論において俗に「追えば逃げる 逃げれば追う」「押してもダメなら引いてみな」などの言葉があります。また成功話などで「これでダメだったら諦めようと決心して挑んだら成功した」という話もよく耳にします。なんとなくなのですが、それらの言葉とこの話の原理は等しくも感じるのです。

つまり私はずっと拒否感を抱いていたのです。もしかするとその拒否感のはじまりは、その者が根本に持つ自己否定感にも似た世界への疑念のような恐怖心のような、どこか抑圧された自己愛的な他者(=自分)に対する「嫌悪感」を、私のどこかが共鳴するかのように捉えてしまったはじまりがあるのではないかと思うのですが、そういう話はまた新たな別の機会にして。

そう、つまりは、私が抱いた「拒否感」がその不都合な状況を引き寄せていたのではないかと感じるのです。そして、その現実を受け容れた瞬間に、その不都合な状況と縁が切れたのだということです。

この話は、また別の心理的な世界観の追及になってしまうと思われるので、ここでは、あえてこれ以上の追及は避けて、主題としての話に戻して進めようと思います。しかし、結論だけは書き残しておきましょう。


心の本音の需要を現実化させる感情のバロメーター

その縁が断たれたその時、実は私が想像していたイメージがあります。先述した「もうどうにでもなれ、いいよ、やってやろうじゃねえか」という心境に覚悟した瞬間のイメージングです。

それは、『この困難を受け入れ威風堂々と立ち向かい、そのすべての人物や事象も含めた案件のすべてを、空想の敵とも言えるなにか大きなもやもやした蠢く闇のような存在に象徴としてイメージして、気高き光り輝く美しい日本刀で一刀両断する映像』を空想していたのです。

「どうにでもなれ」と言いながらその心情は「こうなった以上は、恐れ入りますが、完膚なきまでに圧勝させていただきます」という気持ちでした。

それまでは、どうにか逃げようとしていた私はバロメーターで言えばマイナスで、要は私が示していたのは「拒否感」であり、その拒否感が創出しているのは「嫌だ」「やりたくない」「めんどくさい」「嫌い」「不利益」「不遇」「不都合」「なんでこんな目に遭うんだ」「私は被害者だ」という感情をいっぱいに世界に放出しているのです。

つまりそれは「私は不幸なんだ」と世界に宣言しているようなものです。世界中で「HUG me!」などとプラカードを持って街角に立つ方を見かけますが、それと同様に「私を不幸にして!」と世界中にお願いしているようなものなのです。そうして、私が欲している需要とは「不幸である私」と世界は認知します。その結果、不幸な状況や出会いが舞い込むのです。

それは瞬時にして、ある意味で共時的に、自ら「不幸」を世界に発注しているのです。その被害者意識のような感情が強ければ強いほど、世界はそれを実現しようと創造して与えてくれるとても親切で、慈悲深い摂理で形成される原理なのです。


さよならの共時性におけるシンメトリックバランス

そこにある共時性を司る法は「バランス」なのだと私は思うのです。「追えば逃げる」のようにアンバランスな感情とは、実はその心の本音は「来てくれないから追いかける」なのです。その需要は即ち「来てくれない」という事実を顕しますから、結果「逃げられる」現実を叶えてしまうのです。

しかし面白いのは、そうならばその相手は「追われるから逃げる」わけではなくて、本音は「逃げたいから追ってきてね」ということになるので、なるほどと思えるのは「逃げたい願望」が満たされなかった場合には、逆転して「逃げれば追う」という感情にもなる可能性があるのでしょう。

ということは、外的な性格は正反対でも、内面の性質は同じ「類は友を呼ぶ」「似た者同士」でもあるのかもしれず、結局は双方の需要に見合っていて、それはそれでバランスが良いのでしょう。そう考えると、謎が解けます。

先ほどの話に戻りますが、私が相手や状況を認め「受容」した瞬間に、相互関係性のバロメーターは一方に振り切り、その関係はアンバランスになったということです。

相手は私が望んでいた「不幸」を適えるために親切にわざわざ私に「不都合」な関係の役柄に名乗り出てくれていたのですから、急に私が「わかった!なんでもやってあげるよ」と進んで「良好」に変身してしまったのですから、そりゃあ契約は破棄され逃げ出しますよね。


「さよなら」するのに必要なこととはなんだろうか

いや、どうなのでしょうか。それが真相でしょうか。それは「破棄」なのでしょうか。もしかするとそれこそが「契約満了」にて終結したとも言えるのではないでしょうか。

それこそ、その内容の結果、有り難いことに、私は「不幸」から転じることを経験し、おかげさまで「良好」に変容したわけですから、その進展の気づきを促すための「おかげさま」なシナリオがあったのだとも言えるのです。そしてその瞬間に相手も世界も変わった。

それ程の瞬時に世界はシンクロしているのだとも言えます。そしてその共時性は、常にシンメトリックな合理性に適ったバランスによって創造されているのかもしれません。

それは瞬時にシナリオも描き換わったということでもあり、役柄は変わったのです。そしてまた新たなバランスによって世界は再構築されます。ということは、自分が変わると、相手もバランスによって変わるということなのかもしれません。

それが、スケッチに描かれたひとつの章のエンディングであるならば、それは破棄や修正のようなやり直しではなく「完成」「完結」「完了」として、それは即ちある目的の「成就」のように。別れとは、別れによって、新たな章がそこからはじまるのかもしれません。


人生物語の「タイトル」は完結してから名付けられるもの

「さよなら」するために、ここまで書いてきた私ですが、ここに来て、自分の誤りにすこし気がついてしまっている私がいます。

「さよなら商業デザイナー」と題したこの文章もあと僅か、これまで何度もこっそりとタイトルを変えたりしていました。未だにこれも「仮題」です。しかしこれもまた人生に等しく「主題」や「題名」などというものは、結果論的な後付けであり、それもまた終えてからこそ、自分が名付けるものなのでしょう。

これがある意味で「第一章」の完結として新章へと展開するのか、はたまた次回で終幕とするかはまだわかりませんが。

これまでずっと「さよなら」ばかりを追い求めてきた私がいます。私は本当に「さよなら」が目的なのでしょうか。そうだとするならば、このままでは今回もまた、きっと。


私は「さよなら」できないことでしょう。

つつく ──

20170326 7:45



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