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ショパンの《革命のエチュード》はポーランド蜂起に基づいているのか《2》

 前回はこちらです。

 一八二九年七月、一九歳のショパンはワルシャワの高等音楽院を卒業しました。既に将来を嘱望される才能を示していた彼は、同月にウィーンを旅行します。ウィーンの聴衆からはまずまずの評価を得、国外でさらに活躍する段取りも整えられていました。

なぜポーランドで民族運動が高揚したのか

 ここで、当時の国際情勢を整理しておきます。ナポレオン戦争後の一八一五年、戦後処理のために欧州各国の首脳がウィーン会議を開催。各国の自由主義を抑圧する保守反動的なウィーン体制が成立しました。

 しかし、自由や民族の自治を求める動きは絶えることなく、ポーランドでも民族意識が高揚します。ショパンの青年期であった一八三〇年頃には、暴発も時間の問題という状態でした。

 一八三〇年七月には、フランスで革命が発生(七月革命)し、欧州各地に革命運動が飛び火します。

ショパンがポーランドを去った事情

 ワルシャワで緊張が高まっていた一八三〇年十一月二日、ショパンは親友のティテュス・ヴォイチェホフスキ(一八〇八~一八七九)とともにウィーンに向けて出立しました。両親をはじめとする周囲の人々が、迫りくる蜂起にショパンを巻き込まないよう、急ぎ出国させたのだという見方もあります(遠山一行『ショパン』新潮文庫など)。

 この見方を裏付けるかのように、出発後一か月もたたない同月二九日、ワルシャワで反ロシア暴動が勃発したのです。ロシア勢力は一時的に追放され、樹立されたポーランド政府が独立を宣言しました。

 一二月、武装蜂起の知らせはウィーンに到着していた二人にも届きました。ティテュスは蜂起に参加するため帰国を決めます。しかし、虚弱な体質で、かつ将来を期待される芸術家であるショパンは、親友に説得されてウィーンに留まることになりました。

青年ショパンの苦悩

 祖国の情勢に対する不安、不明な家族や友人の安否、異国の地に一人残された孤独、祖国の危機に役立てない苛立ち――これらの感情が、ウィーンのショパンの心理をかき乱したことは想像に難くありません。

 同年一二月二六日付の、友人マトゥシンスキ宛の手紙です。
「ああ、彼女(恋人コンスタンツィヤ)でさえ、姉や妹たちでさえ、たとえ包帯や三角巾を縫いながらでもお役に立てるというのに、この僕は……。父の重荷になるということされなければ、今すぐにでも帰る。国を出てしまったことが呪わしい。(中略)サロンでは涼しい顔を装ってはいるが、部屋に戻ると鍵盤を叩きのめしている」

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