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読書感想文 日本人が知らない軍事学の常識/兵藤二十八

 ヒトの脊椎とは、ながらくただの神経信号の伝達路に過ぎないと考えられてきた。
 ところが、交通事故で胸から下の半身が麻痺してしまったある患者が、脊椎への微弱な電気刺激を施したところ、脳幹とは神経経路が切断されているはずの下肢がだんだん動かせるようになった――という治験例が報告されている。
 つまり、単純な刺激を受けた脊椎自体が、下肢に対する複雑な命令をマネージを発していたということになる。どうやら脊椎は、脳に準ずる独立したコマンドセンターだったということがわかってきた。
 ヒトが普通に歩くとき、いちいち細かい運動の指図を、脳が考えながら指令を出すなんてことはしない。脳の手前で、脊椎が脚から来る感覚に反応して、即座に必要な命令を出している。転ぶときだってそうだ。ヒトは転びそうになったからといって、手を出そうか足を出そうか、なんて脳で考えていない。
 こうした分業の様態は、そっくりそのまま国家にも当てはまる。
 2011年3月に東日本大震災が起きたとき、幹線高速道路である東北自動車道が各所で破壊された。しかし道路の復旧工事自体は、諸外国の目には驚異的なスピードで、たちまち回復してしまった。管理当局と工事担当業者が、それこそ末端の労働者にいたるまで、何をどうすれば良いのか、よくよく熟知していたためだ。
 だから政府としては、ただ「すぐに直せ」と単純命令を出すだけで良かった。あとは「脊椎」に応答する下位部局が半自動的に、修復に必要な土木工事を速やかに実行した……それだけの話だった。
 ところがその修復された高速道路を災害復旧のためにどう役立てるのかが最も合理的で人道的であるかについては、政府に経験と事前研究が足りず、役人式発想の利用制限を漫然と続けたため、ずいぶんな批判を受けてしまった。福島第一原発事故の対処も、政府の不勉強を露呈するばかりだった。
 こういった場合の研究はあらかじめしておかねばならず、またそのオーソリティたる自衛隊・防衛省から政府へ助言されていなければならないが、その痕跡が全くなかった。
 何をすれば良いかわかっている問題については、日本人は比類なき優秀さを発揮する。しかし有事に対すると何をしていいのかわからない。これに備えるためには「脊椎から下」の機能を少しでも強化していくほかに道はない。

今の日本で軍事学の勉強は必要ないのか?

 鎌倉時代以来から幕末まで、我が国の少壮エリートは、武官と文官の両方に優れていることに努めてきた。しかし明治に近代官僚制が整うにつれて、武官が軍事の教養人を囲い込み、結果、文官と武官は二つの別のコースに分離。それからは我が国は、急速に「半人前」の指導者候補生しかいなくなってしまった。これを放置すると日本は不健全な近代国家になるしかないと、指摘した指揮者も昔からいたようだが、とうとう今日に至るまで、エリート層による自覚的な改善は認められなかった。
 近年は国民の「問題を把握する能力」は少しずつ改善されている。インターネットのおかげだ。しかし他方で、大方の論筆家や政治家や政策官僚が軍事について一知半解(いっちはんかい)の段階で学習をやめてしまう。エリート意識を抱き、大きな国策判断に臨んでいる人々の中の「不勉強」の部分が、心ある者の不安を誘っている。

 さて、一人の国会議員、あるいは一人の大臣が、その任期中に国益を損ねる誤判断を一度もしでかさない……なんてことは、まずあり得ない。しかし政府という集団組織には、有権者から強く「ノー・ミス」を期待される。それが日本人の安全と自由を保障してくれるはずの国家の独立、国家の主権、国民の身体財産の保護に直結するイシューであれば、そうした期待も当然のことだ。
 けれども、生身の人間の集団たる国家が、ミスをなくすことはどの程度まで可能であるのか?
 誰しも戸外を歩いていて、野火がぼーぼーに燃えあがっているのを見かけて、その中に入っていこうとは思わないはずだ。炎が危ういことはみんな知っているからだ。
 もしも「火が熱い」ということを知らない人がいて、火の中に入っていこうとしている人を見かけたら、それを止めるのが当然だ。
 ところが我が国の明治以来の歴史を振り返ると、わざわざ火炎の中に突っ込んで全身火傷を負ったり、洪水が来ているのにぼんやりしていて波にさらわれたり、原発がドッカン煙を噴き上げているのに何もしなかったり……なんとことを結構しでかしていることに気付く。
 たぶん、近代国家の指導者層の中に、「何がどの程度危ないのか」についてしっかりわかっている人が、一定以下の割合しかいなかったために、そうなるのだろう。
 東欧に暮らしている人で、ロシア人やドイツ人の正体を知らない者はいない。モンゴルやベトナムに暮らしている人で、シナ人の正体を知らない人は一人もいないだろう。
 ところが日本人の中には、シナ人や韓国人の正体を知らない人がたくさんいる。国境の外側に常在する危険なんて知らなくても、なんら困らなかったからだ。
 江戸時代には「なにやらロシアという国があるらしいぞ」くらいの認識だったけども、幕末になると「ロシアは清国よりも強く、しかも剣呑な国らしい」ということがわかってきて、当時のエリート候補生は自らの足で蝦夷から沿海州までおもむき、確かめようとした。ついで「フランとイギリスのうち、日本にとって害が少ないのはどちらか」が真剣に見定められ、そのためにはるばる渡欧する者も相次いだ。

 それくらいの慎重さがあったのにもかかわらず、失敗もした。
 日本人はシナ人や朝鮮人についてよく知っていて、騙されることはないと思っていたし、彼らも日本人と並んで近代化できるはずだと思っていた。近すぎたが故の油断だった。
 近代人には「対等」という概念があり、これがなければ交流もままならず、まともな契約も結べない。ところが儒教国には「対等」の概念がなく、対等の国のことを「敵」と表記しなければならない。英語で「ブラザー」といったら、兄でも弟でもなく、「対等の仲間」を意味する。しかし漢語で「兄弟」と描かれたら、対等ではなく、どっちが上でどっちが下か……ということになる。しかもこの上下関係は頻繁に入れ替わる。儒教国は身分が下の相手になったものに対して、約束などは守らなくてもいい、守らなくても恥じる必要はない……という考え方がある。こんな国に対して、対等な契約など結べようもない。
 中国や韓国は、日本と接するとき、常に自分たちが上でありたい、上であることを主張したい……と考える。どうしてこのように出るのかというと、自分たちが上であるという了解を得られたら、好き放題搾取できるからだ。しかし日本は身分が上であろうが下であろうが、公的な場では「礼節」が大事で、相手を尊重しようという考えがある。これがうっかり中国人や韓国人を誤解させてしまっている。
 江戸後期にも入ると、徐々に西洋の力が極東に及んでくるようにもなってきた。
 日本人は江戸末期に、西洋が非西洋地域に対して発揮する軍事的強制力を見分すると共に、西洋には他者の自由を尊ぶ政治思想史の徳があるらしいことも感知できた。
 その当時のトップエリートがどのていどの洞察力を持っていたかは、「五箇条の御誓文」を読んだだけでわかる。幕末以来の日本人が西洋の武力を勉強し、それも模倣することによってうまくいったが、その後、自壊をはじめてしまう。明治のエリート達は旧幕府時代よりも知恵を持っている……と慢心してしまった。またシナ人や朝鮮人について「理解している」という思い込みが、西洋外交式に大陸に進出できると思い込んでしまった。その無知による中間決済が、あの大東亜戦争での惨敗であった。

 「国境意識」や「自国民意識」は今日190以上もある諸国家すべての国民が生来的に得ていたわけではない。そんなものがなかった時代のほうがよほど長かった。しかしこと国をかけた国防といった時代に入ると、自国人と外国人の区別を明確にしなければならない。
 米国だったらすべての国民に「社会保険番号」というIDが与えられ、それを持っていることは「少なくとも不法移民や外国人のスパイではない」ということが証明できる。またビジネスの相手として、公務職の雇用対象として、最低限の信用はしても良いということになる。
 日本の場合、国民IDの管理が整わないために、個人がアパートを借りるにすら「保証人」が必要になったり、一度不渡りを出して倒産した経営者の再チャンスのチャレンジが異常なほど難しくなったりする。IDで管理されていないが為に、不必要に不自由なのが日本の現状だ。
 我が国が国民IDを反対するのは、いろいろな仕組みで儲けた所得を税務署に全額把握されたくない人々――左翼特権勢力や宗教団体、ヤミ献金のハンドラーたち――が「一億総背番号制」と呼んで猛烈に反発したためだ。そのせいで多数の人にとって不便な社会が作られてしまった。
 全国民が一律にID管理されると、世間の目に隠れて大金を儲けまくりながら税金を一銭も支払わない……などという特権集団はこの国に存在できなくなる。資産があるのに、生活に困っているようなフリをして、市役所の公的保護の世話になっている不徳漢が誰なのかもすぐにわかる。逆に本当に困っている人を公的に支援することもできる。また才能ある人が破産の失敗を不必要に恐れず、企業に挑戦できるだろう。
 一億総背番号制は今のような国際化の時代、外国人工作員や密入国者の「日本人なりすまし」を防ぐためにも有効なものだ。この制度がない故に、日本人はスパイ天国になる。セキュリティに敏感な西洋先進国が、日本は防諜上、信用できる仲間として扱ってくれなくなるのは当たり前だ。

日本の戦力はナンボのものなのか?

 もし18世紀の英国秩序システムがそんなに理想的なものであったら、新大陸植民地のアメリカ人は、分離独立なんぞしなくてもよかったはずだ。でも英国と米国は、今日では別々の国をなしている。すると「英国人が良しとする正義」と「米国人が良しとする正義」は違う。少なくとも、一つの国を形成できるほどには。
 現在、世界には190以上の国家があるが、それらの国々が決して一つにまとまらないのも、地理と歴史がそれぞれでユニークで、「良しとする正義」を一致できないからである。
 ほとんどの国の間で一致できるマナーはある。それがウェストファリア条約以降の西洋で合意された近代ルールである。
(※ ウェストファリア条約 1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である)
 また今日では主権国家には「侵略戦争の権利がある」……と公言する公人はほとんどいないが、しかし国家に主権がある以上、その条約を破って侵略戦争を決意し、隣国の民を皆殺しにすることもできる。
 そうはいっても、公人が公的な約束を破れば、戦争が勝利であれ敗北であれ、後々世界中から非難されて、外交的な約束は以降もらえなくなる。
 国家主権は現実的に絶対最上のものであり、一つの国家主権の上に別の主権はない。あったとすれば、それは「属国」だ。独立国であれば、その国家に「正義」を教える「超国家」なるものは存在しない。
 諸国民の正義は細かくは永久に統一できない。最大公約数的な合意だけが、かろうじて正義だ。「国際連合」は「侵略戦争しない」などのいくつかの申し合わせに合意した主権国家の集まりであり、「超国家」ではない。そうすると、一国の正義を防衛するのは、国連でもなければ憲法でもない。自国の軍隊と、それに加勢してくれる同盟国の軍隊だけだ。
 侵略国は、我が国民が民本主義的に合意している「正義のシステム」を破壊するつもりで、我が領土、我が国民に働きかけてくる。
 我が国と我が軍とに、某国の出方次第では、その某国を破壊し、その某国民を殺傷できる準備が明らかにできているとき、某国の侵略は「抑止」される公算が大きくなる。
 他国が飛んでくるミサイルと迎撃することは「抑止」とはいわない。まず、「ミサイルを撃ち込んでやろう」と思わせないことを「抑止」という。

 陸軍はどこの国へ行っても、国防の「主軍」である。例外は一つもない。もしかりに空軍や海軍が全滅していても、陸軍さえ残存していれば、その国家は外敵に対して抵抗をし続けることができる。その逆のケースはあり得ない。
 ということは、敵国が日本国を軍事的に征服してやろうと考えた場合、最終的に陸上自衛隊を全滅させてやると、という算段を付けてからかかる必要がある。
 イラクやアフガニスタンを見てもわかるように、敵国人の地上におけるゲリラ的な抵抗を完封するのは、容易な事業ではない。日本に陸上自衛隊があるというだけで、我が国は外国政府に対して強力な抑止が生じているといえる。

 日本の近代自由主義革命であった明治維新は、戊辰戦争の直接の結果だった。戊辰戦争に最大の陸軍兵力を提供したのが、薩摩藩と長州藩だった。新政府はこの「薩長閥」で主要ポストを独占することになった。強い陸軍の前には、誰にも文句が言えないのだ。
 幕府は薩長土肥をぜんぶ合わせたものよりも強力な海軍力を擁していたけれど、海軍だけでは「内戦」に勝つことはできない。つまり、一国を支配し、政治を牛耳ることはできない。国防の主軍はやっぱり「陸軍」なのだ。
(※ 薩長土肥 さっちょうどひ 江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた)

 戊辰戦争が戦われている間にも、樺太には薩摩藩士からなるごく少数の警備隊が置かれ続けていた。が、内地との連絡は五稜郭が陥落するまで途絶えてしまうし、あとからあとから入植してくるロシア人に、ついに樺太全土は事実上、占領されたような形勢となってしまった。
 「蝦夷と樺太を、ロシアからなんとか防衛しなければならない」――西郷隆盛以下の薩摩藩の若手エリート達は、早くからそう考えていた。
 西郷隆盛は黒田清隆を「影の対露戦争計画長官」に指名した。表向きには「開拓使」として北海道と樺太を開拓し、実は防衛するという任務だったが、実体は「第二の兵部省(陸軍省)」であった。
  しかし、北海道は人口が少なかったので、とにかくも住民を増やさないことには「徴兵」すら不可能だった。黒田清隆は新政府からよい職を得ることができなかった者達を「屯田兵」として北海道へ入植させ、もしもロシアが樺太から北海道に攻め入ったときには、その屯田兵が中核ゲリラ隊となって、抵抗できるように訓練させた。
 戊辰戦争から明治8年にかけて、ロシアが樺太を保有するようになる以前には北海道防衛などはほとんど考える必要がなかった。日本の防衛力は九州に集中させておけば良い……というのがその以前の考え方だった。
 しかし、現実はロシア帝国がいよいよ朝鮮半島までも支配するような事態になれば、話は変わってくる。日本側は「朝鮮半島~北九州」正面でロシア軍に備えねばならず、また同時に「樺太~北海道」正面でもロシア軍を邀撃しなければならなくなる。この状態に陥ると、日本側にほとんど勝ち目がない。
 この形勢を避けるためには、ロシアには朝鮮半島を支配させてはならない。しかし朝鮮にも中国にも、ロシアを阻止する実力なんてなさそうだった。もし日本軍が北部朝鮮から沿海州や満州にかけて押し返すことができれば、ロシア側は北海道侵攻作戦も立案しにくくなるだろう。これが明治6年、西郷が考案した「征韓論」であった。
 明治10年、西南戦争で「薩摩陸軍」は西郷隆盛本人とともに消滅し、翌年には政府最高実力者であった大久保利通も暗殺され、日本陸軍は山縣有朋以下の長州閥が支配するようになる。
 我が帝国陸軍は日清戦争で朝鮮半島と南満州に派兵する「予行演習」を積んだ後、本番たる日露戦争で、ロシア陸軍相手に善戦した。さらにセオドア・ルーズベルト大統領の助言によって、南樺太の占領・領地下まで実現した。
 南樺太をロシアの手から奪い返したことと、ロシア海軍力が消滅したことによって、再び「樺太~北海道」正面の脅威はほとんどなくなった。
 ロシア帝国は第1次世界大戦中に革命によって崩壊し、極東でのロシア軍の圧力は一旦ゼロになる。

 しかしとってかわったソ連政府は、当時世界で質・量ともに最高であったバクー石油を、内燃機関需要の急伸する世界市場に輸出し、それによって国防に必要以上の外貨を蓄積した。
 この莫大な余剰外貨は、一部が外国国内にモスクワ共産党の下部細胞を増殖させる潤沢な「違法政党助成金」となり、また一部は欧米から最新の工場設備を買い付ける原資となった。
 その新鋭工場からは、現在の四発哨戒機の「P-3C」よりも巨大な長距離重爆撃機「TB-3」が量産されて、これが沿海州の飛行場に70機も配備され、東京は有事には「毒ガス空襲」を受けて全滅させられるのではないかと心配した。
 沿海州のソ連軍の重爆撃発進基地を使えなくするために、日本陸軍は来るべき「対ソ戦」計画を練るものの、結局は軍資金の格差が大きすぎて何も踏み込むことができず。この脅威を取り除いてくれたのは、1931年の満州事変だった。
 満州に日本陸軍の精鋭を常駐させることで、いつでも沿海州は地上からの制圧が可能となり、少なくともソ連重爆による東京空襲は考えられなくなった。

 1945年8月、ソ連は日本に対し宣戦布告し、南樺太と千鳥列島の領有を図った。日本とソ連間には不可侵条約が結ばれていて、当時もまだ有効だったはずだが、スターリンは「日本はパリ不戦条約に違反している侵略者である」というトンデモ論をひねり出して、進軍を正当化した。
 1945年に極東海域にあったソ連海軍の艦艇は、全部合わせても貧弱なものだった。極東ソ連軍は、数隻の駆逐艦や小さな漁船や船艇に歩兵を満載して、日本が守備する千鳥列島を北から一つずつ順番に征服する必要があった。
 南樺太や千鳥を守備していた日本軍部隊は、東京の大本営から「戦争が終わった」と聞かされ、連合軍に武器を引き渡す準備をしていたところでの襲撃だったから、自衛戦闘を開始し、善戦する。
  しかし終戦直後の日本政府は、ソ連とはできるだけもめ事を起こしたくなかった。理由は、天皇制の存続が心配だったからだった。アメリカは皇室を外交の手段として使えるとみなしており、空襲の時、京都と皇居を爆撃対象から外していた。が、ソ連は戦前から皇室打倒を叫んでいた。もしもソ連に敗北した場合、皇族の処刑や収監、さらには皇室廃絶に繋がるという懸念があった。(ロマノフ王家を一家皆殺ししたように)
 そうした内情があり、千鳥列島では優勢の戦いであったのに、東京からは「自衛も禁止」という命令が下され、日本軍守備隊は泣く泣く武器を捨ててソ連側に降伏したのだった。
 こうやって日本政府が自衛をやめて千鳥列島を明け渡したという事実は軽くない。日本政府はソ連に対し、「樺太も南千鳥も日本の保有に正当性はない」という意思表示してしまったわけだから。(日本的な忖度は国際社会には通用しない)
 第2次世界大戦後、南樺太は再びロシア領となり、樺太はソ連軍が北海道に渡るための渡し板となった。実際、スターリンは北海道に工作員を潜入させ、水深の浅い間宮海峡下に鉄道用の海底トンネルを掘らせていた。一方、朝鮮半島は38度線まで共産党がひしめいていた。
 しかし幕末と構図が決定的に違うのは、韓国にも米軍が駐留し、ソ連軍の北海道侵攻をほとんど不可能にしていることだった。

本の感想

 兵藤二十八先生の本2冊目の紹介。本文紹介がえらく長くなってしまったけど、とりあえずはここまで。
 『日本人が知らない軍事学の常識』はそのタイトルが示すとおり、私のような軍事についての知識がまったくない人に向けた本だ。初心者の入門書だと思って読めば良いだろう。……そうはいっても、軍事の知識の全くない私には、読み通すのにずいぶん時間が掛かってしまったけれども。
 今回は「日本の防衛・国防」に関した部分だけをピックアップしたけれども、本書には中国・韓国の軍事力はどの程度のものなのか、米軍がいまどんな状況なのか、様々な情報や軍事知識が網羅されている。軍事関連の情報は日々のニュースで報じられることはほとんどなく、知らない世界で何が起きていたか、知る機会にもなれる。
 例えば、米国も中国も石油を産出できないので、中東石油国に頼らざるを得ないわけだけど、その石油タンカーをめがけてしょっちゅう自爆テロが突撃してきているそうだ。なんと恐ろしい。でも米国側も自爆テロが突っ込んで来ることは織り込み済みで、爆弾テロが突っ込んできても傷一つ付かないくらいの装甲を身につけているそうだ。しかし一方の内部は無防備だったため(タンカーは巨大だが、数十人程度しか乗っていない)、少数のテロリストに乗り込まれ、占拠されたことはあったそうだ。
 石油に関して米国も中国もナーバスになり、防備はするし、一方で裏からテロリストに支援金を送って襲撃させたりしている。なぜそうするかというと、石油タンカー一基本国に届かなくなっただけで、国民の生活を相当に弱体化させることができるからだ。国防として、それは阻止しなければならない。
 日本はそういう問題をなーんも考えず、金さえ出せばいくらでも石油を輸入してもらえると思っているから、平和な国である。

 大抵の日本人は国防の話題をすると「中二病wwwww」という平和ボケな反応をするが、そのボケは世界的には笑えないボケであることを認識していただきたい。というか、そういう平和ボケで笑っているのは日本人だけだが。

 そうそう、本書から話題が逸れるが、世間的によくいわれる話として「戦争が始まったら徴兵令が復活する」という議論に対する反論をこの機会に書いておこう。
 現代の戦争で徴兵令によって人員が集められることはない。遡ること第1次世界大戦の頃、戦線に出て相手を殺した経験のある兵士はたったの2割だった……という話がある。第1次世界大戦は近代戦争がはじめて直面した戦争だったという特殊性から、お互いに塹壕を掘って牽制し合って、結果なにもしない間があったから、そういうことになった。当時は一回も戦闘を経験せず、えんえん仲間と駄弁って、そのまま本国に帰った……という兵士も結構いた。
 現代は戦争の「経済効率」がずいぶん言われるようになり、銃一丁に対して、弾丸一つに対して何人殺傷したか……という効率計算がなされている。そうした世界に、「徴兵令によってただ数だけを動員すれば良い」という理屈は通らない。今時の近代兵器は操作も非常に難しく、軍隊の側にしても欲しいのは体が丈夫なだけのわんぱく坊主だけではなく、そこそこ以上に頭の良い、学歴のある人を欲しがる。事実、空軍パイロットにもなれば、みんな学歴エリートだ。数だけいても、しょうがない……というのが実態だ。
 こういう話をすると、素人さんは「戦争に勝ちたいんだったら核ミサイルをブチ込めば良いじゃないか」と言いがちだ。でもそれは絶対にしてはならない。悪手も悪手だ。国際条約違反で国同士の交易をしてもらえなくなる、というだけの話ではない。
 そもそもなぜ戦争なんぞはじめるのかというと、相手が保有している「経済的利益」を分捕りたいか、あるいはこちらにとって有利な条件で取引したいからだ。「相手が気に入らないから」なんて理由で始める戦争はない。核ミサイルとブチ込むと、後に得られるはずだった経済的利益をまるごと失うことになる。これだとただの戦争やり損だ。軍隊を動かすのだって、ミサイルを一発撃つのだって、結構なお金を使う。それだけのお金を使いつつ、勝利してもなにも得られないんだったら、なんのために戦争やったんだ、という話だ。
(そういう話も関係なしに、核ミサイルを撃ってきそうな国が日本のすぐ側にあるんだが……)

 もしも中国や韓国やロシアの立場に立って、日本を侵攻して何の得があるのか。それを考えてみよう。天然資源か? 日本は天然資源の少ないのに? そうではなく、人的資源、「人間の才能」が一番に欲しいはずだ。
 『サピエンス全史』には次のように書かれている。
「戦争の代償が急騰する一方で、戦争で得られる利益は減少した。歴史の大半を通じて、敵の領土を略奪したり併合したりすることで、政体は富を手に入れられた。そうした富の大部分は畑や家畜、奴隷、金などが占めていたので、略奪や摂取は容易だった。今日では、富は主に、人的資源や技術的ノウハウ、あるいは銀行のような複合的な社会経済組織からなる。その結果、そうした富を奪い去ったり、自国の領土に併合したりするのは困難になっている。」(下 P209~211)
 近代兵器の武力衝突なんぞやったって、今時の社会、リスクが高すぎてやってられない。ではどのような戦争が将来的にあり得るだろうか。
 戦争といえば銃弾の撃ち合い、というイメージがまだあるが、現代の戦争はとっくに新しい形にシフトしている。第一にネット上で展開しているハッキング戦争。これはすでに中国や北朝鮮が結構な人数を動員して、実際に色んな国に対してアタックしている。日本も例外なく日々攻撃を受けている。

 もう一つの戦争が、「才能の確保」である。
 中国は2008年、「千人計画」と称して世界中の色んな技術開発者を集め、資金援助するという計画を発表した。この技術者の中に、日本人多数である。当然ながら、「千人計画」の中で発明された特許は全部中国のもの。一見すると地味な話に聞こえるが、将来の特許を独占することは、市場を独占することになり、それが世界を制することにも繋がる。
(いやいや、「千人計画」に参加した日本人を責めてはならない。そもそも日本側が追い出しちゃった人達だから。自分で追い出しておいて、さらに非難するのはただ冷酷なだけだ。こういう場合、政府がお金を出して「引き戻し計画」でも立てるべきだった)
 漫画やアニメの業界は無関係……そう思う人は多いだろう。実は中国は、国家の金を使って、日本人漫画家やアニメーターの確保を続けている。ゲームクリエイターもヘッドハンティングされている。駆け出しのアニメーターなんてものは薄給すぎて日本での生活は完全に不可能だ。ほとんどが親の支援を受けてどうにかこうにか生活しているという状況だが、中には「アニメーターなんぞになるっていうんだったら、勘当だ!」とかいう頭の固い大人はいる。そうした若いアニメーターが生活していこうと思ったら、給料の高い中国へ渡るのは当然だ。
 日本人は自覚ないかも知れないが、日本人の特別な才能を欲しがっている国なんてものは、世界中一杯ある(私ですら、一回韓国からお誘い来たもの)。そうした人材を確保するのも、現代の戦争の形だ。中国は世界で勝ち続けるための戦略を練って、すでに行動している。
 そのうちにも「最近の中国のアニメやゲームはクオリティが高いな」と思ったら作っていたのは日本人だった……ということもあり得る話だ。
 それでは現代において軍備を整えることにどんな意味があるのかというと、第一に他国に「侵略してみようか」という意思を思いとどまらせるためにある。そもそもミサイルを撃ってみようか、などと思わせないために、軍備というものがある。空の世界では、ほぼ毎日のように中国の戦闘機が領空侵犯を犯してきている。海の世界でも同じくだ。そうした脅威を前にして、軍事を放棄するなどあり得ない。
 もう一つは、災害に対処するためだ。有事といえば「戦争」をイメージするが、自然災害だって立派な「有事」だ。そういうもしもの時に出張って対処するのが軍隊の役割だ。しかしそういう政府に意識や知恵がないから、実際の大規模災害が起きたとき、自衛隊の出動が遅れたり、指揮について防衛省から助言を受けなかったりする。
 政治家が真っ先に勉強しなければならないのは軍事についてというのはまったくその通りだ。今の時代に「戦争が起きると徴兵令が復活する」なんて言っている頭が60年前から進歩できていない人間が政治なんぞ語っちゃいかんのだ。
 近代兵器の性能が高まりすぎて、武力衝突のリスクが高まりすぎているから戦争は起きえない、じゃあ軍事はいらない……という理屈にはならないのだ。

 アメリカでの話だが、この本が書かれた当時は「無人戦闘機」を導入するかしないかで揉めていたようだ。なにをメインテーマにして揉めていたのかというと、無人戦闘機なんぞが導入されると、パイロットが不要になる。それは空軍としてのプライドが許さない……という話だった。
 空軍パイロットというのは全員が将校以上の階級が必要で、かつ戦闘機の操作は複雑なので全員が高学歴。戦闘機一機を導入するにも高額で、そのパイロットを維持するのも高額。米軍内の予算をがっつり確保しなければならないので、空軍閥は米軍内で一大勢力となっていた。
(パイロットはテクニックを維持するために戦闘機に乗り続けなければならない。半年間乗らないでいると、初心者レベルまで落ちてしまうからだ)
 しかし米軍の本音を言うと、金食い虫の空軍には少し節約してもらいたい。そこで出てきたのが、従来の戦闘機の数分の一で導入できてしまう「無人戦闘機」だ。米軍は、プライドをかけて「いや、そんなものの導入は許さんぞ」と反抗し、それで揉めている……ということだ。
 ここでもやっぱり戦争の経済効率が優先されている。戦争の前にまずお金をケチるという発想が出てしまうので、かつてあったような銃を撃ち合っての総力戦はやっぱり起こりようがない。

 話は脱線したが、この本で初めて知ることの知識は一杯だった。中国の戦車は一日おきにエンジンがダメになってしまう、とか、ミサイルの殺傷力は5人とか……。「あ、そうだったの」という話が満載。軍事の話なのでちょっと難しいところはあるが、得られるものも一杯ある、いい本だった。
 ところで、この本が書かれたのはおよそ10年前。10年も経てば軍事を取り巻く状況も変わってしまう。この本が書かれた頃には、F-35を導入するかしないかで揉めていたのだけど、現在はどうなったのだろう? Wikipediaを観ると、2011年にF-35A型を42機導入とある。私は軍事に関して疎いので、F-35がカタログ通りのスペックを発揮しているかどうかは知らない。


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