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[気づきの日記帳07]情報のリアリティとReason to Believe

[2000年〜2010年ごろの気づき]

80年代から90年代末にかけてマス広告の設計に関わっていた自分にとって、日々の業務の課題は、すでに高い効果を持っていたマスメディアのパワーを前提に、そこにどれだけ強く響くものをのせられるか、にあったのだと思います。インパクトって何?強く届くって何?目立つってどういうこと?もちろん担当する商品の商品性や特徴は前提としながら、兎にも角にも、情報の大海原で無視されないこと、届きたい相手の目に触れることを一生懸命に考えて毎日プランニングしていたと思います。

ネットにおける広告のことを考え始めた90年代の後半、ネットはまだテキスト情報中心の世界で広告的な作法も確立していない中、いかに広告領域で培ったわかりやすい情報整理と強いビジュアルコミュニケーションを活かせるのかを考えていました。限りなく細い回線環境で画像を大きくすると画面表示がたちまち遅くなっていた時代。システムを担当する外部パートナーから「画像は表示を遅くするから大きな画像は使わないでくれ」と何度も叱られながらも、そのギリギリのせめぎ合いの中でわかりやすく強く情報設計していく細道を探していたのを記憶しています。

情報のリアリティ。本当らしさ。
仕事経験を積みながらネットというメディアの特徴と意味が少しずつわかってきた2000年代初頭。「情報のリアリティ。本当らしさ。」というキーワードが自分の中で重要性を増してくるのに気づきます。

インターネットは能動的なメディアである。そんな感じのこと、高校や大学の授業で習ったと思います。能動的=自らが考えて物事に取り組むさま。それに対して、受動的=他から動作・作用を及ぼされるさま。自分の意志からでなく、他に動かされてするさま。マスメディアが受動的なメディアであったのに対して、インターネットは、その能動的な特性がマスメディアと大きく違うところ。大学教育でもその意味的な違いが重要なポイント、と教えられてきたわけです。もちろんマスメディアが、人々をそのなすがままにするメディアだということではありませんが。

人間は意志をもった生き物です。どんなくだらないもの対しても好みがあり、いい・悪いの判断があり、自らそれを判断したいという思いがあり。それが人間の本質であり、欲望の根幹であり、本能の示すところであるわけです。自ら判断する能力があることによって敵味方を即座に判別し、人類は滅びることなく生存を維持してきたとも言えます。ところがマスメディアはそうした人間の本能に対し、圧倒的なパワーで一方的に信じさせる人類未体験のすごいヤツであった。その声の大きさと圧の強さにびっくりして、人類はしばし、判断したい本能を封印してきた。

インターネットは、人の本能の復活を示すものでした。どのページを見るのかも、どの情報にアクセスするのかも自分の意志次第。好きなものは永遠に深く追いかけることができるし、嫌いなものは徹底的に見ない選択をすることもできる。情報社会の主導権は生活者の側に戻り、自らの「好き」や「信じられるもの」を意志をもって探せるようになった。これ、欲望の復活であり、本能の復活な訳で、いわゆる「能動性」という言葉で表される関係変化以上に、意味深い変化だったのだと思います。

その影響は当然、企業やブランドのコミュニケーションにも影響を及ぼすことになります。自分価値のない情報、信じられない情報は、淘汰されていく。そんな感じがプンプンしてきたのです。

情報のリアリティが問われる時代がやってきた。

その広告は信じられるか。そこが重要になってきた頃、あるキャンペーンが話題になります。「BMWfilms.com」。現在のYouTubeでは当たり前になっている企業やブランドのオンライン動画施策の初めの一歩とも言える、動画型ブランド広告の歴史的事例です。画期的な広告手法としての意味が語られることの多い事例ですが、その根幹には、世界的ブランドが感じていた「情報のリアリティ」に関する重要な問題意識があったと思います。

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