アルジャーノンに見る「知性とは何か」(伊藤玲阿奈)
指揮者・伊藤玲阿奈「ニューヨークの書斎から」第2回
“Flowers for Algernon” by Daniel Keyes 2012年
『アルジャーノンに花束を』 著:ダニエル・キイス 訳:小尾芙佐
早川書房 ハヤカワ文庫 (新版) 2015年出版
知的障がいを持つ主人公チャーリイ・ゴードンの数奇な物語を描いた『アルジャーノンに花束を』(以下、『アルジャーノン』)は、一般にはSF小説の金字塔として知られている。寡作のアメリカ人作家ダニエル・キイスによって、1959年にまず中編としてSF雑誌に発表され、7年後に長編に改作された。
最初に、これから読まれる方に支障が生じない程度で、ストーリーの発端を簡単に紹介しておこう。
32歳になっても幼児並みの知能しかないチャーリイ・ゴードンは、他人を疑うことを知らず、常に笑顔を振りまいて、誰にでも親切であろうとする。そんな彼に夢のような話が舞い込んでくる。大学の先生が手術によって頭を良くしてくれるというのだ。アルジャーノンと名付けられたネズミでの動物実験で、既に効果は実証済みだという。チャーリイは人間の被験体第一号となることを快諾する。手術を受けた彼は、ほどなくして天才となり、あらゆる知識を吸収して凡人を追い越してしまうのだがーー。
『アルジャーノン』は、知的障がいというタブーにされがちな対象と、それをめぐる様々な人間模様が容赦なく描かれているので、読むのには少し覚悟がいる作品だ。それでも、本作とじっくり向き合った後には知性や倫理観についての批判精神が芽生え、それは生涯にわたって育つことだろう。子供には少々刺激が強いかもしれないが、まだ読んだことのない大人には、是非とも読んで欲しい名作である。
今回は、これから読まれる方々の為に、ハヤカワ文庫による長編版(新版)を元に、『アルジャーノン』の魅力をお伝えすることにしたい。
狂おしいまでに読者を共感させる叙述形式
本作の際立った特徴としてまず第一に挙げられるのは、知的障がいをもつ主人公チャーリイが終始一貫して語っていることだ。これはキイスの素晴らしい独創的アイディアである。普通の作家ならば、知的障がいが重度であればあるほど語ることも困難であるから、チャーリイ以外に語らせるか、三人称の語り手を準備するところだろう。
キイスは大胆にも、大学に提出する為にチャーリイが手術前後に自ら書いた、日記風の「経過報告」という形で『アルジャーノン』のすべてを構成した。すなわち、独白体・書簡体形式を採用したのだ。これによって、読者はチャーリイからの手紙を読んでいるような特別な気分へと誘われる。彼の身に起こった変化はもとより、彼の素直な心の内が“誰にも邪魔されずに”読者に入り込んで来て、他の語り手を設定した場合よりも一体感や臨場感が高まるのである。
ただし、その形式を採るにあたっては、特有の困難さが立ちはだかる。何しろチャーリイは少なくとも物語の最初では幼児並みの知能なのだから、それを反映したレベルの文章を創作し、かつその枠内でストーリーを読者へ的確に伝える必要がある。
キイスは、同じような障がいを持つ者の書いた文章を研究して、この困難を乗り越えた。そして、それを訳者の小尾芙佐氏が日本語で巧みに再現しており、私たちを忘れがたい読書体験へと導いてくれる。翻訳にあたっては、放浪の天才画家として知られた山下清(知的障がいがあった)の日記を参考にしたという。この作品に対する作者と翻訳家の並々ならぬ熱意が垣間見える。
「経過報告8」から、三月二十一日の記録を一部紹介しよう。手術が終わって、チャーリイが元々働いていたパン屋の仕事に復帰する初日である。この時点では、知能はまだ上昇しておらず、以前と変わりはない。(なお、記録中に出てくるジョウ・カープとフランク・ライリイは、パン屋の同僚の名前である。)
きょうはぱん屋でおもしろいことがたくさんあった。ジョウカープがおいチャーリイのやつのしじつしたとこみてみろよ脳みそでもたしたのかねといった。<中略>するとフランクライリイがその頭でごっつんと戸でもあけたのかいといった。ぼくはおかしくてわらてしまった。みんなぼくの友だちでみんなぼくのことを好きなのです。
読んで分かる通り、同僚はチャーリイをバカにしてからかっているにも関わらず、彼はそれに気づかず、むしろ優しくポジティブに受け入れている、という(読者にとって)心痛な場面である。読みにくいという欠点はあるものの、チャーリイ自身の独白体・書簡体という設定によって、物語の悲劇性や迫真性が段違いに高まっていることが理解できるはずだ。また、ストーリーが進み彼の知能が向上するに従って、文章のレベルがみるみるうちに高度になっていくのだが、この文体の変化も狂おしいまでに読者をチャーリイに共感させるのだ。この叙述形式をキイスが採用したことは本当に大正解だった。
主人公の内面から見えてくる王道的文学テーマ
それでは、『アルジャーノン』が追求しているテーマはどのようなものだろう。いくらチャーリイの独白体・書簡体が効力を発揮したとしても、それはあくまでも形式面での工夫ーーすなわち作品テーマを彩る為のテクニックである。
ブラームスの交響曲第一番が、本来表現したい濃厚な情念をベートーヴェン的形式に無理に押し込めており、どこか嘘くさく聞こえると批判されるように、テーマと形式が合致しなければ作品は輝けない。
引き続き、仕事先だったパン屋との関わりを描写した部分を例にとろう。
先ほどの引用から3週間後の四月十日(「経過報告9」)、小学生くらいの知能にまで向上したチャーリイは、自分を好いてくれていると思っていたパン屋の面々について、次のように記す。
ジョウやフランクたちがぼくを連れあるいたのはぼくを笑いものにするためだったなんてちっとも知らなかった。 みんなが「チャーリイ・ゴードンそこのけ」っていうときどういう意味でいっているのかようやくわかった。 ぼくははずかしい。
彼らにバカにされていた事実を理解してしまったのである。まだ幼さの残る文面から、チャーリイのやるせない戸惑いがストレートに伝わってくる。
そこで彼は、もっと知識があればバカにされず幸せになれるだろうと目論んで、懸命に勉強した。折しも手術の効果が加速度的に現れ、天才的な頭脳となった彼は、短期間で大学教授も顔負けの知識を獲得する。
しかし、残念なことに、彼の目論見は当たらなかった。むしろ、つい数カ月前まで幼児並みの知能だった頃を知るパン屋の面々は気味悪がり、距離を置くようになった。それどころか、教養人になって正論ばかりを振り回すようになった彼を鼻持ちならないと感じるようになり、彼を解雇するように店主に陳情書を出す始末である。
以前、彼らは私を嘲笑し、私の無知や愚鈍を軽蔑した。そしていまは私に知能や知性がそなわったゆえに私を憎んでいる。なぜだ? いったい彼らは私にどうしろというのか?(五月二十日「経過報告11」)
チャーリイは今や十分な知性を手に入れた。この文章のレベルが如実に示しているように。そこで発せられているのは、葛藤に苛まれる彼の絶望的な叫びであるが。
そして、この直後、彼は核心的な言葉をつぶやく。
この知性が私と、私の愛していた人々とのあいだに楔(くさび)を打ちこみ、私を店から追放した。そうして私は前にもまして孤独である。(同上)
手術をする前、チャーリイは無知ではあったが純真無垢で、ある意味では本人にとって幸せだった。しかし、知能が高まるにつれて、知りたくもなかった事実も次々と理解できるようになり、内面の葛藤が始まってしまう。それどころか、さらに知能が向上して他の人を超えた時から、人間関係までおかしくなってしまった。
知性とは人間に与えられた最高の資質だったはずなのに、それによって人間にとって大事なものが壊されてしまうとは、一体どうしてなのか。「知性が人間に打ち込む楔」ーー主人公は矛盾に気付いてしまった。
知的障がい者チャーリイ・ゴードンの物語を通して『アルジャーノン』が追求しているのは、まさしくこの点である。そのテーマ自体はキイスの独創ではなく、むしろ西洋純文学の古典的題材に属する。あらゆる知識に絶望して悪魔と契約するゲーテの『ファウスト』や、エリート学生が金貸しの老婆殺しを正当化しようとするドストエフスキーの『罪と罰』などが代表例である。キイスはこの王道的テーマを、知的障がいを手術で人工的に改善するという設定で肉付けした訳だが、それが前述した形式面での工夫とピッタリ合致していて、作品が一層魅力的なものとなっているのだ。
何はともあれ、手術から約二カ月後、物語が中盤に差し掛かる場面において、チャーリイは作品テーマが投げかける疑問へとたどり着いた。しかし、どうして知性が倫理と相反し、自分が幸せになれないのか、この時点の彼にはまだ分からない。彼がその答えを見つけるのは物語の終盤、ある残酷な事実が発覚してストーリーが怒涛の急展開を開始してからである。それは皆さんが自身の目で確かめて欲しい。
キイスの卓抜した文学芸術と本作の存在理由
『アルジャーノン』を読むうえで絶対に見逃せない要素はまだある。
この作品では、知的障がい者を巡るありとあらゆる情景が、その都度に明かされる過去の回想を挟みながら、丁寧に描写されていく。
上に引用したパン屋の場面は450ページに及ぶ物語のほんの一部に過ぎず、この他にも「生き別れになっている家族の真実」「性への目覚め」「学者や医者たちの偽善」など、様々なモチーフを伴った場面が登場し、現在と過去が少しずつ描写されていく。並んでいく無色有色の小片が次第に具体的な模様となるモザイクのようなストーリーテリングなのだが、日常に潜むちょっとした引っかかりに対するキイスの感性と想像力は尋常ではない。
それゆえに、目を背けたくなるような醜悪な情景や、やるせない気持ちにさせられる場面も数多く、人によっては挫折しそうになるかもしれない。
しかし、それはチャーリイはじめ登場人物の心情変化と葛藤を、説得力をもって表現する為の伏線であり、一つ足りとも読み飛ばすべきではない。なぜなら、これら多くの伏線が「知性が人間に打ち込む楔」という全体テーマに不可欠な意味をもって回収され、しかも、そのすべてが文学史上に名高い本作最後の一段落へと集約されていくという、奇跡的なまでに精緻な全体構造をキイスが創り上げているからである。
その高密度な芸術は、さながら音符の一つ一つが全体に対して奉仕するように書かれているベートーヴェンの傑作に似て、寡作の作家が自らの実存をかけて一行一行を入念に創作した強い気魄(きはく)を伝える。まさしく、小説創作という芸術の醍醐味を読者は味わえるのである。
ただし、その根底には、知的障がい者に対して人間の尊厳を認めない人々や、愛に裏打ちされていない知性への、キイスの激しい怒りがあることを決して忘れてはならない。それは常に行間から溢れ出ているから、読者はしっかりと受け止め、真剣に考えるべきだ。それが出来ないのなら、ここで紹介した本作の魅力をいくら楽しめたにせよ、まったく読む意味がない。一時期のチャーリイがやったような、ただ単に知識が増えることで喜びを覚える行為に等しいからである。しかし、読書を通じ、キイスの怒りと真剣な対話が出来たなら、人生における倫理的な道しるべとなる名作の一つとして、『アルジャーノン』はあなたの中で大切な意味を持ち続けることだろう。それこそがキイスの真の狙いであり、本作の真の魅力である。
『アルジャーノン』にしかるべき評価を
SF雑誌で最初に発表された為か、『アルジャーノン』はもっぱらSF小説と見なされているけれども、それは一面でしか正しくない。実際に読むと分かる通り、この作品ではSF的な要素はとても少なく、重要でないのだ。むしろ、「知性が人間に打ち込む楔」という真善美に関わる哲学的テーマのもと、人間精神の変遷や葛藤が徹底的に追究されている。これはまさしく、人間中心主義へと転じたルネサンス以降に西洋の作家たちが目指した“純文学”そのものではないか。先ほど言及した『ファウスト』『罪と罰』など、純文学の高峰と明らかに同じ山脈に『アルジャーノン』はそびえている。
近未来での空想科学やエンターテイメント性を連想させやすいSF小説というレッテルは、キイスがこの作品で達成している内実に対して極めて鈍感な反応と言わざるを得ない。SF小説が純文学小説より劣っているということではなく、SFという物差しでは、本作の本質的な価値を十分に測り切れないのである。
ダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』は、私たちの精神性を深める純文学の歴史的な名作として、人々に読み継がれることを願っている。
追記:私は2020年11月に初となる著作『「宇宙の音楽」を聴く 指揮者の思考法』を光文社新書より上梓いたしました。拙著と併せてお読み頂くと、本稿もよりおもしろく、理解が深まるかと存じます。ぜひお手に取って頂ければ幸いです。
執筆者プロフィール:伊藤玲阿奈 Reona Ito
指揮者。ニューヨークを拠点に、カーネギーホール、国連協会後援による国際平和コンサート、日本クロアチア国交20周年記念コンサートなど、世界各地で活動。2014年に全米の音楽家を対象にした「アメリカ賞(プロオーケストラ指揮部門)」を日本人として初めて受賞。講演や教育活動も多数。武蔵野学院大学SAF(客員研究員)。2020年11月、光文社新書より初の著作『「宇宙の音楽」を聴く』を上梓。個人のnoteはこちら。
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