ショパンの《革命のエチュード》はポーランド蜂起に基づいているのか《1》
「ピアノの詩人」と称されるロマン派の作曲家、フレデリック・ショパン(一八〇九/一〇~一八四九)。抒情性に満ちた作風で知られ、クラシック音楽の中でも最も人気のある作曲家の一人であると言えるでしょう。
フレデリック・ショパンの生涯
フランス生まれの父を持つショパンは、一八一〇年(一八〇九年説もある)にポーランドで生まれました。早熟な音楽の才能に恵まれた彼は、一六歳でワルシャワ高等音楽院に入学。一八三〇年に故国ポーランドを離れ、一八三二年にパリでデビューします。
一八三八年から四七年まで、女流作家ジョルジュ・サンドと恋人関係になり、作曲かとしても充実期を迎えます。しかし、もともと虚弱であったショパンの健康状態は悪化を続け、サンドとも破局。一八四九年にパリで短い生涯を閉じました。
『革命のエチュード』とワルシャワ蜂起
『ノクターン(夜想曲)』『別れの曲』などと並んで有名なショパン作品の一つが、『革命のエチュード』でしょう。正確には、『十二の練習曲』(作品番号一〇)の中の第十二番(ハ短調)を指します。うねるような劇的な曲想が印象的なこの曲は、次のようなエピソードとともによく知られています。
ショパンの故郷ポーランドは、一八世紀末のロシア・オーストリア・プロイセンによるポーランド分割によって地図上から消滅。ワルシャワを含む大部分は、ロシアに支配されていました。
一八三〇年、ワルシャワでロシアに対する武装蜂起が発生し、独立への期待が高まります。しかし、反乱はあえなく鎮圧され、異国でその知らせに接したショパンは、怒りと悲しみの心情を『革命のエチュード』に表しました。
ショパンは蜂起を題材に作曲していない?
ポーランド人としてのショパンのアイデンティティを示す逸話ではありますが、実はこの逸話を信頼できる史料から見つけることはできません。「革命」という副題も、作曲者がつけたものではありません。
「大衆的人気がある」一方で、「単純でわかりやすい」わけではないのがショパンという作曲家の面白いところです。同時代のロマン派の作曲家、例えばシューマンやリスト、メンデルスゾーンといった巨匠たちは、神話や文学などを題材に多くの標題音楽を書いています。しかし、ショパンは標題音楽を好まず、自作にほとんど副題をつけませんでした。ショパンの作品のほとんどは、何か具体的な出来事や心情の描写ではない「絶対音楽」なのです。
それでは、『革命のエチュード』はどのように成立したのでしょうか。
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