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現代社会に巣食う「需要」 《さよなら商業デザイナー(10)》

── 前回「生きづらさの影のその先にあるもの」の続きです

私は何に憤っていたのだろうか

ここでまず、本題としての当初の課題に戻ります。いま、こうして少しでも「自分に戻ってきた」と推測される私自身として、まだ解決として表していない問題があります。それは憤りの原因についてです。

私は何に憤っていたのだろうか。そしてその憤りの実体は「怒気」と「呆気」だと、先述していました。そこを改めてここで、見つめ直してみます。


私は何に怒り、呆れていたのだろうか。


当然だと言えるとは思うのですが、デザイナーという職業は納期や需要に対して、やはりその都度のオーダーメイドなのですから、それなりの産みの苦しみや労力としてのストレスや疲労は常に生じますし、時間に関係なく緊急の要望にも応える必要性もあります。

そのような環境において、それをまた改善していくのはスキルやキャリアでもありますから、そこで一喜一憂や苦い経験などもあって当然でもあり、その経験も成長も私にとっては喜びです。そこにある苦は必要なプロセスであって、結果として苦などを創造してはいないのです。

なので、私は別に仕事や業務に関して、怒りや不満があるわけでは一切ないのです。職務は全うし納得の上で、なお憤る思いに関して、その原因を考えているのです。その上で、感謝やご好評などのお声もいただき、きっと不満以上の喜びも知っています。


仕事や対人のもっと奥に「憤りの正体」はある


進行や品質や対価など、不満要素にあたることは多々挙げられるかもしれませんが、上手くいかない理由をその顧客という「人物」に問題を感じ、嫌気を差すかのように、その「人」に対して、不満を抱えている。まるでそう思い込んでいた頃が長くありました。

しかし、それは本当はそうではないのです。仕事ならば、依頼に対して、不明瞭とも呼べるそのような不都合な不満要素があれば、何度でも折衝のように「理解」こそをプランニングすることが仕事なのです。

打合せもご要望についてのヒアリングや対価にまつわる交渉も、仕事を遂行しデザインを完成させるための必須プロセスであり、すべては社会上での仕事なのですから、それは相談でも会議でも、それこそ討論や口論であっても、それはすべて「商談」なのです。


人はその人の属する社会を模する人格を演出する


「困った」「苦手な」「不利益な」「迷惑な」お客様だと言ってしまうかのように、すべては対人関係だと思い込んでいた自分がいます。しかし、その「人」も、社会の中では個人ではなく、ある一定のイズムに属したペルソナなのだとすると、常に作られたルールの上で、ある役柄を全うしている存在だとも思えてくるのです。

これまでの文章に添って表現するならば、それらの顧客である「他者」も、すべては自分の映し鏡であり、自分がその事象を引き寄せ創造していると言えます。そう思うと、仕事や対人のもっと奥に「憤りの正体」はあるのではないかと感じてくるのです。

お客様と時間外や商談外にて、会食やお酒の席に誘われると気がつきます。「仕事」を離れれば、そこにいるのは「ただの人」なのです。

そこに当てはまる要件を言葉にするのならまさにこうなります。「仕事として出会っていなければ、別に悪い人じゃないんだけどな」そしてそれが感覚として「親しみのある人格や個性」「優しいと感じる人柄」などを垣間みるのなら、さらに思うのです。「なぜもっとこんな風に「ただの人」として、仕事ができないのだろう」と。


なぜこの人は、その人なのか。そしてなぜこの私は、その人の前だと、そんな自分なのだろうか。


私が嫌いな言葉として何度かそのような機会に扱った言葉があります。それは直接は使ったことがなくても、皆どこかで聴いたり、知っているような言葉だと思うのですが。

「ここからはビジネスとして」という言葉です。

補足的に、類似する言葉も挙げるのなら例えば「お金を払っているのはこっちだから」や「できるの?できないの?」などもここでは同義に感じます。
お打ち合わせや商談中に「ここからはビジネスとして」と言う方がいます。それに私はとても冷めてしまうのです。

「え?ここからはって、じゃあ、ここまでのあなたと、ここからのあなたは同じ人間じゃないの?」「ここまでは仕事じゃなかったの?」「そうならば、ここからはどう変わるの?」「だったらあなたの言葉ってなんなの?」と、返答したくなる気持ちです。

つまりはこう感じてしまうのです。「ここからはビジネスだから、私個人は責任は無いですよ」ということなのだと、結論、私はそう聞こえるのです。

やや偏屈でもありますが、そんな私の感覚は間違ってはいないと思うのですよね。きっとそうなんです。多くのその社会人という枠組みに属している方というのは「そういう人」なのだと思うのです。またはそれに気がついていない人かそれでいいと思っている人ということになります。

そしてこの現代社会は「そういう社会」だと言えると感じています。多くの社会人と俗に呼ばれる方々がそうなのかは、わかりませんが、少なくともその方達は、私からしたら特殊な能力者なのだと思いました。


商談になった途端に「人」から一瞬にして「ビジネスマン」に変身できる人達なのです。


私には、その能力はありません。私はデザイナーとしても最初からフリーランスではじまり、こうして最後まで法人としても、自分自身が仕事でしたから、すべてが自分です。若くはじめたばかりの頃は、その言葉に驚きましたし、現在でもそんな器用な変身能力は身に付けることが出来ませんでした。

誰もが仕事の顔として生きることが社会のルールなのだとするならば、社会上の対人関係とは、もしかすると「人間」ではないのかもしれません。

余談的な内容ですが、ここに、もしかすると私が憤る犯人のにおいを嗅ぎ取る事ができます。人に関わり、人に怒りそして呆れていたと思い込んでいたのは間違っていたのではないかと思えるのです。

「人」そのものではなく、その先というよりもきっと「それより前に」その憤りの対象が見えてきました。要するに、その正体に問うのならばこうなります。

そんなビジネスマンの正体は、本当に「人」なのでしょうか。


現代社会に巣食う「需要」

私は何に憤っていたのだろうか?──

これまでの流れから、社会の中での職業であるデザイン業務を通して出会うクライアントというお客様である他者との「人間関係」と、そこに生じるご要望や各々の価値観や事情などにもまつわる「仕事内容」。

私はこれまで、そういった外的要素との関わりにより、自分にとっては不都合な関係や不適合な合性として、その原因を他者や社会などの自分以外の外的要因ばかりに不満のようなものを、それこそ都合よくあてはめて放置してきたのだと言えます。

しかし本当は他者という「人」や「事象」そのものではなく、その先というよりもきっと「それより前」それよりも以前の場所に、その憤りの対象が見えてきました。

なぜなら私が怒りや呆れを生じていた人物達というのは、もしかすると人間ではありますが「人」でありながら「人」では非ずという、ある別の人格だったのかもしれないからです。


社会人とは、ビジネスとはなんなのか?

前述の ── お打ち合わせや商談中に「ここからはビジネスとして」と言う方がいます。それに私はとても冷めてしまうのです。──「ここからはビジネスだから、私個人は責任は無いですよ」ということなのだと、結論、私はそう聞こえるのです。──

そのように、商談になった途端に「人」から一瞬にして「ビジネスマン」に変身できる特殊な能力者とも呼べる人達と言い表せます。

誰もが仕事の顔として生きることが社会のルールなのだとするならば、社会上の対人関係とは、そんなビジネスマンの正体は、本当に「人」なのでしょうか。それはもちろん人間です。しかし、個人とは別の人格を覆った人物なのではないでしょうか。

そしてそれは「法人」という「人格名」で会社などを呼ぶように、団体や組織などの一体化された融合人格のような場合もあるでしょう。ある隔離された社会の中で群像的な集団という画一化された集団意識を持つカルトと呼ばれる新興宗教団体などでそのような「団体脳」のようなものは著しく見る事ができます。


社会化された存在は自分が自分では無い者に成ることを放免している


先述したように、人は誰しもが需要に応えた仮面を被った「自己」という人物像を演じていると仮定すれば、そこにあるのは「会社の顔」「役職の顔」「上司に命じられただけの部下の顔」「出資者の顔」「消費者の顔」などの個々のキャラクターを無意識に勤める「社会人」や「ビジネスマン」という個人に非ずした人格があるのでしょう。

その人物とは「自身の勤続よりも長期の契約を顧客に勧めます」人によっては「私が責任をもって」などの言葉も用いて契約した後、数ヶ月で勤務先を退職し音信不通となる者も存在します。

あの社会人は「必要性の不明な販促活動でもリストを片っ端から消費者宅に何度も電話をかけて、営業活動をします」

あるビジネスマンは「どんなに安いものでも10倍以上の値段で売る事が出来る」と声高に話していました。

普通の日常に生きる「人間」であったなら、そんなことが出来得るでしょうか。ここに挙げた例は、どれもきっと「どこにでもある話」です。そして、もっと非常識や非人道的とも呼べるような話も、ここではあえて挙げませんがこの社会にはたくさんあります。


社会を形成する思想における「需要」が個人とは別の「社会人」を生み出す


極端な例をひとつだけ挙げるなら、時には「毒でも薬だと」パッケージを変えて、リスクを隠すレイアウトをデザインして、人の目にやさしい言葉も広告として使い、大きな利益を生む商業は多く存在しています。

そして、商品でもWebサイトでも広告などでも、それを企画や制作として、文言や色合いの印象効果を利用して、現実にデザインしてこの世に作り出しているのは、デザイナーの方々なのです。デザイナーも社会の中では、デザイナーという社会人に変身しているのです。

「自己」という定義が客観からなる自分の認識であるのと同じように、「社会人」とは、謂わば「社会」ありきの上で、その社会に適した「需要」に適合した「自己」ということになるのだと思います。


人は人と人の間にある「社会」の中で無意識に「需要」に応えている


そうならば、私が憤りを感じ、怒りまた呆れを感じていた対象とは、その「社会人」なのであり、それは一個人の「人」ではなく、またその対象の実体とは、社会そのものが必要する「需要」こそが原因なのである。

しかし、私はその「需要」の奥底になにか「意図的」とも言える思想を感じるのです。実に不都合で、実に都合良く現代社会に巣食い、貪るかのように欲しているような気配のような感覚。

まるでなにかが意図的にデザインしているような「社会」を感じているからこそ、そこに得体の知れない憤りを感じるのです。

つづく ──

20170320 8:14



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