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「ありのままの自分」という罠 《さよなら商業デザイナー(7)》

── 前回「人はなぜ不都合なご縁と巡り会うのか?」の続きです

「不都合なご縁」の有り難さ

人はなぜ不都合なご縁と巡り会うのか?

その理由が「気づき」であるとすれば、なにを自らに気付かせるために、まるで人生のトラップのような「不都合なご縁」が、世界はには用意されているのだろうか。

先述したように、私はそんな「不都合なご縁」によって、「憤り」を覚え、そしていま、ひとつの世界を終わらそうとしていると言える。

きっとそれは、私のみが捉えている世界であって、私以外の方には、この世界は存在していないのだ。その中で、不平不満を抱えながら、そんな世界に好き好んで住み続けている奇特なたった独りの人間なのだと思う。

「世界」などとは大げさな表現なのだが、確かにそう思えるのだ。つまり、この「不都合な世界」は、私の感覚が創造してしまっているのではなかろうか。そう思う私が、いつからかいるのです。


その人の世界をデザインしているのは、その本人なのです。


仮にもデザイナーという肩書きも持っていますから「この世界をデザインしているのは私自身」みたいな空想的な話です。しかし、当テーマでは説明は省きますが、デザインや創作をしていて、あながちその理論は間違ってなどいないのではないかと、否応無く感じざるを得ないことも多いです。

ならば「苦手」でも「不都合」でも、それらと出会ってしまうこの世界とのご縁とは、私自身が望んで用意しているように私は感じるのです。

意識化された外界での自分ではなく、無識下の本体とも呼べる自分の存在が、その現実を自ら創造している。無意識な自分やそういった内面世界と向き合うことを知らない方にとっては、いかにも「不都合な状況」が、望んでも無いのに次々外から訪れる世界「なんで私ばかり」「この世はなんて不平等なの」と思ってしまうものです。


しかし、その世界を創造しているのは、その本人、自分自身なのです。誰もが自分の世界の創造主であり、人生のデザイナーなのです。


そういう視点で見てみると、そこに「不都合なご縁」の有意性が見えてきます。

有り難いことに、私はそんな「不都合なご縁」から、様々なことを学び、感じ、時に考え、時に否定し、そしてこれまでの人生の様々なことを気がついて生きてくることが出来ている自分に気がつきます。あえて、わかりやすく言うならまさにこの一言です。


不都合に思えるご縁によって、人は成長する。


結び付けるのなら、何よりもそんな「不都合なご縁」によって、私はやっとデザイナーという職業を引退することが出来るのです。

「不都合なご縁」のその素顔に、とてもとても優しい人格を感じるのです。とても有り難き存在だと感じます。

思えば人生は、そんな苦境や逆境あるからこそ、幸福感も甲斐や意義などもはじめて感じることができるのではないでしょうか。

それを人間的に、ご都合良く、まるで「不幸」や「不運」などと、都合の悪い不都合なご縁や苦手な自分や状況を否定して、さも「ありのままの自分」はこれじゃないというような思考こそが、幸福感でも人生でも、それこそ本当に「ありのままの自分」から遠ざけてしまうような、さもしい行為なのではないでしょうか。

すべては自分自身がデザインしている世界と仮定するなら、いったい自分のどういうところが、またどういう自分がデザインのディレクションをしているのか。

もしかすると、自分の中に立前と本音のように、まるで心と脳や現実と幻想のような誤差があって、それこそそういった偏った思考のようなものが大きく影響しているかもしれません。そうであるならば、こうも思えてきます。

「都合のいい」思考や観念だからこそ、人生や世界とは「不都合」になるのではないでしょうか。


「ありのままの自分」という罠

不都合に思えるご縁によって、人は成長する。

結び付けるのなら、何よりもそんな「不都合なご縁」によって、私はやっとデザイナーという職業を引退することが出来るのです。

最もそこにある思考回路と言えるのは「やっぱり自分はこれじゃない」もしくは「もう今の自分はここじゃない」などの言葉になると感じるのですが、まさに人生における反抗期や思春期のように、まずは否定の前に「違和感」や「嫌悪感」から、自他の世界観の区別を捉えていきます。


嫌みにもなってしまうと思いますが、先述した「ありのままのあなたでいいんだよ」という感覚は、実に正しいと思うのですが、その言葉の捉え方や使い方によっては、不都合な外的要因や自己の内面さえをもないがしろにして、逆効果とも思える程に、自分というひとつの存在やその個から繋がる別世界に対して「自滅」を促す、それこそ魔法の呪文に感じてしまうのです。

なぜなら、人とは、自分という存在こそがきっとなによりも捉えることが難しく、不都合で不可解で、実は誰よりもその存在の不確かさに常に晒されて生きている生物なのではないかと感じるからです。


故に「ありのままの自分」なんていう存在こそが、この世界で最も不明な存在なんです。


即ち「ありのままの自分」という思考は限りなく幻想に近く、真理を妨害する壁にも成り得てしまい、場合によっては思考の逃避行として利用する癖がついてしまう処世術になることもあれば、逆にその曖昧な幻想があるからこそ、人は不確かな世界の中で生きて行けるという理想郷としてのセーフティーゾーンでもあるのは確かです。

なので、一部の都合のよい捉え方をすることに慣れてしまった人の脳にとっては「ありのままの自分」という観念こそが、なによりも人間にとって都合いい「不都合」になる恐れを感じます。なので各々の思考や観念の在り方によっては、そこには表裏や光と闇のようにバランスが両立しています。


「ありのままの自分」という罠がそこには存在します。


決して間違った概念ではないのですが、その人間の持つ特性を利用する世界の住人も存在する現代社会と感じますし、一部の新興宗教やカウンセリングなどの冠を掲げた一部のセミナーなどの原理にも利用されていると言っても過言ではないでしょう。

また、商業主義や広告主義的な広告や宣伝のセオリーにも現代社会では多くの人達が社会に善かれとその概念を気がつかずに利用していると私は感じています。私が商業デザイナーとしてそんな広告を作る立場の場所に在籍しているのですから、その手法が存在することをよく知っています。

私はそれを忌み嫌って、そんな拘りがどうしても邪魔をして、ずっと心に合ったジレンマを認め、いまこうしてやっとそんな世界から手を切ることに踏み切ったとも言えます。故に現代の商業主義社会において、俗にデザイナーと呼ばれる、広告におけるグラフィックデザイナーという社会的職業が、私は向いていないのです。

しかし、それをまるで「生きづらさ」として自身に強いて、惰性的にも容認してきてしまったのだと思います。そこにはまたこの世界で生きる上で、在る意味で「生きる実感」を体感し、置き所の無い自我と自己の存在認識として感覚を預けるのに最適でもある回路。

人によっては、自らを傷つけてまでも安堵したい行動をする程に、「自分の存在」というものを実感したいのだと感じます。だからこそ「本当の自分」という「ここではない場所」のような思考の逃げ場として生まれる世界。「ありのままの自分」の反面世界「生きづらさの罠」が存在します。


「ありのままの自分」と「生きづらさ」は表裏一体なのです。


苦労や時には魂やエネルギーをすり減らすような苦労や苦痛を越えたり、困難を乗り切り終えたりする快感は「生きる実感」として誤認し、さらに困難な状況を許し、またきっとどこかでそれを歓迎するようにもなる気がします。

その逆境が反対に自分の存在を承認し、反面の精神に安定を与えていると意識は誤解するのです。そして、自ずから「不都合な状況」を求め、招いてしまっているのではないかと思えます。

困難に立ち向かい努力する快感による「生きる実感」のご認識、まさに「努力の落とし穴」のような人間の表層意識の誤解に人間はついつい生きてしまっている。

またそこには、そのように生きて、それこそ真理や「ありのまま」をわざと見えなく、考えなくさせるような社会構造や教育原理がこの世界のデザインコンセプトにはあるような気もします。

即ち思考の方向次第では「ありのままの自分」が此所以外に存在するという思考や観念こそが、まさに「生きづらさ」を認知する行為そのものとなり、さらに困難や苦悩という「不都合な状況」を創出しているのです。

いまはあくまでも主題に添って、ある意味でネガティブな要素を書いているかもしれませんが、もちろんポジティブなこともたくさんあります。そしてまた、それらのすべてがあったからこそ、いまの自分はあるのです。


この世界は、必ず明暗の相対的なバランスによって構成されているのです。


そんな人間の都合のいい概念の代表格とも言えるであろう「幸も不幸」「都合も不都合も」すべては、潜在意識下の自分の本体とも呼べる純度の高い自分自身が、どうしても煮え切らず、ご都合良く、言い訳ばかりして、ずっと変わらずに濁っていく鈍化する外側の自分に対して、何度となく、これでもかこれでもわからぬかと「気づき」によるサインを演出してくれていたようなものです。

それは見方を変えれば、「もうやだよ」「もうやめてよ」「そんなことやるのはあなたじゃないでしょ」「助けて」「私に気付いて」と必死にSOSを送っていたとも言えるのかもしれません。

そんな他者であるかのように自分の本体とは存在し、その関係が離れ、本道から反れてしまうほど、軌道修正をするために、姿形を変えて自分の前に現れてくるのかもしれません。


「不都合な自分」という愛情深い存在として。


おかげさまで、そんな不都合なご縁よって、私は約20年余りの歳月を経て「私は向いていない」という結論に気がつくことができたのです。実際は、かなり前からそのことには気がついていましたが、どこかでないがしろにしてしまって来たのでしょう。

その度に、何度も何度も「苦手な自分」「不都合な自分」は、姿や名前を変えて「不都合なご縁」として、私の前に訪れてくれました。

何度も何度でも私が不義理を働いても「不都合なご縁」は律儀に、根気強く、私に会いに来てくれました。幾度となく裏切られても私を見捨てなかった、とても愛情深く、慈悲深い存在に感じます。

確かに長い期間をそんな結論のために費やし、その結論さえも、私の勝手な捉え方による世界観ではあるのですが、本当にありがたいことです。


なぜ人は、不都合なご縁と巡り会うのか?

その理由として、捉え方や表し方はそれぞれだと思いますが、「逆境」や「障害」でもあり「苦手」や「苦境」という「不都合なご縁」により、そこに感じる「違和感」や「嫌悪感」を捉えることによってはじめて「そうではない自分」という者に気づき、自他の境界を感じ、存在と世界を捉えることが可能になるのだと思うのです。

人は「不都合なご縁」によってはじめて「ありのままの自分」を見つけ出していく存在なのです。

つづく ──

20170310 22:43




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