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社会から引き退き自然の儘に還る 《さよなら商業デザイナー(27)》

── 前回「さよなら商業主義社会」の続きです

前回の「商業主義社会からの引退」という表題について、この表現「引退」ではなくて『商業主義からの脱却』などでもタイトル的にはコピーとして成立するのですよね。それにきっと『脱却』のほうがキャッチコピーとしての印象としては文章も読んでもらえるかもしれません。つまりは広告的視点で言えばそうかもしれないのですが、しかし前回の内容で述べましたが、あくまでも「私が勝手にそんな社会に自ら入っていた」のですから、この場合は「引退」なのです。

唐突におかしな話題から書き始めましたが、このポイントが人間はとても重要に感じるのです。ここで『脱却』という気持ちでは、結果は解決しないと思うのですよね。『脱却』というからには「無理矢理押し付けられている」だとか「これは報復的戦いであり勝利する権利がある」などという、謂わば「イヤイヤ感」の上で対象に対して「敵対」や「悪」と見なして、自身を正当化している思考の表現なのだと思うのです。

移民の集まりを国家としてまとめる手法としてアメリカなどが現在でも行っているやり方ですが、争いや戦争もこの思考回路が原因とも言える気がします。昨今では日本国内でも、都道府県や市町村間、組織間や異なる思想団体の間で、この原理が市民の次元でも根付いてしまっていると感じています。

それはそれで「愛国心」と似ているのかもしれませんが、こうでもしなければまとまらない正義や常識や法律なのであるならば、国家や組織というのは、いったいなんのために存在しているのだろうかとさえ、私は思ってしまいます。平和や富というのは勝負で奪い合うものなのでしょうか。または一方が所有し、もう一方は搾取されるようなものなのでしょうか。


脱却でも引退でも決別でも解消でも、決意や行動により事物との関係性から手を切る事はできても、気持ちの在り方次第では心や思考までは解消できないかもしれません。その一方的な被害者の位置に自分を掲げての脱却劇というシナリオでは、離脱という勝利を収めた後にも、まるで離れられない視界や心情があれば、結局また同じようなシステムを自らが生み出してしまって同じような社会を繰り返すだけだと思うのです。

これって、この世界に生きる人間の心理的な常であり、負の癖でもあり、たぶん因果的な摂理だと思います。逆に言えば、つまりはそんな人間の「負の癖」を刺激して利用すれば、どんな戦略やビジネスも上手くいくのかもしれませんね。

インターネット時代になってからは、こういう「論」に陶酔して溺れる人が増えた気がします。そういう人は「専門家」と自称して自身では全く気がついていないでしょうけれど、相対しているように思われる位置から一方通行的に「論」を評しているだけであって、反覆しているだけの敵と同じ行為をしているだけなのです。

もっと簡単に言えば「人を呪わば穴二つ」のように、敵の墓標を一生懸命に彫って世間に暴きながらも、自ら墓穴を掘って晒しているようなものだと思います。敵対心や報復的な批判や恨み節では、結局、本質的な『脱却』は、できないものなのです。もちろん時間を経過して心とは晴れて行くかのように、無関心になっていくものですけどね。

勝利したならこんどは自身や他の何かが誰かの敵にただすり替わるだけで、構造は変わらないのですから。以前「無視」という方法が有効だと述べましたが、黙ってただ自ら引いて退くだけでいいのです。それこそ以前述べましたが「感謝」がそこに見いだせなければ、本当の「さよなら」は難しいものだと思うのです。それもまた摂理のように。


一言で言って、その世界に「ただ自分が合わなかった」だけのことなのです。または時を経て徐々にズレて「合わなくなってしまった」ということもあるでしょう。自分は合わなくても、そこに居続ける人々はそこがきっと性に合っているのです。人も物もそれぞれに相応しい境遇があるものですので、波長が合わなくなれば静かに自分が去れば良いのですよね。

まるで人間関係と同じですね。一神教イズムの欧米化による影響が強いと思われますが、離婚問題等でも昨今では調停で解決するケースが増えましたが、元々は人間や世間や社会というものは、関係する全員が平等に富も傷みも分かち合うこと、即ち「共生」を目的としているはずでした。

いやどうでしょう。そう思っている日本人だから、よく頻繁に責められてしまったり攻められてしまいそうになったり、隣国にも絡まれてしまったりするのでしょうね。他国や大陸や文明的に言えば、中国辺りの地域も「共生」ではなく常に「侵略」の歴史ですし、ローマやヨーロッパに至っては「思想」や「宗教」さえも利用した完全に「支配」がベースです。

もっと古来でも、エジプトなんかの壁画を見ても、なぜかそこには「地球人には思えぬ神」の基本的には支配の歴史が描かれていると判断もできます。そういう違いが、現在でもかなり深いベースの人間形成において、日本人は特殊な平和主義思考なのでしょうね。もっともそれを「支配」と見るか「守護」と捉えるのかはまた別の話ではありますけどね。

だって草木にさえも神を仰ぎ信仰して、勿体ないや御陰さまで生きていたり、敗戦して思想を禁じられ塗り替えられても怒るどころか、そんな他国や異文化にリスペクトを示す民族なんて、かなり特異で珍しいと言えると思います。だからまぁ、そういった部分が、現代社会の中ででは、いつも理解もされずに負かされてしまうのでしょうね。こっちは「中道」を常に導き出そうとしていても、相手は常に「勝負」なのですから。


さて、今回はやっとここからが最近のテーマとしての「引退後の気ままにデトックス雑記」としての本文なのですが、前々回の「引退劇という喜劇」の一部で記した内容に「引退の旨をどうしても御理解いただけずに」というような内容があったのですが、私が思うポイントがここにもあります。

資本主義がどうのこうのという話までの内容には今回は掘り下げないですが、いつからか経済発展とともに、例えば商談や会議などでも、目的が勝負になってしまった社会へとすり替わってしまったように感じているのです。SNSではベンチャー的な経営者や会計業等も含めたマネージメントや経営コンサルタント系の思考の方達が「いかにして勝つか!」ということばかりに焦点をおく現代の社会構造が出来上がってしまったと感じています。

いまは「気ままに書き出す」ですので、詳細な話やそれこそ「論」は避けてどんどん気ままに話を飛ばして進めますが、つまりは商品や生産や製造という元来からの商業の主役である「品物」という「価値」を扱う「品質主義」である職種と、本来は経営という裏方である「品物や人材」を守るためにあったはずの「営利主義」。この表方と裏方が社会の表舞台で入れ替わってしまったと言えると私は思っています。


日本社会において、時勢に添っての主力産業自体の変化ももちろん理由にはありますが、労働の品質や施しの価値などの甲斐や技術における生産力としての「品質を競う」という基準値から、時代は経営中心の「利潤を競う」という完全にマネージメントが主体になった方向へ変わったのです。

顕著な例としては例えば「食品」でもある「国産の農作物」の生産量は著しく減少し、輸入作物が主流となってしまいました。生命という次元で捉えるならば、これは存続の危機に値する程の異例の事態だとも言えます。それと共に、商業とは「生産」や「開発」ではなく、ビジネスとは「転売」の利益に変化して行き、果てには「価値を価格で購入し、対価を金で販売する」かのような「実像の無い貨幣価値」だけが売買されるとも言えるまでに至りました。

本当に荒削りに書いてしまいますが、それから現在に至るまでに、社会全体の在り方もすべてが「営利主体」つまりは「商業主義」に染まり、薄利多売のチープな品質の商品も増え、労働者の生産力という指針においても、すべてにおいてローコスト化して、まるで企業の生き残りや発展のために商品や従業員もある図式に、その頃から変わったのではないかと感じています。

士農工よりも、裏方である「商」が上になったのです。その後、工も農も生産力や技術力でさえも経理上のコストで減退し、消費者という社会意識も「商」に染まり、挙げ句の果てには現在では「士」が率先して商売をはじめる時代になりました。もうひとつ加えるのなら師の立場だった「坊主」の頭の中まで、今では「命や死」でさえもビジネスにまみれまくっています。


ここで話を戻しますが「引退の旨をどうしても御理解いただけずに」というのは、目の前に例えば病の者があろうとも、要は、そこでも彼らは「経営」としての己の欲求や都合の「利」を圧して勝とうとする癖を出してしまっているのだと、私は感じました。そして、そんな要望を投げられた私はどうなのかというと正直、悲しくなりました。

その方達の社会や俗世に染まってしまった思考しかできない姿を可哀想にも思えてしまいました。そしてなによりも、これは話が通じないと判断しました。「さよなら商業デザイナー(旧題)」の頃にも書いてはいますが、彼らのビジネスというルールには「ここからはビジネスとして」という魔法の言葉を唱えれば、その時点からは個人である必要はないのです。

誰かが作ったビジネスと言う挑戦しがいのあるゲームのようなシステムの中では、最終的に営利基準での「勝敗」が決着なのですから、そこに個人として人間としてある必要はありません。そう、それは別に誰も悪くないのです。むしろその方達のほうこそが「勝利する」というルールに沿って生きているとても真面目な方達なのです。

社会の在り方に寄り添っているのですから、その方達は自らがゲームのルールに従っていることには一切気がつかずに、ルールを外から作り上げる創造的な思考ではなく、ただそれが基準だと思い込んで(思い込まされて)います。なんだか過剰に大袈裟な物言いになってしまっていますが、あくまでもこれは「お話」ですから、私の引退劇での現実は少し違いますからね。日本人ですからやはり穏やかですし人情が主体性として大きくありますから、そんな社会にあってもとても平和的で優しいですよ。

しかし共通してそういう方々は口にします。「負けない!引かない!」「発展しましょう!」「成功しましょう!」「もっと儲けましょう!」そして「お互い勝って一緒に成長しましょう」と、それを彼らは「成功」と呼び「幸福」や「豊か」と言っては、私の美点からすると、そんな風に言ってどんどん「品質」をこの世界から傷つけ、押しやりのけて、落胆させていきます。この世界の品質を落としていきます。私は子供の頃からそれが不思議でなりませんでした。


だって、彼らは創造的に世界の品質を生み出して提供するとか、その「資源」を分かち合い共有するという思考ではなくて、自分ではなく他者や自然が創り出したとも言える創造物や生産物、謂わば「有限の資本」を転売し合って競い奪い合い、その所有量で禍福さえも勝敗で決めるという誰かが遥かずっと昔に作ったルールの中の世界の参加者達なのですから。

参加者ということはこの社会をボードゲームとするならば、各々の駒やカードはきっと自らが自身の意思によって動いていて自分の描くサクセスストーリーを歩んでいると思っているでしょうけれど、もしかしたら、その上の次元に「プレーヤー」が存在していて、その社会の仕組みや構造やルール自体がある目的や必要性をもって、用意された世界なのかもしれませんね。

そうして、そのルールの中の人々はこのままでは、そのうち地球も割って管理しはじめるかのような、宇宙も勝手に境界線を引いて、ここまではオレの物だ!いくらで買う?って感じで、そんなことを「経営」と呼んでいるのですから。って、なんの話でしょうか(笑)

まるで「The プレーヤー」という名のゲームや小説等のプロットのようだ。このまま書き進めたら私がおかしな人に思われちゃいますね…この辺にしておきましょう(笑)けれど、もしも社会がそんなプレーヤー達の動かすゲームだというならば、そのまた上に「元締め」に値するような、ピラミッドの頂点に位置する、そのゲームを創った存在がいるということですよね。


話が脱線してしまいそうなので戻しましょう。つまりは商業主義社会からの引退。この度、引退する私の現在の結論でもあります。しかしこれもまたそういうことなのです。前回の内容にあるように「私と彼らは住む世界も見ている世界も違う」ただそれだけなのです。私はそんなものを幸せとも感じなければ、成功とも思えませんし、豊かさを穢すようにしか見えないのです。

個人的には職業としてこれまでかなりな時間を費やし、出会いや喜びや人のご恩や多くの経験をしましたが、どうしてもそれらの価値観が私には理解できなかったのです。いや、この場合「理解」ではありません「同意」することがどうしてもできなかったのですね。どうしてもつまりは「別の世界の住人」と言える理由はそういう部分なのです。

しかし現代社会の構造にそぐわないのは、私のほうだということも理解しています。しかし、もういいかな^^って、やっと覚悟ができたので、両者がもっと気持ちよく生きて行ける様に、もう私はその世界には関わらない決意をしたのです。もうこれ以上この世界に私が居たら、そろそろボロが出て皆さんに迷惑をかけてしまうだろう。そろそろ限界だと思ったのです。

「棲み分け」といえますね。人間関係や恋愛関係でも基本は同じだとも思えます。こういうのは静かに「引き退く」がいいのだと思うのです。それこそ自然の儘に、我、土とたわむるって感じですね。引退と重なった農作業がちょうどいいタイミングで私を、それこそ「儘」に浄化して戻してくれているかのような気持ちです。

この機会にもとても感謝しています。…って、書いてる内容はそんな静かな心象とは、だいぶ異なって暴走しているかのような感じに思われてしまうかもしれませんね(笑)一応、長々と商業主義がなんちゃらとこれまで書いて来てしまったので、自分としては引退が叶った今のこのタイミングで最終としてまとめている気持ちでなのですけどね。


今回は乱雑に書いていますが、また気が向いたらもっと、いかにも「論」的に、そういった商業や社会などの構造や、それこそ社会のデザイン構造についてもコラムのように丁寧に書くときもあるかもしれません。あとは経験談を踏まえた上でのデザイン論なども書いたなら、それなりに誰かのお役には立てる気もしますので、あくまでも気が向いたならいつか表そうと思っています。または先述したゲーム社会のプロットをもとに小説でも書くのもいいですしね(笑)

そろそろ「引退直後の心のデトックス期間」も終盤ですね。約一年前に引退直前の整理として「さよなら商業デザイナー」という内容で書き始めて、一年余り、その後お題を「さよなら商業主義社会」と変更して、そしてこれである意味本当に「さよなら」となるので、今後は主題として「時間泥棒を追って」という題名のみで、そういった現代の時間泥棒を書いたりしてみようと思います。ただし「気まま」にですけどね。

今更ですが、ただただ文字通りに「引退に対する整理をする為のノート」という個人的な心情や思考を、本当にそのまま書いたというわけではないのです。あくまでも自分なりにはという認識ですが、表向きは私の引退に対する「我が儘なわだかまりを解消して行く」という形式をあえてとっているのですが、本質の文章の構造的には、一応「サイコロジー」としての「人間心理における大切に思うこと」を、至る所に散りばめながら、心理的な流れを促す形式で書かせていただいたつもりなんです。

まぁ、お暇な方がいらっしゃったなら、よろしければ最初からまとめて読み流していただければ嬉しいです。また、既にお読みくださった方がいらっしゃったなら、本当にありがとうございます。静かに退くとか何度も言ってますが、全く静かじゃないですよね(笑)でも、おかげさまで、本当に心が軽くなりました。

いろいろもうはじめたいことがいっぱいあるので、そろそろ「引退」という期間は終えましょう。そんな今しか書けないデトックス雑記の最後に、以前の「綺麗にして土に還す。」の文末で、次回書くと言いながら触れていなかった「引退の理由のひとつがわかった!」っていう内容を、次回あたりに最後は書いてデトックス期間は締めたいと思います。

つづく ──

20180408 3:00

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