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「憤り」の実体を暴く 《さよなら商業デザイナー(5)》

── 前回「「憤り」の正体を追って」の続きです

「憤り」の実体を暴く

── その「憤り」の正体とは「怒気」と「呆気」であるのではないかという点である。そのことについて、少し向き合ってみようと思う。──《前回「「憤り」の正体を追って」より》

序章的とも言えるいまこうして書いている内容。時に逸脱したかのような、いささかサイコロジー的な要素に展開してしまうのだが、「憤り」の実体を考察する視点から、今回は率直に向き合ってみたいと思っている。

なぜならば、人間の感情としての「憤りの正体」を暴きだしたい気持ちがあるからである。もっとも十人十色千差万別にして、事象に対しては、様々な状況がある上で一元的には当然言いきれはしない上、他人や別人格の事象については判断すら不可能なことは前提とした上で。

そのことは先述したように、すべては各個人の捉え方次第でこの世界は出来ているということに前提がある。


あくまでも私の場合は、これも先述しましたが、商業デザイン業務における私の憤りの正体は「怒気」と「呆気」と捉えています。

怒りと呆れ、それはどこに向けられている感情なのか、またそれはどこから来て、どこからそれは生まれるのか。

まさに一言で表せるだろう。それはやはり「人間関係」であると提言できてしまうのだと思う。しかし、そんな簡単な結論に安に至ってしまってよいものだろうか。そう定義すると、バカバカしい程の結論に至る。


つまり、「私、あのお客様が苦手なんです!」と言い放つ結果となってしまう。無論、確かにそのようなことは人生で多々あることは、きっと誰もが経験として知っているだろう。

そういった相性というものは確かに在るし、それもまた事実であることは認めた上での話として。


そしてこの話にそれを当てはめたならこうだ「私、あのお客様に怒っています!」「私、あのお客様には心底呆れました。」そしてこうなる「だからもう、私この仕事辞めます!」

『きみはしごとをなんだとおもっているのか』と、お笑いぐさにされるだろう。では、仕事とはなんだ?ということについては、機会が巡れば後に考察してみたいと思いますが、話を戻すことにしましょう。


すべては人間関係の相性と断言するならば、謂わば自分にとって不都合な人間との繋がりを断ってしまえばよいなどという結末を許してしまうことになる。

わたしはそんな、昨今の巷に溢れかえってしまっている優しい心理カウンセリング的な著作や、現時点の日本国内のみにおいてスピリチュアル系と分類されているようなジャンルの書籍などの、ある意味でとても商業的に感じるそういった内容に見受けられる、腑抜けた幸福論のような安直な思考停止にも感じる偏った御都合主義的な人生を、そんな「優しい現世」を、送って生きていきたいわけではないのだ。

袖振り合うにも、そこには理由がある。まるで自分にとって都合の良い人間関係だけを「御縁」と呼ぶ、謂わばそういう次元では、きっとこの「怒りと呆れ」は、不利益な「不要物」として処理されてしまうことになり、永久にその実体は明かされないまま、この世界から「憤り」が無くなるときは訪れないであろう。


そういう視点とは別の逆の回路で、名付けるなら「さかさま心理学」のような方向に飛び越えて視て見ると、そこに見えてくるものがある。

「不都合なご縁」というのは、なぜ存在するのかということだ。

そこから見えてくるのは、不都合なご縁が「怒り」や「呆れ」という感情の生みの親でもあり、その成長した「憤り」の母体であり故郷でもあり、まさに憤りの実体であると当てはまる。


故に「不都合なご縁」の存在を考察し、その実体を暴くという行為には、現世的な優しい幸福を望むそんな現代人にとっては、限りなく危険性があると言えると思う。なぜならその行為こそが、とても不都合な解答を導きだしてしまう恐れがある。

そのご縁が、人物や物体でも事物や事象だとしても「不都合なご縁」という存在自体の必然性を確証することでもあるため、不都合という欠点として「都合の悪い合性」と片付け、封じ込めて蓋をしていた反面の都合が照らし出されてしまうからだ。

これまで不都合として触れずに、隠して見ないでおきたかった反面の要素。即ち「不都合なご縁」という存在の実体における、その個性の優位性である利点や美点。不都合という短所を考察すると共に、そこに顕われてくる姿とは…

… まさに「不都合なご縁」の長所なのだ。


「不都合」という名のご都合主義

自分にとって都合が悪いと自分が判断する不都合な物事、即ちすべての自分にとって「不都合な現実」を考察していくことによって、その名の通り不都合に値する「短所」の実体を暴くということは、その不都合の存在の有意性を認めざるを得ないため、結論として導きだされる実体とは、不都合な現実にある、まさに相反する「長所」という事実なのである。

不都合なご縁、不都合な人間関係、不都合な合性、不都合な出来事、つまり、「不都合」と煙たく片付けて、直視せずに済んでいた不都合の実体は、不都合と呼ぶには正に不都合な実に「都合の良い合理性」がそこに現れてくることとなってしまう。

その結果、不都合と憤ることを自らに許して来た怠慢は、否が応でも事実と向き合うこととなり、もはや「不都合」などとは呼ぶ事が出来なくなってしまった。つまり、自業自得であり、因果応報でもあり、もはや受け容れる他は無い。

不都合な現実の実体とは、理にかなった合理性における率直な結果「不都合な真実」なのだ。

不都合な物事とは、自我にとって都合の良い物事よりも、遥かに実直な自分自身の結果であり、等身大の自分の結果に等しいものなのかもしれない。


この世のすべての関係性は「合性」で構築される。

まさにそう断言してもよいと言える程に巡り会いとはすべて「相性」であり「合性」だと感じる。

人間とは「人の間」、世間とは「世の間」と表すが如く、対となりはじめて事物と成すものでもあると言えるのが、この世の摂理のひとつであるならば、そこにあるのは常に対を繋ぐ「合性」なのである。


思えば、不都合とは実に勝手なものである。単純にある片一方的な、自分や一部の面から見た時の一方通行な視点の判断による解釈によって、安易な我侭ともよべる実に「都合のいい」解釈なのである。

玉葱が嫌いな人にとってはオニオンスープは不都合極まり無いが、パンプキンスープなら都合がいい。ただそれだけのようなものとも言える。

日本のバレンタインデーなども、チョコレート食べられない人からすれば、まるで魔女からの毒のような贈り物、その上それが義理なのだとすれば、まさに義理人情もないほろ苦さである。もちろん愛情は嬉しいことでしょうけれどね。

まるで人類共通の問題と取沙汰される平和や環境や戦争などの時事的な話題も、一部の先進国の都合なだけで、核問題などにおいても、蓋を返せば問題定義を声高に叫ぶ国こそが、核所有国そのものだということこそが本当の人類における「不都合そのもの」だという事実を、時事的な報道や政治的な活動はいつも煙に巻いている。立場が変われば、白も黒なのだ。

不都合な事物という実体とは、常に「ご都合主義」なのである。


そう思うと、ただ単にそれは「苦手」なのだ。苦手な相性がそこにあって、それは自分自身だけの見解からなる一方的な世界観とも言える。

不都合なご縁や合性などと、ややこしくする言葉を取り除けば、そう、単純にそこに存在するのは「苦手な人物像」であり、まさに私が商業デザイナーを辞めたくなってしまう理由は、人物でも事物でも「苦手」な事柄から、そろそろもう決別したいということなのかもしれない。

20年余りの歳月を経て、結局たどり着いたのは単に、自分は商業デザイナーとして「苦手」「不得意」だったのだ!という実にアホらしい結論に結びついてしまった。ならば、向いていない分野に在籍しているよりも、辞めるほうが社会のためである。

社会の為に私は辞めよう。だって向いてないんだもん。


それが答えだと、ここで完結させてもよいのかもしれないが、それでもあながち間違ってはいないと感じているのですが、それこそ御都合主義的なそんな結論からさらに、もう一歩進めてみましょう。

つづく ──

20170305 20:37




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