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広告よさらば 《さよなら商業デザイナー(15)》

── 前回「社会の需要という名の不幸の原理」の続きです

私はもうそんな広告を作ることに限界を感じているのです。

インターネットが一般に浸透してから、どの業者どの業種も殆どの方がWebサイトなどでPRするようになり、感じることがあります。それは、誰もが、自画自賛とも言える自社や自身についての 「わたしはここがイイ!」 って、自称として呟いているということです。

私はその現象に少しだけ気味の悪さを感じています。営利目的の商人や法人だけでなく、それは個人や非営利団体や公共事業でも同じことを皆やっています。そしてここで考えるのは、ある意味でその広報活動を言われるままに作り現実化しているのは、我々のようなデザインや広告制作業の人間達なんです。

どのようなターゲットに、どのように演出すれば「売れる」しかもその「売れ方」のストーリーをある程度は作り出すことができる。それをわかって演出操作できる。その技法や手法を意識は無くとも、または指示通りにデザインし創出しているのがデザイナーです。そしてその企画や制作を行うのも同じ傘の下のプランナーや広告業であります。

洗練されたかっこいい有名ブランドの広告も、政府や病院や銀行などの優しく平和的なスローガンも、時には悪徳業者のようなチラシも、子供がいかにも欲しがり親御さんも納得させる安全な知育玩具や食品の心を掴む赤ちゃんの写真も、時にはまた葬儀屋や保険屋の売り文句さえも、世に出す最終工程を任されているのが、我々のような職業なんです。


デザインいろは、されどにほへと散りぬるを

なぜこのような物言いなのかと言うと、先述の「デザイン「いろは」を知らずして」「デザインにほへと散りぬるを」と俗によく例えられる「いろは歌」を用いて記しましたが、きっとこういうことは「いろは」の先の「にほへと」のような部分で、基礎である「いろは」までの論理で仕事は成立するからです。現代社会においては、デザイナーや広告業という職業に就いて賃金を得て生活し人生を送っていく多くの方には、必要がないかもしれないからです。

なぜならそのデザイナーも消費者であるからです。だからこそ「いろは」の中で社会の需要に最適なものを提供できるのだと思うのです。その向こう側の観念は、私が思うに「矛盾」ばかりに感じられてしまうのではないかと思うからです。現代社会で社会人として生き、既存の世界で人生を送るにはきっとこのような思考などは、必要がないことにも思えてくる私がいるからです。

現代として現在のいま、この人生を生きるということはきっと、大多数の人間には「人生とは既存の世界を生きる」ということであり、その中でいかに喜びのコンテンツを見つけコラージュするように、自身の「人生をいかにデザインするか」が目的であり。その提供されるコンテンツを選択するこそが需要であり。

その先の思考として「その世界がどのようにデザインされているか」のような視点で、自身の言動や意識や存在が、その世界を作り出していく上で、自分は何を提供できるのかという思考や、自身がコンテンツをデザインするという観念などは、きっと今は必要がないのかもしれないと感じるのです。そこに感じる私の観念との違いがあります。


現代の多くの人間の観念にとって「仕事」と「人生」は別物なのだと感じます。

人生と仕事が別物という観念で生きることが現代社会の主流ならば、現代の優秀な社会人という者は、例えば、仕事で核兵器をデザインする職務を請け負ったとしても、それは自分の人生には関係のないことなのですから、きっと平然と賃金を受け取って仕事をこなすのでしょうか。そして、平和な日曜日を素顔で平然と過ごす。

これにおいては、とても「豊か」になった社会の象徴なのではないかと思う私がいます。そして歴史や神話にもあるような栄華のピークを彩った文明がそこから崩れ消えていく兆候にある姿にもあるような程の繁栄と豊かさの社会の症状に似ています。

私はその社会の原理と構造、即ち現代社会のデザインに、作為的な謂わば「悪意」を感じると先述しましたが、これをデザインの仕事に置き換えて述べると「デザインには必ず意図がある」そしてその意図は「計画」というものです。ある需要のために、その必要を満たす計画をプランニングすることこそが、デザイン業の本分だと私は思っています。

そしてその「仕事」とは、私の観念にとっては「自分」そのものなんです。前述した「喜びとはなんだったのか? 仕事とはなんなのだろうか?」の解答がきっとそこです。私にとっては仕事も人生も同じ自分であり、その過程の経験は喜びなのだと思います。

つまりは、きっと私にとっての「豊かさ」の言葉の意味が、きっと現代用語にある豊かさの意味と異なっているのです。私の感じる豊かさとは全く別の状態です。

いまデザイン業を辞めるということは、それ以外にこそ「自分を提供したい」ことがあるからです。逆に言えば、商業デザインでは「自分を活かせない」と知っているからです。


仕事とは「商業活動」でなければ認められない社会

私はどんな職業や現代では職業と見なされていない活動や労働でも「仕事」だと思っているタイプの人間です。炊事や育児も最もですし、人知れず木々を植えていつのまにか森をつくってしまう趣味だとか、近所の子供に絵本を読み聞かせることが異様に上手なおじさんだとか、それぞれの能力による言動そのものが仕事であり、人生は仕事と言っても過言ではありません。

しかし、現代人は社会人として半分の時間を費やし、それを「仕事」と呼び、プライベートは別であり、まるで「本当の自分の人生は時間の半分しかない」睡眠を除けば3分の1しかないとでも言うかのような「思想」の人々が多いのではないかと感じるのです。

なぜなのでしょう。それはきっと人生とは「職業」や「勤労」として認められていないからなのではないでしょうか。つまり現代では「貨幣利益を稼ぐこと」以外は「仕事」として認められないのです。つまり「納税」の対象でなければそれは「仕事」でもなければ、公として「人生」という事実さえも公式としては否定されてしまうようなものです。

だからこそ、こんな私の観念はきっとこの社会ではより「生きづらさ」を生み出すことにも繋がってしまうかもしれない、多くの人にとっては不都合な邪魔な観念なのだろうと私は本当に思ってずっと生きています。それこそ幼少の頃はそんな思考を親にも理解はされませんでしたから、そんなトラウマが私の中にもあるのでしょうね。


さらば商業主義。さよなら商業デザイナー。

いろは歌で例えるなら、もちろん「あさきゆめみし ゑひもせす」あたりまで行けば、そりゃあもう超越者の域として創造主のような視界があるでしょうけれど、たぶん現在の人間の領域として「にほへと」あたりを思考してしまうと、その先は「散る」ことにもなると感じます。

── 独学だからなのかもしれませんが、そんなカリキュラムとしての「いろは」を知らずにして、その先を考えてしまう性質なのだと思います。──《前回より》

そのように前述しましたが、本当に感じるのは、たぶん私ははじめから「にほへと」あたりからの観念しか無かった人間なのだと思うのです。それこそ年齢も若い時にはそのようなことに気がつかずに「なぜわたしはこうなのだろう」と、ただずっと困ったり悩んでいただけでしたが、現在ではそう思えています。

デザインの話に戻すのなら、先述してきた「品質における価値基準」において、たぶん私の感覚は、現代社会の標準に適合していないのだと思います。だから、そんな「にほへと」な私は謂わば「散りぬる」のです。簡単に言えば先述したように「社会不適合」であるので、生き方を変えるほうがそれこそ社会の為です。

なんだかそんな言葉を連ねるととてもネガティブで、まるでそんな商業社会を恨んでいるかのようにも感じますね。そうです。確かにこれまで私はずっと「怒り」「呆れ」て憤りを捉え、そのトラウマをずっと「憎み」「恨み」そして「恐れ」ていたのかもしれません。

そう思うとなぜ自分が、引退にあたっての最終の仕事の忙しさの最中に、いまわざわざ過去を引っ張りだしてまでこの文章を書いているのかが理解できます。別に社会に現代商業社会の事実を暴き、そこにある悪意の原理に報復したいわけではないのです。

私はその「生きづらさ」から自分を癒して、その状況にずっと追い込んでいた犯人は紛れも無く自分自身であることを認め、それを許して解放したいのだと思います。きっとそんな不満や不足の観念に縛り付けてしまった憎しみのような自分に謝りたい気持ちがあるのでしょう。


足るを知らない「不幸」の本当の犯人像は被害者意識

さよならしたいのです。きっとこれまでの自分とその世界に。

社会の需要の正体について、それは意図的に作られていて、それを最終的に表しているのは広告主義的な現実を描き出している商業デザイナーも共犯なのであるならば、そんなイズムにまんまと嵌っていたのは、私自身なのでしょう。だからこそ、その忌み嫌う社会の中に身を置いていたのです。

社会の需要の維持のために、人民の「不幸」は捏造されていると先述しましたが、そんな私自身の供述から、その奥に本当の犯人像を掴むことができます。それは「被害者意識」です。私はトラウマでも憎しみでも悲しみや生きづらさでも、結論、そんな社会という自分以外のせいにして、その罪を他者に被せ、自身の生きづらさを原因を回避して生きてきました。

それは、自分が「被害者」であることによって、慢性的な本当の不幸感の理由を正当化できるからです。その理由とは「ありのままの自分の足ることを否定し、自分が自分であることを認めない」というその思考こそが最も自分を「幸福感」から遠のけている本当の犯人なのだということがわかります。

捏造された我欲という社会の需要に応えることがこれまでの仕事だったのなら、ここからはそうではない本当の「必要」を適えるために、私はデザインの業も創造性における感性も、自分の出来得る能力と人生を捧げたい。

本当の「必要」とはなんだろうか。

つづく ──

20170325 8:57



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