見出し画像

ショパンの《革命のエチュード》はポーランド蜂起に基づいているのか《4》

前回はこちらです。

 前回紹介した通り、ショパンはワルシャワ蜂起とその失敗の報に衝撃を受けました。
 しかしながら、先にも述べたように、記録を見る限りワルシャワ蜂起の鎮圧と『革命のエチュード』に明確な関係はありません。

《革命》は独立した作品ではない

 『革命のエチュード』が特に有名ですが、これが『一二の練習曲』の中の一つであることに注意が必要です。練習曲(エチュード)は文字通り技術の練習のための曲から始まったジャンルですが、これを芸術の領域にまで高めたのがショパンです。超絶技巧が用いられているだけでなく、聴衆に深い感銘を与えるような音楽を作り上げたわけです。

 ショパンは、その生涯に二十七の練習曲を作りました。『十二の練習曲』は最初の練習曲集で、ワルシャワ時代の一八二九年に書き始められ、一八三二年に完成しました。成立過程は正確にはわかりませんが、一八二九年に四曲、次の年にさらに四曲というふうに計画的に作曲されたようです。

 ショパンは練習曲を芸術とみなしていましたから、全体の構成・整合性にも当然気を配ったでしょう。逆に言えば、一時的な感情によって第一二番ハ短調(『革命のエチュード』)を書き足すことは考えにくいのです。

少なくとも即興的には書かれなかった

 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著『ショパンの生涯』(音楽之友社、関口時正訳)は、「この曲想自体が、敗北という悲劇によって彼が陥ったこのときの精神状態に合っていない。この練習曲はむしろ英雄的な活力、執拗に抵抗を続ける闘争の苦痛、革命精神といったものが充満している」としたうえで、「ショパンはこの曲を、まだ蜂起勢力の奮闘が続く間に、ウィーンで書いた可能性が最も高いと思われる」と結論付けています。

 ショパンは、ワルシャワ蜂起に伴う精神的危機の中で、『革命のエチュード』を含む『十二の練習曲』の作曲作業を進めていました。ゆえに、ワルシャワ蜂起と『革命のエチュード』は無関係ではないでしょう。しかし、「ショパンはワルシャワ蜂起失敗の知らせを受け、即興的に『革命のエチュード』を書いた」という逸話を史実とみなすことはできません。

「ポーランドの誇り」としてのショパン

 ポーランドは、その後も異民族に支配され続けました。ポーランドが再び独立を勝ち取るのは、ショパンの死後七〇年を経た第一次世界大戦後のことです。第二次世界大戦期にはナチスドイツとソ連の侵攻を受け、またも世界地図から消えました。戦後は社会主義国となり、ソ連の衛星国として扱われました。

 ポーランド人のたどった長い苦難の歴史の中で、ショパンは「ポーランドの生んだ偉大な芸術家」として偶像化されました。ポーランドの民族主義者にとって、ショパンは「祖国を愛し、その不遇を悲しんだ」存在でなければなりませんでした(この点は嘘ではありません)。『革命のエチュード』をめぐる印象的な逸話は、ポーランド人ショパンのアイデンティティを示すうえでうってつけです。「伝説」が多くの人の口から語られるうちに、自然と定着していったのでしょう。

《了》

【参考文献】
遠山一行『ショパン』新潮文庫
バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著、関口時正訳『ショパンの生涯』音楽之友社
小坂裕子『フレデリック・ショパン全仕事』アルテスパブリッシング
小坂裕子『ショパン(作曲家・人と作品)』音楽之友社
『ショパン全書簡 ポーランド時代』岩波書店

この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?