Sagesse Sauvage〜サジェス・ソヴァージュ〜 〜内気で開放的なクオリアと自由意志のフラクタル〜 2章 13年前の佐藤ツヨシの思考
2 世界の中身の中身 - your image of triangle is the same as mine ? -
僕たちはどのように世界を捉えているのか。僕の世界とあなたの世界は同じなのか。僕の見えている世界とあなたの見ている世界はおなじなのか。僕の見ているメロンソーダ の緑とあなたの見ているメロンソーダの緑は同じなのか。こんなことを考えたことはないだろうか。僕は生来の変わり者、ひねくれ者なので、この手の事はよく考える。しかしながら、問題なのはそれを確かめる手立てがないということである。僕の見ている赤とあなたの見ている赤が同じだという証明はできないのである。
「あんたバカァ?」 と言った人もいるのではないだろうか。赤は赤ではないか、と。それは確かにそうである。しかし、それは「本当に同じ色を見ているか」ということを証明していないのである。どういうことか。ある色を僕が「赤」と呼び、あなたもそのある色を「赤」と呼んでいるが、僕にはそのある色が「赤」に見えていて、あなたにはそのある色が≪ぼくにとっての「緑」≫に見えていたと仮定する。すると、ある色について、僕とあなたはその色について「赤」と呼んでいるので、ここでは「赤」の本質(僕にとっては「赤」は「赤色」に見えて、あなたにとって「赤」は≪僕にとっての「緑色」≫に見えるということ)は違う。しかし、同じある色について二人の見え方が違うが、「赤」と呼んでしまうことによって、その色の本質が違うということを証明ができないのである。非常にややこしいのであるが、その可能性が証明できないので、実はそうかもしれない、ということがいえるのである。詭弁のようであるが、僕とあなたは実は世界をまったく違うように見ているのである、と考えられるのだ。
2−1 内気で開放的なクオリア she is shy, but she is active.
クオリアとは感じたもの、感覚のことである。林檎の赤さ、ブルーハワイ の青さ、という色から、林檎の甘酸っぱさ、レモンの酸っぱさ、といった味、ミカンのいい匂い、といった匂い、はたまた、あの時の怒り、あるときの寂しさ、といった感情まで、「感じられたある何か」というものが「クオリア」である。クオリアは感じて得た時に生まれる何か、である。
コーヒーの苦さについて言えば、苦さのデータを取れば計れるのだろうが、苦いと感じるかどうかは個人によって差が生じる。苦くても美味しい、苦くて不味い、苦くなくて美味しい、苦くなくて不味い、などなど。重さで言えば、60キロの荷物は数字化すれば、60キロだが、僕が持つ60キロという重さとプロレスラー が持つ60キロでは、体感的な重さは変わる。この感じる何か、さらに言えば、主観的に感じる何か、は個人によって違うのである。ある重さが重いのかどうかが人によって違うのと同様に、あるコーヒーが苦いのかどうかが人によって違うのと同様に、ある色がどう見えているかは個人によって変わってくる。630―730mmの可視波長を人間は「赤」と呼ぶことになっているが、その「赤」が同じ色に見えている保証はないのである。そして、そのことはつまり、世界がどう見えているかは個々人によって違う 、ということになるのではないだろうか。
しかし、いくらこの世界をまったく違うものとして見ているとしても、この主観的なクオリアがなければ、何も感じられない、つまり、味も色も手触りも温度も何もかもが感じられない。しかし、そのとき、悲しさも愉しさも恋のワクワクというものも感じられないのである。クオリアは一人の中に閉じこもっている内気なものであるが、自分と世界とがつながるための積極的なものでもあるのだ。
続く
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