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すべては感謝に変わるまで 《さよなら商業デザイナー(20)》

── 前回「なにがいいんだかわからなくなるんです」の続きです

人の喜びこそが「品質」であり、人を生かす「まごころ」の品質こそが「豊かさ」の価値である。

「品質」とは、人の「喜び」であり、「豊かさ」とは、人が「生きる」上で、より多くの「喜び」を与える価値にあるのかもしれない。

その「多くの」とは、物や数の多さとしての「所有」という値などではなく、またその「喜び」とは、社会や時勢において作られた基準による一時的な欲求を満たすものではなく、人が人としての本質の命が足る「需要」であり。

その「人」とは、人と人の間に在る自然や世界そのものでもあり、またそのすべては「自分」であって、誰かの喜びを想う心が、自分の喜びとして「必要」なのであり。

その「まごころ」を想い創造される「感謝」こそが世界の「品質の価値」なのではないかと思いました。


前述した「すごく嬉しそうなんです。いいなぁ。よかったなぁ。って、思うんです。」というこぼれ話を経由した上で、私のある意味で本音のような、見解のような心を、結論的な言葉にするならば、こうなります。

これは言い切りますが、このような観念は、未来はわかりませんが、また過去も知りませんが、あくまでも現代の商業社会では、不要な理念です。ましてや職業社会での広告やデザイナーにおいても、心で想うのは勝手ですが、こんな視野は仕事をする上で邪魔になるだけです。

いかにも理念的で、ある意味バカバカしくなるようなことを書いてしまっているかもしれませんが、私の思う「デザインする」という行為は、そういったそれこそ理念が、本当は私の中に古くからあることは間違いないです。

似たような思考を前述も致しましたが、気がついた頃には、そんなことが自分の中にあって、だからこそ「創作」をすることが幼少の頃から好きでした。きっとそれしか褒められたことがないような幼少時代でしたから、自ずと然り、そういう人生になっていったのでしょう。

しかし、こんな私の思考や観念が、社会的職業人として商業デザイン業務をするにおいて、これまでとても邪魔をしてきたのだと思っています。


削ぎ落としてやっと迎え入れてくれる「自分」がいる。

はい。最後に来て、完全に脱線しましたね。「半生を振り返る内省の旅〜自分に会いに行こう」というような、ここは自分語りのお題ではないのです。
不要な感情を削ぎ落とすように、鬱憤を吐き出してスッキリしてくると、そんな理念的なことを言う自分が出てくる。

そしてこうしてある意味、急いで茶化す。もしかするとそんな自分が自分であることを躊躇して誤摩化して生きて来た私がいるのかもしれません。

もちろんそういうものも社会で生きる上では「バランス」という必要な要素だとも思っていますが。ある意味でそういう自分を隠し、それはまたきっと怯えて守っていたとも思えますし、どうにかこうにか偽り、いかにもデザイナーらしくふるまい装い、いつのまにか「上手く」なった自分がいます。

人生とは面白いもので、やはりいつかは向き合わねばならないようです。なぜ、そんな自分を形成したのか、それは既に自分の中では薄々感づいていますが、いまはそんなことを考える主題ではありませんので、ここでは触れずにおきましょう。

しかし、本当の根源は、そんな個人的な人間的な部分にあるのでしょう。表向きな、それこそ社会的な一面として「さよなら商業デザイナー」という主題で書きなぐってきましたが、本当は、私がさよならしたいのは、そんな「上手くなってしまった自分」なのだと思います。

社会で出会う多くの常識とは違っているから、楽しいノリを壊すから、友達にめんどくさい奴だと思われたくない、世間になにを言われるか恐いから、または本当は自信がないから誤摩化しているとも言えるような。

はたまた、そんな自分がいたら家族が心配するから、お父さんにいい子だと認められたいから、お母さんを悲しませたくないからなど、つまりは「愛されたいから」というような気持ちが本当は隠れているのかもしれません。

愛されるなら「自分のあるがまま」を愛されることが本来であれば「喜び」なのだと思うのですが、「こうでなければ愛されないかもしれない」という恐れが、人はいつからか芽生えてしまうこともあるのかもしれませんね。


「さよなら」ができる自分になるために。

喜びや楽しさが思い出や未来を明るく彩るように、どんな不遇や不幸にも思える過去の人物や出来事などによる「不都合な思い出」が、どこかで現在や将来の自分にも影響を及ぼしてしまう。

そのような感情の絡んだ人間関係の話ではなく、ただ私の職業についての引退話ではあるのですが、「生きづらさを感じている人」や、なにかに「さよならしたい人」に、もしかしたら役立ったなら嬉しいと思う気持ちもあって、すこしだけ心理学的な視点も含めて書いてきました。

そういう面では、本当はもっと書きたいことがあるのですが、それを表したりする前に、この主題で書いて来たような私の中の「不都合な自分」を解消しないと、ここから先は上手く進めないかもしれないという感覚があったため、まずはある意味で「負の自分」を終える作業が必要だと思ったのです。

「左様ならば」と、「そうであるならば、ここでお別れと致しましょう。」と、このある期間の人生に句切りをつけることができる「そうである」必要に応え得るだけの理由。

そんな「さよなら」ができる自分になるために、乱暴でまとまることも出来ないような形でしたが、ここまで書き出してきました。


さよならを「伝える」とは、なにを伝えることなのか。

この主題を書き始めた当初は、これまでの不都合な経験の数々に決別を当てつける一言として、暴言でもぶつけてやりたかった気持ちが少しだけあったのですが、それはもう変わってしまいました。

本当に別れを決意した時に、さよならを伝えるなら、なにを伝えるだろう思う自分がいます。人間は、わだかまりがあるうちは、別れたつもりでも、本当の心では「さよならできていない」ものなのではないかと思うのです。

それはきっと人同士であれば、告げる側だけでなく「告げられる側」も同じように、わだかまりなどの心残りがあるうちは、別れから何年も何十年も経ったとしても、ある意味で「左様ならとは思えずに」本当の意味では「さよならできていない」のかもしれません。

だけれど、急ぐ必要はないのです。まごころには時間は存在しません。

私もこのさよならには10年以上があっという間に過ぎる程に、それは「必要な時間」でしたから。私の場合はきっと「商業社会」への決別と同時に、「自分」から「自分」へのさよならを告げたのだと思いますが。

そして長い時を経て、伝えることができたり、届いたりすることもあるのが、人間の心であり、それが「さよならの時」なのだと思います。


すべては感謝に変わるまで「さよなら」はできない

20年余りの思いを吐き出し捨てた今となっては、私の中にはあまり言葉が残っていないことでしょう。あとは何が残っているでしょうか。きっとそれが一番書きたかった「さよなら」の一番大切な要素です。

私が思い感じるそれは、「すべては感謝に変わるまで、さよならは伝わらない」のだと思うのです。ある意味で、すべての時間や過去の記憶の中の、正も負も、光も影も、都合も不都合もすべてを心が許し認めて、過去の思いに捕われずに、まるで忘れるように感じられて、思い出が風に流れる時。

そんな自分になれた時。つまりそれは、いまを生きる自分になれた時です。
いまを集中して、いまを充実して生きること。それはこれまで書いてきたような不満を持つ自分ではなくて、そんな不満や不都合さえも認め自分に活かしていく、それこそ、自分のままでなければそのように生きることは難しいでしょう。なにも理想論を言っているのではないのです。

これからも多くの不都合な出来事にはきっと出会っていくでしょう。しかし、それもご縁であって、それを引き寄せているのも自分、またそれをいかに捉えるのかも自分。そしてまた、そのご縁をどのように成就させるのかも、すべては自分。

時には、不満を片付けたり、逃げるというのも必要な時もあるものですが、本当にやっつけたいほどの不都合ならば、それこそ完膚無き程に駆逐してやらねばならないと私は思うのです。その戦いには勝ちも負けも無いかのように、それは即ち必勝こそあれ、いつか向き合わねばならないと思うのです。

「必勝」と表現しましたが、たぶんその捉え方がその戦いにおいて大切なのだと感じるのですが、その意味を、どうか勘違いなさらないでほしいのです。


感謝の想いが縁を成就して「さよなら」を完成させる

その戦の相手は「自分」でしかないのですから。そして勘違いなきようにというのは、その戦においての勝利とは、不都合な他者や事象や記憶を打ち負かすかのようなことではなく、また、もうひとりの不満な自分を消すという行為なのでもないということです。

そしてまた、無理矢理に「和解」させるようなことでもありません。和解を強請するのも責めていることとなんら変わりませんし、ましてや「和解」と言っている時点で、一方を不都合と見なしている証拠だと思います。

なんというか、善悪と言ってもいいですが、本来の心地よい自分と心地よくないがために過剰だったり粗く重くなってしまったようなもうひとりの自分、そんな両者を認め合ってひとりの自分に戻すこと。そして勝者はひとりの「自分」に還ることなのです。

即ち、不満や不都合、嫌悪や恐怖、そんな自分を克服するとか支配するなどという征服的な思考ではなくて、ましてやそんな自分は本当の自分ではないというような逃避的な幻想でもないのです。

なんだか法廷の話をしているかのようですが、この現代の「裁判」というシステムも、実は商業主義と同等に、現代社会を「勘違い」させてしまった概念的なルールだと私は感じています。善悪という観念を偏らせてしまう原因がそこにはデザインされているように感じます。

つまりはバランスを取り戻すことだと思うのです。好都合や不都合のどちらかに偏るかのような、そんな一方に押し込んだ偏向的な自分は必ずいつか、大きく歪み反り返し揺れ動き勢いを増して一気に引き戻してくる時が訪れます。

そんなアンバランスな自分と成すのではなく、バランスのよい自分に還ること。それはきっと正負も明暗も上回った、即ち、そんなことはもはやどうでいいと思える現在の日常の世界に生きる自分がいるという状態です。

ただ、いまの自分を活かして、そんな過去の自分さえも幸せであるように、そんな時もあったからこそ、いまの自分があるかのように、いまを生きられる自分であろうよ。と思うのです。


さよならを伝える宛先は自分へ贈る「いまのわたし」

タイムマシンでもあったなら、または時間を超えて届く手紙とかがあったなら、過去の不安や不満に揺れている自分に宛てて、送るようなものです。そこになにを書くのか。それがある意味で「さよならを伝える」ということだとも思えるのです。

未来の私はあなたのおかげで、いまを生きてるよ。ありがとう。と、「大丈夫だよ」と、書ける自分で、いまからの毎日を生きることをちゃんとはじめればいいのだと思うのです。

そんな手紙が送れるなら、明日の自分はどう言うかはわかりませんが、いまここに生きる自分なら、どう考えても伝えたいのは「感謝」なんです。

人生は自由ですが、間違ってもそこに「お前のせいで」なんて、私は書きません。

ましてや、過去に戻ってやり直そうなどとも微塵も思いません。俗に言う「後悔」があったとしても、それありきのいまの自分なのですから。

そういう手紙のような、それがきっと、前述した「長い時を経て、伝えることができたり、届いたりする人間の心」つまりはきっと、ご縁へのご恩に対する返信のようなものなのかもしれません。そしてそれによって、その関係性は成就し、ご縁は完成し、また完結するのです。

なんだか最後と言いながら長々とまだ出て来てしまいましたが、要は、もっと単純で、要はそんなことすら気にしないと思えるくらいの「無心」だったり「無垢」だったりな自分であればよいことです。そうあれるような生き方や感性というか、「素朴」であるのが一番いいのかもしれません。


いや、なんか違うな。。。ちょっと待って。

これだけ書いて来たのに、なんか自分で腑に落ちません。最終回のつもりだったのに。これではまるっきり理想論をぶちまけているだけではないのだろうか。

人間そして感情も心も思考も、そんなに簡単にいかないからこそ人間なのではなかろうか。だから生きているとも言えるのではなかろうか。

「すべては感謝に変わるまで」確かに、正しいと思います。そうであることができるなら、これで間違っていないと自分でも思います。

しかし、これはもはや、私は自分に言い聞かせようとしているだけなのではないであろうか。そして、あたかもいまの私の心持ちはこうであるかのように、自分に思い込ませて、早々と切り上げようとしているのではないだろうか。

確かにそう言うのなら、この主題のすべてがはじめからフィクションで、商業デザイナーを引退するまでのドキュメントに乗じた自作自演のドラマ的要素で自らをただ引退に導こうとする言い訳を正当化した結末になりそうな気配に、自分自身違和感を感じています。

つまりは、陰あるからこそ陽があるのではないかという疑念です。それはこれまで書いて来た「不都合あるからこそ本当の自分に出会える」という思考と同じではあるのですが、バランスを法則としてしまうと、不都合が消えれば、好都合も消えてしまうのではないかという正論がそこに生じます。

そうであれば、感謝に変われば、またそこに反作用が生まれるわけです。そうなると「感謝」が陽であるならば、陰という反作用こそが「さよなら」という別れということにもなるのでしょう。

そうです、人間は「別れ」をなぜかネガティブに捉えて生きる生物です。それにある意味で世俗的な物言いを挟むなら「別れたいのなら感謝しろ」という理論も一部の人間では生まれてしまうかもしれません。そんな状況にあれば、「そういう感謝にほど遠い人だからこそ別れる」と言い放ってしまいそうになります。

いや、そうならそれで別れられるのだから、結果、そんな人と無駄な人生の時間を費やさなくて済んだのだという、結論「感謝にほど遠い人でありがとう。おかげさまで早々気がついて決別することができました。」という感謝ができます。ということは、やはり間違ってはいないのではないでしょうか。


「さよならよりも前に」ただ一歩、歩みだすだけ。それが人間。

ただ、人間とはそんなに簡単なものではない。その部分の理解というか心情が、私を腑に落とさなかったのでしょう。

マイナスあるからこそプラスがある。こんな短所があるからこそ、こんな長所がある。愛情ある故の寂しさもあれば、人情ある故の放っておけない悲しみもある。バランスが大切なことは確かでも、心が辛くおぼつかず、そんな生きづらさとはとても感謝できない心情であることも人間ならばわかることです。

解決や完結など、人生において、そんなはっきりとしたことなど、とても稀で、時に酷で、難しいこと。それに向かって「だからこそ生きる価値がある」と、それもまたそんな逆理論的な意味合いの誰のとくにもならない言葉です。

すべては答えのでないと言えるような、答えなどないと思えるような世界に生きる。それでも実際は、そこにこの世界をデザインしているという「意図」があるのだと私は思う人間なのです。

それは「摂理」とも言えるものなのですが、不確かさも確かなものも、偶然でも未知でも、それこそ知でも無知でも、既に「在る」創造されたものには必ず「理由」や「目的」があると感じるのです。

そういう話は、これを書き終えてこそ、やっとひとつひとつのピースを集めるかのように(出来れば次こそはもっと丁寧に)本編を話し始めたいと思っています。だからこそ、あえてその前にこの主題を乱雑でも急いで書いたのです。だから、ここでさよならするのです。

さよならの理由だとか、そんなことをぬかしてきましたが、心や状況は既に思い立った時から、もう動いているのも常です。人間とは決断するよりも前に、一歩踏み出しているのですよね。単純にもう言っちゃったし、辞めることはいまさら辞められません。


不要なものはないと感じる心の姿勢が「自分を認める」バランスを取り戻す

そして、この話を最終的にまとめるように行き着いた意見として、そうなると、今回この主題において、私が執拗に責め立てたかのような「商業主義」という社会。

それが私が言うようにたとえ「作為的に不幸を生み出すために意図的にデザインされた」ものであったとしても、そのイズムもまた反面の反面ということであり、相対性の世界のバランスであるならば、すべてにおいて、いま在るものは在り、不要なものは存在しないということになります。

即ち、現在の誰かの世界の需要にとって「現代商業主義社会」は必要なのです。

そうなるとやっと事実が見えてきました。私自身もその「現代商業主義社会」が必要であったということです。たとえそれが反作用的なものでも、私は、それを否定することによって「現代商業主義社会」を必要としていたと言えます。

そしてまたその社会から、数々の恵みをいただいてきたのもまた事実です。職業として、多くの方に社会の中でご縁をいただいて、その恩恵によって私は生かされてきたのです。それは本当に感謝に尽きます。

そして私はその社会の中で生きて、だいぶ偏ってしまっていたことを認めます。いつからかバランスを崩し、つまりは、心の姿勢が悪くなっていたようなものです。姿勢が崩れるということは、心の軸が歪み、その感性もぶれることでしょうから、有り難いご縁にも気付かずに過ごしてしまっていたことでしょう。

私に必要なのは、勝者が歴史を塗り替えてしまうような、まるでそんな、なにかを分割して捉え一方が良くてもう一方が悪いなどのような捉え方ではなく、そのバランスの必要性を感じ、またそのバランスこそをデザインしていくことなのだと感じます。

前述しましたが「商業主義」にさよならしても、現代を生きる以上、商業社会からは逃れることはできないことはわかっています。というよりも、「商業」が悪いとかそういうことではないのです。「商業」ではなく、現代の「商業社会の在り方」というデザインにバランスの悪さを感じているのです。

どんなに否定をしても、まだまだこの社会で生きることは変わらないのですから、いま私に必要なのは、その社会の中で、自分がいかに生きるのかが重要なのであって、その社会といかにさよならするのかではないのです。

これまでやってこれたのもまたそんな社会のおかげさまです。それでもそんな社会の中で、多くのご縁や、長い間に学んだすべてを活かして、私なりの恩返しが出来たならと思っています。


すべては感謝に変わるまで、不足な社会は終わらない。

この別れにおいての気持ちは、もうだいぶ前から私の中にあって、それをこうして長い期間を経て、いまやっと「さよならを告げた」のだと思います。だからこそ、人は選択の前から無意識で決断して、既にその方向に歩き始めているものというのも、納得できます。

ということは、私はそれこそこれから「さよならの意味」を探しはじめるのです。いつか顧みたときに、「あの頃のおかげで」と思えるのか、「あの頃のせいで」という自分でいるのか、それが決まるのも、これからの私の生き方にかかっています。

人生は常に、これからが未来という「現在」の連続であって、人生とはそんな「いま」が連結して成すひとりひとりの肖像画のようなものです。未来も過去も通して、その人生の自画像をどんな色で彩り、どんなデザインで描くのかは自分次第なのですよね。

「さよならの成就」とか「完成」だとか、あたかも「正解」があるかのような口ぶりで述べてきてしまいましたが、本当はそんなこと生きてるうちにはわかるものではないのでしょう。ましてや人間の人生とは、正解とか不正解とか、成功とか失敗とか、そんなものではありません。

さよならしたいしたいと思うから、さよならなんてできないのです。きっと人間は「はじめる」ことしかできないのです。さよならするなどと考えているよりも、ただはじめるだけなのです。そう思うと、「さよなら」は終わるのではなくて「はじまる」のです。

私がこれからの常に、どんな「いま」を生きているのか。それ次第で、未来も過去も変わるのです。そうしていつかの未来に、私はこの世界にさよならを告げるでしょう。その時なんて告げられるでしょうか。できれば「ありがとう」と言える人生でありたいです。今日の日のさよならの返事が、そんな便りであることを、未来の自分から届くことを待ちたいと思います。

だからそんなこれまでの、謂わば「足りなかった自分」に、そしてそんな「不足な社会」を作ってきた商業デザイナーに、さよならを告げるのです。

そんな「不足の需要」が「感謝」に変わって、「左様なら」と満ちる自分で在れるような、そんなデザインを誰かがはじめるまでは、それまではきっとこの社会の在り方は、終わることはないのです。


さよなら商業デザイナー

前述した「子供たちの画用紙の青空」のように、素朴な自分が思うのは、私の場合は「純粋にものをつくりたい」その一言なのです。そして、なんの需要などにもとらわれず、なにかの為でもなく、ただただ理由も無いほどの必要だけを描いてみたいのです。だから、商業デザイナーを辞めるのです。

まるで、陸に上がった魚のような自分を感じるのです。しかしそんな世界の中でも「水」を見つけて泳ぐことはできるのだと思うのです。

時には、変容し肺呼吸を身につけたり、ヒレを手足のように進化させることもできるかもしれませんし、いっそのこと陸を上回り翼に変えて飛んでしまうのもいいかもしれません。

そしてどこかに小さな水たまりなんかを見つけて、そこで時代が変わるのを待ちわびるのもいいかもしれないですが、もしも私のような人間が、どこか他にもいるのなら、今後はそんな世界の訪れを拒否せずに、迎え入れたいとも思っている自分がいます。

そして、そんな似たような息のしづらさを感じている人達や世界が、すこしでも安息できるようななにかを、これから私はデザインしていきたいと思っているのです。

「もう一度、純粋にものをつくりたい」という創作への思い。それは私として、また仕事や事業すべてにおいて、やはり一番に大切に成し続けていきたいと思っています。

「さよなら商業デザイナー」それでもそんな社会の中で、こんな私だからこそ、なにかできることもあればよいですね。

左様ならば、一旦ここでお別れと致しましょう。ごきげんよう。


あとがきにかえて

「さよなら商業デザイナー」というお題で、ここ2ヶ月余り連続したコラムっぽいものを書いてきました。一応、前回で最終回とさせていただきました。そして現実でも、設定していた期限も過ぎ日付的には「商業デザイン部門」を閉めたわけですが、まだまだ残務的な処理と新展開への準備や他部門の業務などは続きますが、ある意味で心だけでも小休止しようと思っています。

思いのほか長くなりましたが、期限までで幕を閉じるために無理矢理にも最終回と致しました。期限に近づくにつれ、1回の掲載文字数がどんどん増えてしまったので、そんな自由度はネットだからこそ、ほぼ無限に出来ることですが、しかし面白いもので、あまり長文だとネットでは読まれない可能性が非常に高くなるものです。

しかし、今回は「読む」より「書く」ことを優先しました。はじめにも書いたように、気持ちや思考を解して書き表すこと自体の練習としての目的があったので、それが何よりもの優先事項と考えていました。

おかげさまで、だいぶ「ほぐす」ことが出来たと自分自身感じています。そんな中でも、コメントなどの反応をいただけたり、とても嬉しく、そんな反応があると、乱暴に書き連ねているいまを少し恥ずかしく思えたり、なんだか勿体なく感じて後悔したり、そのような気持ちになりながらも、とにかく終わらせたかったことを優先しました。

そんな中で、お読みいただいた方、ありがとうございます。


さよならの時は押し出されるように自然に訪れる(本音)

どのみち引退までの心情整理としてのものだったので、内容も要点やテーマ性までもがグチャグチャなままで、読みづらいものになったものだと自分でもきっと二度と読み返しはしないだろうと思っています。いま書き終えて自分に言うのならば。

「文句ばっかり言ってても、報復するかのように、嫌いなことを追及していても、なにも変わりゃあしない」そんなことに時間や自分を使って、社会や他者や自己へも含めた否定のような批評に見せかけた自己肯定論を興じるような。人間、そういうのも、そういう時期などもあってよいのですが、それこそ、ある意味で「論」にかこつけて、長年の鬱憤を盛大に晴らすというような内容でもあったのかもしれません。

書き終えたなら、もう、次へ行こう。そんな感じで、あたかも溜まっていた「鬱憤」を出し終えたらスッキリしていればよいかなって、いまは思っています。そう、鬱憤は押し出されるんですよね。

その中で後半「さよなら」についての内容が多かったと自分では感じているのですが、もうひとつだけ本編には適していなかったので書かなかったことがあるので、あとがきにかえて、少しだけ記しておきます。


アウトなタイミングで追い出されちゃうもんなんですよ

経験上で感じるのは、タイミングなどとも言えるのでしょうけれども、案外「さよならの時」というのは、結構、自然的な流れのような感じで、意識はなくとも、「追い出されちゃう」もんなんですよね。場面や関係性で言葉は変わりますが、要は、自分は変わるつもりはなくても、自然発生的に変化は訪れてしまうものということです。

成長によってもそうですし、どんなにその場所に居たいと思っていても、どうしても状況がそうなってしまう。気に入った職場でも突然倒産により離れなくてはならないとか、大好きな仲間たちでも、不測の事態により、糾弾や時には汚名をきせられるとかで、そこから離れざるを得なくなったりだとか、どうしても「押し出されちゃう時」が人生には訪れたりします。

アスリートや技術職なんかなら、身体の避けられない事故や障害などもそうですよね。それでもその場所に踏ん張っていると頑張っても、やはり、いつかは追い出されちゃうものです。逆に言えば「次あるからこそ」どんなに粘っても、鈍感でも、猶予ギリギリのアウトなタイミングで押し出されたりするものだと思うのです。

そんなタイミングが人生にはあって、そのタイミングの知らせを意識的に無視することは出来ても、または抗い抵抗することはできても、それはきっと「変化の時」を逃すことなのだと、これも経験上そう感じます。

そんな「追い出され押し出されちゃった」ですが、ポジティブに捉えるのなら、それは「次のステージ」への移行だということです。または、元のステージでの卒業や定年や、言い換えれば「寿命」なのだと感じています。

課題を終えれば、または、契約期間が過ぎれば、多少の延長や余力や猶予はあれども、必ず寿命を向かえて、押し出されるものだと、私は捉えています。寿命なんかとっくに越えているのに、まだ迎えの来ない方は、きっとまだなにかそこでクリアしなければならない課題が、良くも悪くも、あるのかもしれないですよね。

今回の「商業デザイン部門」からの、謂わば変化も、私の中では、避けられない自体だと感じる、幾つもの事象が、本当はあります。これ以上続けていると大変な目に遭いそうだなと、本音ではそう思っている自分がいたのも確かです。そういうことは、ここでは書く内容ではありませんので、やはり、書き表すということ自体がフィクションではあるのですよね。


わざわざ否定に向くより、肯定的な自分の世界にいま顔を向けよう

この「さよなら商業デザイナー」というテーマ(マガジン)ですが、ここで第一章は終わりにする形をとって、あえて特に第二章的には、きっとなにも書かないと思っているのですが、今後は「商業主義」にまつわる事象や社会について、どうしても書きたくなっちゃったことがあったなら、これからは短編のコラムとして書いて追加していく事もあると思っています。もしも、あまりにも内容が変わった時は、タイトルや主題も、その時に変更することでしょう。

大きく分けると、今回書いてきた内容の中には「創作やデザインの創造哲理的内容」「人生における摂理や心理分析的内容」「商業主義社会への疑念からなる社会構造の道理的内容」の3つの要素がグチャグチャに含まれていたと思うのですが。

本当は書きたいことがあって、そのことを書くために、まずは不要な部分をここに書いて整理するためと、この主題の本文内にも述べたように、先述の「商業主義」については、ここでほぼ終わりにして、これまでの内容では、あえて避けたり、深く書き進めることを止めていた部分をこれからやっと書き始めようと思います。それらを書きたいがために、まず自分を縛り抑えつけてしまっていた「商業主義」についてをはじめにまとめて削いだのです。

つまり、その他の2要素「創造哲理的内容」と「人生摂理と心理的内容」を、今後はゆっくりと書いていきます。これらは、今後の私の仕事にも関連するテーマなのです。

そのように今後は、わざわざ嫌いなことに顔を向けるよりも、その逆側に楽しく表していくほうがより創造的だと思い、それこそ嫌いな自分をやっと辞めたのだから、今後は有意義に思える自分の視点ではじめるかという気持ちです。

老い先もどんどん短くなりますからね(笑)この人生を追い出される前に、楽しく作っていきましょうよ。未来を。って、思ってます。さんざん不満を書き連ねてきましたが(笑)

そう。あれから、そんな不満の憤りのある意味で正体が見つかりました。


人のエゴがデザインを崩し、広告に嘘をつかせている。

あと書き終えてからひとつだけ気がついたこともありました。それは私が商業デザインの中で、憤りを覚えることのポイントについてです。書いている間は気がつかなかったのですが、本当の「憤りの原因」に今更ながら気がつきました。なので最後に記して、さようならです。

それは、クライアントとの打合せや修正等も含めたご要望に適えていくうちに、当初は率直に「商品のため」や「顧客消費者のため」にあったデザインの目的が、ある時点から急に別の要素が入り込んでくることが多かったのです。

私はそこで、急に興醒めするかの如く、クリエイティビティや意欲や意義も、その時点で失っていたことに気がつきました。その謂わば、要件が変わってしまう瞬間。入り込む別の要素とはなにかというと。
それは「エゴ」です。

クライアントの個人的エゴが出て来た瞬間に、謂わば、商業デザインという広告的仕掛けは、崩壊します。

とても漠然とした曖昧な言葉で、多分、多くの方には理解されないどころか誤解もうけてしまうとは思うのですが、これ、とても正直で事実です。広告こそが虚飾的演出効果なのですが、その虚飾にクライアント自身が乗っかってしまうといいますか、手を染めてしまうと言いますか、そんな時点がたまに訪れるのです。

そこに気がついた時、思いました。広告が嘘をついているわけではない。人のエゴが広告に嘘をつかせているのだと。そして、そんな瞬間に、私は「商業デザイナー」を辞めたくなってしまったのです。

以上、これにて完結。「さよなら商業デザイナー」でした。


よく「デザインとアートの違い」を語る方も多いですが、アートがたとえ個人的な創作表現だとしても、誤解をされる方も多いと思うので、これだけはこの話の流れで言っておきますが、「アートとエゴは全く別物」です。

── そういうことなどの、この続きは、またこの先の機会にて、書いていきたいと思います。

お読みいただいた方、ありがとうございます。
(最後の最後まで長くなってしまいましたが)

つづく ──

20170403 19:12

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