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理想と現実

「いいか、覚えておけよ。おざなりな綺麗事を並べた所で、世の中は不条理で不平等だ。だから覚えておいてほしい。どんな境遇でも、決してブレることのない信念を持て。一つでいい、これからの人生の中でそれを見つられるか、見つけられないかで、お前らが見ることになる景色は大きく変わるからな」
 卒業式を終えた最後のホームルームで担任である日下部が、やけに真剣な表情をしながら口にした言葉は、老舗の中華飯店にある中華鍋の汚れのように今もなっても尚、頭の中にこびりついている。
 卒業式で校長やら名前も顔も知らない来賓と呼ばれる大人達が口を揃えて、夢や希望とか根拠のない言葉を連発していた後だったからか、真逆の言葉を言ったからか、それともやるせない世間に嫌気が指していたからか、尾崎豊を聴いて太宰治を読んで自分とは何かという哲学を絶えず考え続けていた十八歳の健斗には、衝撃的であり自分自身の価値観を肯定された気がした。
その瞬間、健斗は脳内に存在しているカメラのシャッターを切った。窓から見える風景は、健斗の歪んだ思考や日下部の言葉には不釣り合いな爽やかな青で塗られた空が広がっていた。

 発泡酒で口を潤わせながら、大学時代から使い続けている最新機種から遠く離れた型落ちのパソコン画面を眺めて数分が経過していた。画面上には、身体を寄せ合い、手を繋いでいる男女の姿が映し出されている。西洋一の繁華街と呼ばれる新宿歌舞伎町からすぐのホテル街へと続く道を歩く二人の姿は、容易に次に展開を彷彿させるには十分過ぎるほどの写真。しかも男の方は、昨年結婚報道をされた人気イケメン俳優であり、女の方は今人気絶頂のアイドルグループのセンター。
 金になる一枚であることは間違いない。老若男女から絶対的な人気を誇るイケメン俳優と恋愛禁止というグループ内条例が敷かれたアイドルのスキャンダル、しかも不倫というオマケ付き。それなりの展開が望める一枚を撮ったにも関わらず、健斗の心は穏やかではない。正確に言えば、こういうスキャンダル系のスクープを撮ると嫌悪感に苛まれるのが常であった。
 気持ちが萎えそうな感覚に支配されながら、ワンルームの中心に置かれたガラス張りのテーブルへと視線を移す。テーブルの上には一眼レフカメラと望遠レンズが置かれている。有名写真家の写真集や下世話な言葉が踊っている見出しと共にグラビアアイドルが表紙になっている週刊誌が片隅で山積みになっているだけの個性しかない部屋の中で、そのカメラとレンズは異彩を放っている。
健斗は片手に持っていた飲みかけの発泡酒を一気に口に含んだが、味はしなかった。
「結局、有名人だろうが、穀潰しのクズだろうが、所詮は人間。脊椎動物の哺乳類でしかない。生殖活動、一時の快楽に溺れる哀れな生物でしかない」
 健斗は誰に聞かすつもりもない言い訳を呟き、胸ポケットに忍ばせたハイライトを取り出し、火を点ける。毒々しい煙が灰を通じて身体の中に入り込み、血管を収縮させていく。煙を眺めながら、未だ解けない哲学について考え始めた。
 自分とは何か、と。
「オレの信念は、いつか形になるのだろうか……」
 尻つぼみになる言葉は、ハイライトの煙と共にあっさりと消えてしまう。それを弱音と呼ぶのであれば、最近は弱音ばかりが目立っている。厄介なことに、自らした人生の選択に対して後悔している節が見え隠れしており、更に信念の逆を突き進み続けている現実は健斗の頭を悩ます種だった。
 ろくに吸っていないハイライトを灰皿に押し付け、何かを引きずった傷跡や抜けた髪の毛や埃が目立つフロリーングに寝転がり、健斗は目を瞑った。近くの公園で騒いでいる若者の声が聞こえる。真っ暗になった視界には、程よいアクセントとして適度に聴覚を刺激した。しばし暗闇が支配する視界で最初に映ったのは、写真に収められた仲睦まじい二人の姿であった。自分の想起力にため息が出る。片や芸能人としてスポットライトを浴び、世間の目に晒されながらも出来上がった仮の姿を演じ続けている俳優やアイドル、片や芸能人が一人の人間、いや生物に変わる瞬間を捉えるハイエナ。深夜の眩しいほどの光を絶えず照らし続けているコンビニの映像が不意に浮かぶ。
不条理で不平等である世の中を生き抜くには必要な犠牲だと言い聞かせ、そのままやってきた睡魔に抵抗せず飲み込まれた。
 数日後、健斗が撮影したスキャンダル写真をきっかけとした波がマスメディアを通じて広がっていった。週刊誌も昼のワイドショーもTwitterやSNSなどでも波紋を呼んだ写真だけが一人歩きを始め、手元から離れていく。少しだけ気持ちが軽くなる感覚が健斗にはあった。
「よくやった。少し色を付けられるように上に掛け合ってみるぞ。それに夜にはおごってやろう。何がいい? 焼肉か? 寿司か? それとも風俗か?」
 消費税の引き上げで国家が揉めている社会の中で、バブリーな発言を聞くは少しだかり気がゆる。腹部が脂肪で盛り上がり、恰幅の良さを必要以上に主張しているのにも関わらず、ワイシャツの裾をスラックスの中に入れて、サスペンダーで留めているハゲの姿は編集長である飯澤だ。
 健斗が撮った写真やディスクトップ式のパソコンや仕事関係の書類やスキャンダル写真が掲載された雑誌、マッサージグッズなどによって本来持っていたスペースを奪われた編集長のディスク。その前に淡い青色のワイシャツとチノパン、スニーカー姿の健斗は立ちながら、今回の写真の件を報告していた。健斗の横にはカメラを持ち歩く際に使う専用のカバンが置かれている。
 飯澤はにこやかな表情をしたまま、健斗ではなくパソコン画面に目を向けた。相変わらずパソコンのディスクトップ画面には、中学生くらいの幼さを残す女の子が水着姿になっている写真が背景に設定されている。
 一応ジュニアアイドルとして活動しているらしいが、見るたびに気持ち悪さを抱く。このアイドルには罪はない。でもAVなどの求めていた世界とは異なる場所へと進んでいくかもしれない少女の将来の行く末を考えると不憫でならない。勿論、このスタートラインから走り出し、ドラマや映画に引っ張りだこの女優やアイドルグループの中心メンバーとして活動している人もいるのから一概には否定的なことは言えないし、AVで光を浴びていることに胸を張る人もいる。わざわざ声に出してまで言いたいことはない。ただ健斗自身の価値観、色眼鏡であることが影響しているだけの話だ。そんなことを思いながら飯澤の姿を見ていると、近く少女誘拐でも犯しそうな危険因子であるかもしれない気がした。
「色の方はお願いします。夜の件はお気持ちだけで結構です」
 健斗は謙虚に答えた。飯澤がこんな風にバブリーなことを言うのは、健斗が断りを入れることを承知しているからであり、退屈な冗談の一つに過ぎない。そのことは口にせずとも二人の中で了解している。
「健斗はいつも謙虚だな。今回の写真で、飛躍的に部数が増えそうだ」
 ご機嫌だな、おい。健斗は言葉にしないで毒づく。恐らく今日の夜は若い女の子が在籍する風俗にでも行くだろうなとも思った。飯澤の性癖など興味がないけれど、いつか警察に厄介になるのではないかと危惧しているのは事実である。飯澤自身のことなどどうでもいい。単純に収入源が減ってしまうことへの一抹の不安だ。
「これで相手側がどう出るかで変わってくるが、最近世間を賑わせていない週刊誌のスキャンダル記事としては十分すぎる程だ。次回も頼むぞ、健斗」
「頑張ります」
 双肩に重たい物が乗っかってくる感覚があった。プレッシャーや緊張ではない。本当の気持ちに嘘を付いて、信念を捻じ曲げていることを容易に行なっている自分自身への不甲斐なさと、しょうもなさが生み出す重さ。この重さには、未だに慣れない。
 予定の無かった編集部を後にし、夕暮れ時の山手線に揺られた健斗は新宿駅に降り立った。スーツ姿のサラリーマンや大学生と思しき若者、やけに厚化粧をしたおばさんなどがマスゲームをするかのように歩いている。誰しもが各自の世界観に浸りつつ、歩く姿は物悲しさと共に日本を象徴しているようであった。新宿駅西口の改札を抜けすぐそこの階段を登り、地上へと降り立った。秋になったにも関わらず、健斗の額には少量の汗をかいている。迷わず喫煙者のオアシスまで行き、大学時代に身に付けた喫煙所の場所取り能力を駆使し慣れた手つきでハイライトに火を付ける。
 高層ビルが列挙している都会の風景を眺めながら、この後のことを考え始めた。どこかに行く予定も無ければ、少し大人しくしていたいという気持ちが根底にある。その気持ちに最大限応えられる現職場でのカメラマンという身分に感謝しつつも、やはり将来への漠然な不安が顔を出す。芥川龍之介もこんな気持ちになって死を選択したのだろうか、と生産性皆無なことを頭で浮かべてしまう。横道に逸れた思考を戻す為に、ハイライトの煙を吸い込み、吐き出した。その繰り返しの先、何も得られないことは分かっていたが止められない。メビウスの輪とでも言うべき青年期の発達課題に頭を悩ませながら、健斗は夜の予定を決めた。
 高層ビルの中でも一際存在感を放つビル、東京都庁がすぐそこの新宿中央公園内で、何も考えずに健斗はカメラのシャッターを切り続けていた。厳しい季節を生き抜くために静かに活動をしている木々、秋らしい花々、健斗よりも若さが目立つグループ。シャッターを切る度に、切り取られる風景がメモリーカードへと蓄積されていく。芸能人御用達の街で夜な夜なカメラを構える時とは全く感じない高鳴りが、絶えず健斗の中で訴え続ける。良くも悪くも写真、カメラの存在は健斗と切り離せない程の重要な因子になり、未だ叶えられない信念を刺激する。目の前の道路を走り抜ける車やバイクの騒音や楽しそうな声が響く時間は、健斗にとって数少ない心穏やかな時間であった。
 シャッターを切った時、ポケットに入れてあった携帯電話が震え始めた。なんだか嫌な予感がした健斗は、震える携帯電話を無視してファインダー越しの風景を切り取り続ける。バイブレーションの震えはすぐに止まると予想したが、一向に止まる気配がない。止まったと思っても、すぐに震えることに集中力を乱された健斗は、ポケットに手を伸ばして携帯電話を取り出した。スマートフォンではない、ガラパゴスという俗称を持つ折り畳みの携帯電話だ。二つ折りになりコンパクトな状態から長方形の形になるように開き、ボタンを押す。画面が明るくなると、着信が四件という報告だけが見慣れたトップ画面に表示されている。編集部からか、それとも飯澤からの直接の連絡だと思い込んだ健斗は、気だるさを表情に出して操作を始める。着信相手は、予想した相手ではなく、十一個の数字と数字を繋ぐ二本のハイフォンだけが並んでいた。
「ったく誰だよ」
 健斗は呟く。敢えて着信のあった番号にかけ直すこともせず携帯電話をポケットにしまい、再びカメラを構えファインダーを覗き込み風景を切り取り続けた。夕暮れ時にやってきた公園は、夕日が沈み始め、夜へ向かう準備を始めていた。

文責 朝比奈ケイスケ

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