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ショパンの《革命のエチュード》はポーランド蜂起に基づいているのか《3》

前回はこちらです。

 前回述べた通り、ポーランド蜂起の時、ショパンは故国を離れてウィーンにいました。

ウィーンからパリへ

 ウィーンの人々の態度も、ショパンへの逆風となります。前年には好奇心から好意的に彼を迎えた聴衆も、一八三〇年の訪問には冷淡でした。ハプスブルク皇帝による支配の維持を望むオーストリアは、反革命・反自由主義の点でロシアと利害が一致していました。ポーランドにおける蜂起も、ウィーンでは秩序を乱す行為とみなされ、ポーランド人は差別的な扱いを受けたのです。

 ショパンはまもなくウィーンに愛想をつかし、新天地としてパリを目指すことにしました。フランスは七月革命の直後であり、保守主義のオーストリアやロシアと対立する状況にありました。ウィーンよりは、パリの方がポーランド人を好意的に受け入れてくれる見通しがあったわけです。

ドイツ・シュトゥットガルトに届いた悲報

 一八三一年七月二〇日、ショパンはウィーンを出立し、ドイツ南部を経由してパリに向かう旅に出ました。リンツを通ってザルツブルク、続いてミュンヘンへ。ショパンは、ワルシャワの父からの送金を当てにして一か月近くミュンヘンに滞在しますが、結局お金は届きませんでした。

 次にシュトゥットガルトに到着しますが、この頃にワルシャワにいる家族の連絡が途絶えます。ロシア軍はワルシャワを包囲し、プロイセンの支援のもとで攻略を進めていたのです。

手記に込められたショパンの悲痛

 一八三一年九月八日、ロシア軍はワルシャワを占領し、蜂起は鎮圧されました。その知らせは、数日ほどでシュトゥットガルトのショパンにも届いたと思われます。この時、ショパンは自らの心痛を紙片に書きなぐっています。有名な『シュトゥットガルトの手記』です。

 「郊外は荒らされ、焼かれた――ヤン! ヴィルシはきっと防塁の上で戦死した――捕虜になったマルツェルが見える――ソヴィンスキ、あのお人よしも悪党どもにつかまった!」
「まさか姉さんが、妹が、荒れ狂うモスクワの凶暴なならず者たちに屈してはいないだろうか!」
「ああ、モスカル(ロシア人の蔑称)の一人も殺せなかった自分が情けない!――おおティテュス、ティテュス!」

 友人や家族の身を案じ、ロシア人の暴虐を呪う鬼気迫る手記であり、この時のショパンの絶望がうかがえます。彼はこの苦悩を鍵盤にぶつけ、即興的に『革命のエチュード』を書いた――いかにもよくできた筋書きではないでしょうか。

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