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本当に必要なもの 《さよなら商業デザイナー(16)》

── 前回「広告よさらば」の続きです

本当に必要なものとはなんだろうか。

この世界がいま求めているのはなんだろうか。なぜいまこの世界はあるのだろうか。どうしていま自分はここにいるのだろうか。

もちろん平穏な心で、しあわせに暮らして生きて、綺麗にいつか死んでいきたい。それはもっともではあります。

私は創作を生業としていて、その中でデザイナーでもあり、三次元でも二次元的な媒体でも、あるいは文章などのライティングなどでも、いわゆる「ものづくり」をしています。

その中でこの度、商業に関わるデザイン業務を廃止することにしました。だからと言って、私は自給自足の生活を推奨する人間ではありませんので、やはり社会と関わらずに生きていくことは不可能なことはわかっています。

そしてせっかく長い期間を通じて得たデザインの技術やノウハウも、それこそ経営的な視野も、そしてなにより「ものを作る」という趣向や能力のすべてを人生にも社会にも役立てたいのです。


ものに関わり、物を作り、モノと生きる世界にあたって

現代は物質文明だとか物質主義だとか言う人がいますが、この世界が三次元にある以上、物質を切り離しては世界が消滅するようなものです。無論、他の次元に移行できるなら、物質以外の生き方や世界の在り方を実現できるでしょうけれど、此所に存在していてその考えもまた、なんだか先述した「ここではない自分」という、本質から逃避するための思考のように感じてしまいます。

ちゃんと此所に立った上で、此所に生きる自分を認めた上で、そんな「物」というものを見つめ直すことも必要に感じます。それこそそこから発展して、この次元や現代では説明のつかない見えないモノを、物質的な理論で科学的に捉え説明が可能になる時代を作り出せるかもしれません。

これまで書いてきた内容と急に大きく変わる物言いをしていますが、デザインや物質の本質の話です。この主題である「さよなら商業」というテーマからはかなり逸脱していますが、また別の機会としてそれこそ別の次元のような「商業デザイナー」を辞めて、社会のしがらみなどからも解放されてから新たに別テーマとして書こうと思っています。


完成させるとは「出会いから別れまでの」の成就である

そのためにも、ここで一旦ちゃんと卒業のように片をつけなければならないと感じ、これまでの20年くらいの想いを書きなぐるようにここまで書いてきました。なるべく簡潔に終わらせたかったので、グチャグチャな話をできるだけ詳細や説明は省きまとめても、結構長くなりましたね。そろそろこのとっちらかった話を完結したいと思います。

「さよなら」だ「完結」だと、簡単に言葉では言えますが、多少先述していますが、人物でも事象でも、その出会いとはきっと理由や意味があるものです。

そして、やはりものづくりの人間だからでしょうか、ある意味でこんなことでも「完成」させたいのです。創作物も同じですが、ちゃんと完成させなかったものが、成就できない感情のように、ずっと留まり続けることがあるのです。「完成」とは、ある意味で「旅立ち」という別れでもあるのだと思っています。

この20年にも及ぶ「商業デザイナー」という期間をきちんと完成させるために、出会いから別れを完結するために「さよなら」をするということは、どういうことなのか。私は何をさよならするのか。どうすれば「さよなら」できるのか。それを最後に向き合ってみたいと思います。


「No」と言えなかった自分との決別

結局はそこなんだと思います。「No」と言えなかった自分がいるのです。時にはルール。時には人情。時には打算。そして「仕事だから」「誰かがそう望むのなら」と、自分の中で妥協を許してしまう。その結果、「No」を正当化し、「No」を認め、「No」を受け入れ、「Yes」までも妥協して、いつのまにか世界は「No」だらけになってしまう。

「No」と自然に素直に告げることを怠って、その代償として不満を描くことによって解消する。そのジレンマでさえも、不満を表現させることで抗い、いつしかそれは「Yes」をありのままに掲げて生きることを拒否することと同じ効果を世界に創出する。

「No」と言えなかった自分との決別。それこそが私がさよならするべき対象であり、そんな自分であったことを認め、そんな世界の構図を捉え、描き直すこと。それは即ち「本当に必要なもの」を確証する前に、必要な工程にも思えてきます。

これまで書いて来た「不都合な事物の出会い」によって、本当の自分を知ることができる。ということと等しいように、「必要」を知る方法とは、まず「不必要」を知ることなのかもしれません。

「No」を示さないということは、即ち「Yes」も示さないということなのですから、他者が自分を誤認識して当然なのです。誰も悪くないのです。誰のせいでもないのです。悪いのはただひとり。「No」も「Yes」も言わない自分。


「必要」と「不要」の整理。さよならという完成型に至るまで。

ここまで書いてきて、最初に設定した期日まであと僅か3日となりました。つまりあと3回でこの主題も完結させねばなりません。ここ後半になってやたらと長文になってきてしまっているのですが、つまりはここまできてやっとアウトプットの扉が少しずつ開いてきたのかもしれないと自分で感じています。

そもそもこの主題は、そんな自分の絡まった思考を解いて、心や感性の扉をこじ開けることを目的とした練習だったので、きっと長文なのでどなたも読んでくれてはいないと思いますが、目的はなかなか解消しているのではないかと思っています。

前述しましたが、大体「目的」があるということは、どんなに自分語り的な赤裸裸や打算的で稚拙な内容であっても、これはこれである意味で大まかな筋書きのような意識から描かれたフィクションなのです。それは自意識でも、または自己顕示的な承認欲求などでも、時には自己愛でも、時には自傷的などに見えても、それは表裏一体で、そこに差はないのです。

完結に辿り着く為に、ここで一度、まとめて吐き出してしまいましょう。そう、いまになって、思う次第です。そうでもしなければ、あと3回で完結に間に合わなくなりそうですからね。さよならという完成型を描き出したいのです。そう、「必要」がもう少し見えてくるためにも、「不要」なことを削ぎ落とすかのように、まとまらなかろうが、長文になろうが、書き出して整理してしまいましょう。

フィクションであるならば、時には過剰な自己演出によって、やっと自分という役柄や人生という舞台をのびのびと生き始める心もあるのでしょう。それこそデザイナーであるのですから、やはり完成とは、そこにはデザインがあるものだと思うのです。想像やラフスケッチからはじまり、最終的には思いもよらぬ結末に辿り着いたりするものですが、やはりそこには偶然という要素はあれども、必ずどこかに意図ある「デザイン」なのです。


20170325 10:38

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