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校内研究の難しさと改善へのヒント ~演繹的な校内研究と帰納的な校内研究~
校内研究(校内研修)に難しさを感じる教員の方は少なくないと感じています。
今回は、時事通信社「内外教育(2022.9.27)」に掲載の、奈須正裕「学校における理論研究の進め方」から、校内研究の方向性について考えてみます。
※本来の意味は異なりますが、ここでは便宜上「校内研究」に表現を統一します
1 校内研究が背負うもの
前提の整理ですが、いわゆる校内研究は、主に3つの側面を背負っていることが多いです。
(1)教員の力量形成
(2)子どもの学力向上
(3)学校経営の柱の1つ
よく目的を見失われがちですが、その時々によって重きが置かれるところは変わってくるからだと思われます。多くの場合は教員が主語、その対象や利益享受者が子ども、という場合が多いのではないでしょうか。
(1)に取り組んだ結果、(2)につながり、(3)になっていく…となれば自然で効果的ですが、(3)が出過ぎたり、(1)に終始してしまったりすることもまま見られるでしょう。
2 なんちゃって「演繹的研究」
これらの校内研究について、奈須氏は以下の様に指摘しています。
校内研究の不毛性を克服する鍵は、日々の授業実践と直結するように研究を構想する点にある。
とはいえ、研究と言うと形を整えたくなるのが人情らしい。特に、公開研究会や年度末の紀要作りともなれば、立派な発表や理論的な裏付けを伴う成果報告がしたくなる。いきおい、本に書いてある理論や、どこかで聞きかじった言葉を盛り込み、バウムクーヘン状の学力モデルの上を多くの矢印がらせんを描いて舞うような、立体的な研究構想図などを描いてみたりする。
しかし、 これこそがせっかくの研究を無価値なものにする、いわば諸悪の根源である。そういう人は、紀要の理論編が分厚いほど良い研究であると、提案される新しい概念の数やモデルの複雑さが増すことが研究の発展を意味すると考えているようだが、全くの誤りである。授業実践の質が同レベルであるなら、それを支える理論編が薄いほど、説明に必要な新しい概念が少ないほど、モデルが単純なほど、良い研究に違いない。
(中略)そもそも仮説検証というのが嘘臭い。なぜなら、こと校内研究に関する限り、いまだかつて仮説が棄却された研究に出合ったことがない。これは、 仮説検証という手続きの背後にある科学の原理から考えても、実に不思議なことだ。
持って回った言い方はやめよう。要するに、仮説検証など行ってはいないのである。仮設に沿う実践を何とかでっち上げ、それも授業研や公開研究会の日にだけ、提案と称してやって見せているのにすぎないのではないか。(p8)
もちろん、このような校内研究ばかりではないし、精度の高い、もしくは非常に共感できる仮説を立てて仮説検証をしている校内研究に出会ったこともあります。
しかしながら、このような指摘の通りになっている学校も珍しくないでしょう。
仮説検証ならば、仮説の立証がなされないことも結果として当然あり得ますが、前述(3)学校経営の柱の不確かさのように捉えてしまったり、ともすると(2)子どもへの利益享受がなされていないかのように見えたりしてしまうことから、「成果と課題」として、立証されたように成果を絞り出すことがあります。
これは研究としては妥当とは言えませんね^^;
言ってみれば、なんちゃって「演繹的研究」が根付いている、ということです。
本来の演繹法は、出来事や一般論をもって妥当性のある仮説が立てられ、それらをまた妥当な手立てをもって検証しようという方法です。奈須氏の指摘は、これが一部現場教員の感覚のみによるものだったり、何となく「いいよね」感の集合体のだったりと、不確かなものをもとに仮説が立てられ、文言化されていることの危うさについての指摘であるとも言えそうです。
そもそも、日々の業務の中では、全ての教員に確かな論をもて、というのも難しい話ではないかという面もあります。
![](https://assets.st-note.com/img/1665297371839-m0PKsj7v8g.png?width=800)
※図はhttps://dyzo.consulting/3535/より引用
3 事実から積み上げる「帰納的研究」
では、どのような校内研究が望ましいのでしょうか。奈須氏は以下の様に述べています。
だから、 そんな不自然にして成果が上がらないやり方はやめにして、日常の授業づくりの営みに引きつけて、 校内研究を進めたい。
そもそも校内研究は自分たちの授業を改善し、子どもの学びの質を向上させるためにやっているのである。紀要の見てくれが立派でなくても、公開研の全体提案に目新しい言葉が含まれていなくても、日常の授業が良くなってさえいれば、それこそが立派な研究である。
(中略)
作業はまず校内のみんなでうまくいった事例を取り上げ、教師が実際にとった行動、教室に現れた九実などについて、可能な限りその詳細を共有するところから始める。
(中略)
あくまでも具体に即した可能な解釈を、 稚拙でも良いから各自にとって実感の持てる表現でもって、できるだけ多く、また、豊かに出し合おう。
(中略)
話し合いを積み上げていくうちに、 ある時誰かがみんなの実感にぴったりの言葉を発見するが、それは個人の手柄ではなく、みんなが丁寧に進めてきた話し合いの賜物と理解したい。
(中略)
そのような作業を通してこそ校内研究は一層実り多いものとなり、あしたからの授業も着実に良くなっていく。丹念な実践の事実との向かい合いから紡ぎだされた言葉こそが、 実は確かな理論なのであり、このような営みをして現場における研究の本体なのだと悟るべきである。 (p9)
つまり、日々の授業実践の良さを集め統合し、しっくりする言葉でまとめられれば、それはすなわちその学校の、その学校による理論となり、校内研究として有意義なもの、ということができそうです。
事実の集合から仮説的理論としていくので、いわば「帰納的研究」と言えそうです。
実例で言えば、「カルテ」や「座席表授業案」、社会科初志の会や静岡市立安東小学校の実践に近いものを感じます。
確かに、これなら難しい理論が分からなくても、若手でも中堅でもベテランでも、授業を共通言語にしていれば取り組むことが可能ですね。
4 なんちゃって「演繹的研究」と「帰納的研究」から考える校内研究
奈須氏の指摘を2に、いわば提案を3に述べました。
現状として、校内研究を難しいものにしているのは。なんちゃって「演繹的研究」であるから、有益なものにするには「帰納的研究」にするのが良いのではないか、という示唆が得られました。
ただ、そもそも論として、以下についても触れています。
それ以前に、何が良い授業であり、よい学びであるのか自体、校内の全員の意見が一致しないかもしれない。もちろん、無理に統一などしてはいけないが、なぜ意見が一致しないのかについては、しっかりと意見を交流しておく必要がある。
つまり、「どんな授業を良しとするか」について、やはり意見を交わしておく、いわば対話をしておく必要があるということです。
多様な意見をもつ教員が集まる、さらに時代としても多様性を許容しようという流れが広がる中、一定の最適解をすりあわせていくのは、並大抵の努力では難しいような気もします。
これは「帰納的研究」にも言えそうです。日々の授業実践から事実を集める、教員をする人にとってはとても楽しそうな時間ですが、膨大な時間を要することは想像に難くありません。
また、「帰納的研究」でも、事実を集めて統合する際に、どうしても偏りが出る可能性があります。そうなると、なんちゃって「演繹的研究」と差異がなくなってしまいかねません。
ただ、どちらのような手法を取るにしても、重要なことは浮き彫りになってきました。
「帰納的研究」のように、子どもの実態から語る姿勢。最大の利益享受者は子どもであり、子どもから離れた実践はないこと
妥当な仮説を立てていく、立てた上で授業の質を上げていくこと。この際、なんちゃって「演繹的研究」にならないように、ある程度の精度のある仮説に向かうこと、もしくは立てること
この辺りが重要と言えそうです。
校内研究を推進する際は、どのような方向性や方法で取り組むか、「帰納的研究」なのか「演繹的研究」なのかという視点があっても良いのかも知れません。
※「仮説的推論」という方法もあるそうですが、今回は割愛します。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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