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すべては、一身上の都合。 《さよなら商業デザイナー(3)》

── 前回「「揺らぐ」にも理由がある」の続きです


はなはだサイコロジー

── 世界のすべては、自分が捉えた観念であり、世界とは自分だけの思い込みである。──

ただ、それを人間の多くは気がつかない。そのように認識を捉えるということを教育もされてはいない。

それは所謂「無知」ではなく、意識的に「知らされていない」のだ。意図的な心理プロセスの内側で、外界である全容と内界である自己感覚とを、無意識に乖離されているようなものだ。

だからこの世界から争いも競争も一瞬たりとも止まない。

たぶん、人と人の間に、もしくは一個人の内面に、争いや乖離症状があるほうが、都合の良い世界であるなんらかの意志が介入しているのかもしれない。

小気味の悪い表現ではあるが、「社会」の構造、即ちこの世界のデザインの意図や計画に、そんな観念や思惑を感じてしまう自分がいる。


真実とはいつだって曖昧で形に出来ないものなのだと思う。宇宙がもしも完璧だとしても、完璧とは流転するゆらぎの中にのみあって、ただ存在を定めないことこそが完全であるのかもしれない。

また定義や概念だとしても、なにかしらの形で存在を定めてしまう行為自体が、その対象を誤認識してしまう原因であると言えるならば、今回の私の私感というのは、実に偏見に満ちていると言い得てしまうことになる。


デザイン事業に話を戻して言えば、依頼内容にも、クライアントの人間性や商談上の特性などでも、これもすべては、こちら側の捉え方次第なのだ。

進退に対し揺らぐ感情が、クライアントとの人間関係による関わりの中で起こる事象によって、すべては揺らぐのなら、本当の理由はそこにあるのかもしれない。

仮に結論を言えば、2つ。

ひとつは、自身の感情や思考も含めた自我自体を、他者である他我の言動に照準を合わせてしまっているのではないかと思えること。自分自身の「選択」が、他者基準になってしまっている。

ふたつ目は、その対象となる他者とは、自分だけが作り出した「幻想」である可能性が高いということ。

詳細は後に記すとしても、その点については、自分自身の思いとして、漠然にも心の中で「突き詰める必要性」を感じている自分がいる。もっと探るというよりも、もっと素直に現実を改めて見直したいという、リセットに似た欲求が私の中にある。

長年の経験と思考で身に付いてしまった心の中の、条件や先入観などの偏向的視野のフィルターを取り除きたいのだ。


・・・・って、こんなノリやめようよ(笑)


これじゃ本題である表題の「さよなら商業デザイン」や「広告よさらば」などの主題から離れて『感知と世界』だとか、そういうタイトルのほうが似合うような、いささか、はなはだしく、もはやそれじゃあ『心理学』だ。

そんなめんどくさい話じゃない。ただ単に「辞めたい」それだけ。まるで子供が「もう飽きた」「もういやだ」「僕やりたくない」と言わんばかりに、ただ私は辞めたいだけなのだ。

しかし、そこには「理由」が必要なのである。


「大人という者」に定義はないが、社会との接点で仕事の顔を持ったり、世間や団体などにコミュニティーとして属する必要性が生じ、所謂「大人」や「社会人」に位置すると、どうしても「理由」を捏造する癖がついてしまうものである。

若くしては、遅刻や忘れ物の理由を求められ、その理由とは「言い訳」であってはならずに、あくまでも「説明」でなければならず、そこには合理性が必須であり、要求者が「納得する需要」が生じ、少なからずその説明において相手や監理する者や他者を「説得する必要」が「目的」となる為、演出や捏造が必要不可欠になってくるものである。

それが社会であれば始末書や陳述書のような書面を用意することもあり、物事や言動に常に、理由や意図や概要や証拠などの他者承認における「説明」を要求されるのだ。社会というものはそんな「言い訳」や「立前」によって、秩序が成り立っている。

その謂わば「嘘」を社会から取り除いてしまうと、日本で言えば弥生時代以降くらいから続く「国」や「村」や「性別」や「出身」なども含めた管理を基準とした「社会」という概念は、即座に崩壊するのではないかと思える程に、社会とは嘘で出来ている。


その社会に私も属している以上。
そこには「理由」が必要なのである。


そして、その理由を今、誰よりも要求している本人。もっとも「納得」して、責任の所在を明白にして、いち早く当案件を締めくくり手を切り、型に嵌めて放り出したい要求者とは。

謂わば、そんな虚偽的な社会を捏造している犯人とは、私自身に他ならない。


すべては、一身上の都合。

辞職願等の「一身上の都合」とは、いかにも白々しい立前を表した言葉だと思う事もあるが、このいかにも日本人らしさが溢れる一言に救われた機会がある人は多くいるだろう。

── ただ単に「辞めたい」それだけ。まるで子供が「もう飽きた」「もういやだ」「僕やりたくない」と言わんばかりに、ただ私は辞めたいだけなのだ。しかし、そこには「理由」が必要なのである。──

前回の内容で、辞職の「理由」が必要と記した。そして、その理由を最も言及している者こそが、自分自身だと感じるのです。


── そして、その理由を今、誰よりも要求している本人。もっとも「納得」して、責任の所在を明白にして、いち早く当案件を締めくくり手を切り、型に嵌めて放り出したい要求者とは。謂わば、そんな虚偽的な社会を捏造している犯人とは、私自身に他ならない。──

そう、私は、納得したいのだ。
きっと、いろいろなものから逃れる為に。そう、思う。

本当は、それを機に、かねてから描いていた方向へ一歩、歩みだしたいのが本音でもある。しかし、その前に「ケリをつけたい」のだ。

それなりに歳月が経過し、様々な経験からまさにトッチラカッテしまった思考のかなり根源にあるものにケリをつける必要を感じている。それはもう一言で言い表すのならば、きっと「憤り」なのだと思う。

正直、自分で感じていることがある。困った事に、そんな「憤り」というある意味でネガティブな感覚のために、その他の経験や感情や思い出からなる視界さえもが、遮られてしまっているのを感じるのだ。

それこそ、「喜び」「好き」「感謝」「愉しさ」などのポジティブに値する感覚が、その憤りによって、どうしても感じられなくなってしまっていること。そのことに対して、私はケリをつけたいと思っている。

細分化するならば、そんな「憤り」の中身にある感情は2つに分類される「怒気」と「呆気」である。

そんな「怒り」や「呆れ」の所以についてこそが、きっとこの「さよなら商業デザイナー」や「広告よさらば」などの主題であるかもしれないと思う所があるので、後述することにします。

ケリをつけるために向き合う必要があるとして、まず最初の問題は、そんな「憤り」という状況や状態に対して、これまで私がいかに対処してきたのかという点だと思われる。

既に結論は出ている。
私はそれをいつからか、ずっと「諦め」てきたのである。

そして、確かに諦めてはきたのであるが、結果としての実際はきっと、諦めきれなかったのではないであろうか。

だから、「辞職」という結果にたどり着いたのではないかと、いまは思う。

本当は辞める必要は、それほど無いのだ。そう素直に思っている自分がいる。しかし、これはいかにも正論として、自分の中でそんな自分には油断してはならないと感じている。

現実、今後もデザインでも創作でも、私自身は続けていく気持ちに満ちているからである。そうであるならば、デザイナーを辞めたいわけではないのだ。ならば、本当に「辞めたい」ものとは、一体なんだというのか。書き進めて行く先で、自ずとそれは主題となってくると思っている。

その主題が明らかになるまで、私がこの徒然過ぎる物書きに飽きなければ、その時には題名も変わるだろうと思っている。いまは、それを楽しみに待ちたい。

そう、楽しみたいのでなければ、わざわざこんな退屈なことを連ねたりなどしないだろう。こんなまさに「一身上の独り言」のようなことなど。

そう、すべては「一身上の都合」なのだ。

私がどんな気持ちで、どんな状況に至って、どんな覚悟を強いて、どんな言動を表しても、そこにどんな理由があろうが、それはただの私だけの都合なのである。他者から見れば、知ったこっちゃない。

だからいま、私は、最も都合の良い「理由」を探している。誰もが納得して、双方の不利益等も回避し、さらに、それを知った他者が「そんなことはどうでもいい」と思ってもらえる理由を。

「一身上の都合」それを裏付けるだけの、七十五日、いや、せいぜい1〜2週間程度で消えてしまうくらいの、それこそ「都合」を。

つづく ──

20170206 9:25




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