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ル・コルビュジエの知られざる「マニフェスト」 (山村健)

山村健の「建築家の書斎から」第2回
Vers une architecture” by Le Corbusier  1923年出版
建築をめざして』 (SD選書21)
著:ル・コルビュジエ  訳:吉阪 隆正 鹿島出版会 1967年発売

建築学科に入ってまず覚える建築家はル・コルビュジエではないか。
入学直後の建築学科生に尋ねると、ガウディとル・コルビュジエの知名度が圧倒的に高い。日本では国立西洋美術館の世界遺産登録もあり、一般的に高校生でも知っている有名な建築家であると思われる。
 
さて、そのル・コルビュジエの書評を書こうと思ったときに本の選定で迷ってしまった。彼は建築家でありながら、画家でもあり、そして著作家でもある。生涯に255冊もの雑誌や著作を著しており、その中から一冊を選ぶのは骨の折れる作業であった(注1)。そこで自分が初めて読んだル・コルビュジエの本を対象とすることにした。それが『建築をめざして』(吉阪隆正訳、鹿島出版会SD選書21、1967年)である。

SD選書」は鹿島出版会による建築の古典的名著をそろえたシリーズであり、現在は270冊刊行されている。ここに、『輝く都市』(1968年)、『ユルバニスム』(1967年)、『東方への旅』(1979年)、『建築十字軍』(2011年)など、ル・コルビュジエの代表的な著作のほとんどは網羅されている。私が『建築をめざして』を最初に手にとったのは建築学科2年生の夏休みであった。ル・コルビュジエの建築を観にフランスへ旅に出かけた時に持参した。サヴォワ邸や、ロンシャンの礼拝堂、ユニテ・ダビタシオンなどを巡る道中に読んだ。しかし、ル・コルビュジエの建築作品や執筆された1920-21年の時代背景を知らなければ、理解することが難しい。本書を知識に頼らずいかに読むことができるのかを考えた時、次の点に絞られる。それは、レイアウトを楽しむことから始めてみることだ。文字を読まずに。

「視覚」を意図的に活用した書籍

SD選書の吉阪訳は名訳ではあるが、原本にある図版レイアウトの臨場感は残念ながらない。ル・コルビュジエは視覚的に訴える書籍を著すのに長けていた。原本“Ver une architecture”(1923)は見開きで視覚的に読むことができるようにレイアウトされている。それを意図して新訳『建築へ』(中央公論美術出版、2011年)が出ている。

新訳はオリジナルのレイアウトを尊重しており、視覚的に楽しむにはとても良い。ではなぜ視覚的に楽しめるようになっているのか。これはル・コルビュジエと当時流行していた写真が関係している。今ではSNSでの写真が絶大な宣伝効果を備えているように、ル・コルビュジエは写真の力を利用して、自分のマニフェストを流布しようとしていたからである。内容は量産型住宅のヴィジョンであり、有名な「住宅は住むための機械である」(=“La maison est une machine à habiter”)が本書に含まれている。それをマニフェストとして伝達するために文字の配置にも隅々にまで気を配ってレイアウトしている。「おい、文字ばっか読んでないで並べられている写真の意図も読み取れよ」と言わんばかりに、「おい、写真だけ眺めてオレのいいたいことがわかるか」というような挑戦的な本なのである。

近代建築はギリシア建築からの飛距離である

もし、興味をもって本書を手にする人がいたら、ぜひギリシア神殿が登場するページに見入ってもらいたい。ギリシア建築がレイアウトされているページの多くは、パルテノン神殿が航空機や車と対峙されている。ここで、初めて文字に目を通してみる。そこに本書にかけたル・コルビュジエの重要なマニフェストが記されている。数学的な美学などはもちろんのこと、機械的な精密性に注目し、精巧に組み立てられた機械としてパルテノン神殿を解釈し、そこに潜む生命観に注目している点が面白い。

パルテノンの前に立ち止まるのは、それを見ることによって心の内の絃が共鳴するからだ。すなわち軸にふれたのだ。マドレーヌの前では立ち止まらない。これもまたパルテノンのように基壇があり、列柱があり、破風あり(同じ一次的な要素)するのだが、ごく荒っぽい感覚のほか、マドレーヌはわれわれの軸にふれて来ないからである、われわれは深い調和を感じないし、それを認知することによってその場に釘づけにされない。

自然のものと、計算の産物はいずれもはっきりした形をとる。その組織はあいまいなところがない。それは〈はっきりと見える〉からで、読み取り、知悉し、そして共鳴を感じ取れるからである。覚えておこう、芸術作品においては〈はっきりと形を定めて表現すべきだ〉と。自然の物自が〈生きている〉とすれば、そしてまた計算の生み出した作品が〈回転し〉、仕事を提供するとすれば、そしてまた計算の生み出した作品が〈回転し〉仕事を提供するとすれば、一つの意図、動機が魂を吹き込んだからである。覚えておこう、芸術作品には動機の統一が必要だと。(p.160)

「住宅は住むための機械である」と述べたル・コルビュジエとは違うル・コルビュジエがここにいることに気づく。それは、前者は自身の作品をマニフェストしているのに対し、後者では、自分の生き方をマニフェストしているからである。

ここで少しこのことを建築学的に解釈してみたい。
本書がもつ建築学的な意義はル・コルビュジエとギリシア建築の距離感にあると考えている。建築家・磯崎新が「パルテノン神殿が私(=ル・コルビュジエ)を反逆者にしたてた」の一文を引き、その距離感に関して指摘している(注2)。そこではル・コルビュジエがパルテノン神殿をライバルとして見据えたことが彼の創作の原点になっていることを指摘している。
その視点で改めて本書を読むと次の一文に出会う。

パルテノンは大きな反響を持つ生き生きとした作品に見える。完璧な要素の集積であるそれは、決定的に提示された課題に人々が没頭するとき、どこまでの完全性に到達できるかその程度を示しているものだ。(p.119)

ル・コルビュジエにとってパルテノン神殿は指標であったといえる。パルテノン神殿は完全性の極北にあり、ル・コルビュジエの建築を相対化する一つの基準だったのである。ギリシア建築を賞賛した建築家は沢山いる。しかし、自分を反逆者として対極に位置づけた建築家はル・コルビュジエだけである。これを私なりに解釈すると、一見すると近代建築は古代建築とは疎遠にみえるが、実は古典建築を好敵手としたところから近代建築が生まれている点に気づかされる。建築は視覚的に見えるデザインの新規性が評価されるが、ル・コルビュジエが引いたパルテノンを軸とした指標において、建築デザインの新規性は時代で計られるのはなく、パルテノンとの距離によって計られると換言できるのである。

本書の重要性は近代建築の根源にはギリシア建築があり、さらにパルテノン神殿との距離で考えるべきであるという主張こそが、芸術的な建築をめざしたル・コルビュジエのマニフェストなのではないかと思う。現代においては、建築が形態ではなく社会性や公共性で評価される。パルテノン神殿をその指標に位置づけることができたとき、新しい建築のあり方が浮上する可能性を示唆しているともいえる。

<注記>
注1:JOSEP QUETGLAS RIUSECH, Le corbusier et le livre, Barcelona, Editeur : col-legi d'arquitectes de catalunya, 2005
注2: 磯崎新+篠山紀信、『建築行脚2 透明な秩序』、 六曜社、1984年
執筆者プロフィール:山村健 Takeshi Yamamura
1984年生まれ。2006年早稲田大学理工学部建築学科卒業。2006-2007バルセロナ建築大学へ留学。2009年早稲田大学理工学研究科建築学専攻修了。2012年早稲田大学創造理工学研究科建築学専攻博士後期課程修了。その間、建築家入江正之に師事。2012-2015年フランス・パリ在Dominique Perrault Architecture勤務。2015年より早稲田大学理工学術院創造理工学研究科建築学専攻講師(現職)。2016年建築設計事務所YSLA|Yamamura Sanz Laviña Architects をNatalia Sanz Laviña と共同主宰。

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