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短編小説集

84
短編小説を挙げています。
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#オリジナル小説

アイデンティティー

アイデンティティー

 午前4時過ぎ、オフィス街は人知れず朝を迎える。
 呆れるほど高いビルとビルの間から差し込む朝日を見たことのある人はどれだけいるだろうか。
 スーツ姿のサラリーマン、財布を持って歩くOLのいない景色の代役は、ビルの死角に置かれたゴミを回収するつなぎを着た清掃業者か、店舗に商品を納品する業者が担っている。華やかとは一線を画す姿は、きっと舞台の裏側によく似ている。物語に沿って綺麗に整えたセットや備品の

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休日の朝

休日の朝

 窓を閉めた部屋にも入り込む冷たい風は、冬の訪れを静かに伝えていた。普遍的な日常にも顔を出す四季。歳を重ねるごとに有り難みを感じるようになっているのは、きっとおじさんになっている証拠だ。天窓から引っ張り出した布団と毛布に包まりながら、眠気眼で天井を見つめる。朝日でしっかりと分かるクリーム色。もう数えるのも嫌になるくらいに見つめた天井は、代わり映えのない僕の姿を投影しているようだった。
 手を伸ばし

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不用意な一言

不用意な一言

 風に含まれる冷たさには冬の匂いが紛れている。夜が来るのが早くなり、通勤通路の住宅街の外灯も合わせて点灯するのが早い。ひどく寒がりの僕には苦手な季節がやってきた。まだ吐息も白くならない季節の中間地点を歩きながら、今年も残り少ないことに自覚的になる。
 コンビニで買ったカフェオレで暖を取りながら歩いていると、幾分感傷に浸る。歳を取ったと自虐的に笑ってみても、年齢ほどの深さが皆無だからこそ、余計に虚し

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タイムトライアル

タイムトライアル

 目覚まし時計の音が部屋に響いた。布団から出たくない思いを抱きながら、音の鳴る方へと右手を伸ばす。スイッチの感触を感じながら、弱々しい指の力で押す。音が止まり、静まりかえる部屋。眠気眼をこすりながら、止めた時計の時刻を確認する。八時半を少し過ぎた時刻を示す二本の針を見た途端、さっきまでの弱々しさが嘘のように、身体を起こした。
「やべー」
 放った独り言に追いつこうとするように、ベッドから出る。冬の

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栓抜き

栓抜き

「冷た」
 思わぬ声が浴室に響いた。カランの時は温かかったはずなのにシャワーになった瞬間に冷たい水が流れるシャワーの構造を忘れていた。冷水を全身に浴びたことで、毛穴が閉まっていく感覚に思わず声が出てしまった。逃げ場のない狭い閉所で、何もできない姿は、なんだか今の自分を体現しているようで堪えた。
 本来の銀色を浸食する水垢だらけの蛇口を捻り、シャワーを止める。一気に冷え込んだ身体を温めたい思いを抱き

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シーラカンス

シーラカンス

「携帯ラジオ持ってる人、初めて見ました」
 無邪気に言う大学時代の後輩は、一目で結婚式帰りだと分かる格好をしていた。夜も浅い電車内には程よく遊び疲れたカップルや補導の時間とのせめぎ合いをする中高生の姿が目立っている。日曜日ということもあって、スーツ姿は少ない。幹生のように礼服であれどスーツを着ているのは少数派だった。
 同じようにドレス姿も少ない。結婚式会場からほど遠い都会に向かっているからだろう

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一通のメール

一通のメール

 言葉にならないような感情に陥るのは、どうでもいいことばかりを考えてしまうからだろうか。歳を重ねれば重なれるほどに考えることが増えていき、それでいて消化することが難しくなっていく。
 でも学校ではそんなことを黙っていて、夢を持つことを必要以上に強要する。大きければ大きいほど良いとされた夢を。それでいて叶わなかったことに関しては、妥協という使い勝手のいい言葉で誤魔化す。あの頃には気付くはずのない教育

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理想と現実

理想と現実

「いいか、覚えておけよ。おざなりな綺麗事を並べた所で、世の中は不条理で不平等だ。だから覚えておいてほしい。どんな境遇でも、決してブレることのない信念を持て。一つでいい、これからの人生の中でそれを見つられるか、見つけられないかで、お前らが見ることになる景色は大きく変わるからな」
 卒業式を終えた最後のホームルームで担任である日下部が、やけに真剣な表情をしながら口にした言葉は、老舗の中華飯店にある中華

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予知夢

予知夢

 今にも雨が降りそうな曇天。文則は目の前にいる姿を見つめていた。
「文則、私と別れて良かった?」
 真剣な表情でキミは不意に尋ねた。
 文則は返す言葉を模索して、口をつぐんだ。
 オレは後悔しているよ。
 心に引っ掛かったまま本音は言える訳もない。それは決して口にしてはいけない言葉。分かっている。仮に口に出してしまえば。ダムが崩壊したかのように感情が溢れ出すことは想像に容易だった。
 キミは、文則

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