見出し画像

映画感想 雨を告げる漂流団地

 石田裕康監督『雨を告げる漂流団地』は2022年9月16日Netflix公開作品だ。配信がメインの作品なので劇場公開はほんのちょっとやっただけ。興行収入などの記録は残ってない。
 『ペンギン・ハイウェイ』にて監督デビューを果たした石田裕康監督作品の2作目であり、スタジオコロリド長編作品としては3作目。監督自身も若いし、新興スタジオによる作品というだけあって、作品は非常に若々しく、生き生きとしている。
 石田康宏監督は本作の準備のために神代団地へ移住。団地という環境を外からの見た目だけではなく、実際に生活してどのような場所であるかを身に染みつけ、そのうえで思い入れたっぷりに作品を構築した。
 本作のモデルとなった団地はすでに解体されたひばりが丘団地とされている。現存する団地は居住者に対する配慮から避けられた。外観や建築年数が近い常盤平団地でもロケハンが行われた。というわけで本作のモデルとなった場所は複数があるが、具体的な場所はあえてぼかされて描かれている。
 実際の作品を見て、ああなるほど……と考えさせられる映画だった。「団地」というモチーフから、昭和後期の日本のある景色をうまく切り取っている。それを2022年という時代から、令和の時代に残存している昭和という時代を振り返り、さらに「消えゆくもの」に対するノスタルジーを込めた作品になっている。いろんなモチーフがピタリとハマっている、うまく作られた作品だ。
 映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば64%が高評価で、一般評価が6,7。残念ながら低めだ。映画の感想文を書く前にざっと一般レビューを読んだのだが、驚くほど本作の評価が低い。ヤフーの映画レビューを見ると、「似たようなシーンばかり」「登場人物が怒鳴り合っているシーンがえんえん続いて不愉快」……とそんな意見ばかりで、☆1を付けた人が多く、「あれ?」となった。
 私はさすがに「それはどうなんだ」と感じた。ちゃんと評価されていないんじゃないか。実際に見るとかなりしっかり作ったアニメーション映画だ……というのは素人目にもわかるような作品のはず……。もしかすると、本作のモチーフやテーマの意味がうまく伝わっていないんじゃ……。
 さすがにこれはよくない。というわけで今回の感想文は、映画のラストまでネタバレ込みで解説を入れていく。これで作品の評価が少し改まってくれれば幸いなのだけれど……。

 それでは前半のストーリーを見ていこう。


 小学校最後の夏休みだった。小学6年生の熊谷コウスケは幼馴染みの兎内ナツメとの関係が思わしくなかった。コウスケとナツメはごく幼い頃からずっと仲良しで姉弟のように育ってきたのだけれど、あの事件以来……。
 夏休み前最後のホームルームが終わり、羽馬レイナと小祝タイシが教室に飛び込んできた。
レイナ「私、あさってからフロリダに行くんだけど、席が一つ余っててさぁ……」
タイシ「明日、オバケ団地行くぞ! 夏休みの自由研究!」
 しかしそのどっちに対しても、コウスケは「行かねーぞ!」と言って教室を去って行くのだった。
 そんな日の翌日、コウスケはやっぱりタイシとその友人の橘ユズルとともに「オバケ団地」へ行くことに。「オバケ団地」と呼ばれている場所は間もなく取り壊しが決まって、立ち入り禁止になっている団地。そこはコウスケとナツメにとっては、ほんの少し前まで「家」だった場所だった。それも取り壊しが決定してから人がいなくなり、その間に「オバケ団地」と呼ばれるようになって……。そんなネーミングをタイシが気に入って、夏休みの自由研究に「オバケを掴まえるぞ」と友人達と一緒に潜入しようとしているのだった。
 コウスケ達は団地の中へ忍び込んでいくが、どの家も当たり前だけど扉が閉まっている。でも一棟だけ入れる建物があった。さらに開いている部屋を見付けて入っていく。そこは――熊谷安治……熊谷コウスケのお爺ちゃんが住んでいた部屋だった。
 その部屋へ入り、押し入れを開くと……中にいたのは兎内ナツメだった。
 ナツメは以前から廃墟になったこの団地をたびたび訪ねている様子だった。そこで「ノッポ君」という少年と知り合ったらしい。ナツメと同じく、団地にこっそり忍び込んで、住んでいる少年だという。いつもは屋上のテントの中にいるが……今はいないようだ。
 そのテントの前まで行くと、古いフィルムカメラがポロッと地面に落ちる。それを見て、コウスケがハッとする。
コウスケ「これ、爺ちゃんのだろ。探したんだぞ。人んちのもの盗んで、お前なにやってんだよ」
 ここから口論になり、ナツメはカメラを奪って、屋上の端っこへ。そこで足を滑らせて――その瞬間、ナツメ達は「別の場所」にいた。そこは団地の周囲全体が海という空間だった……。


 ここまでで20分。さらに羽馬レイナと安藤ジュリがお話に加わってきて、さらにノッポ君登場までがこの20分の中に描かれる。

 映画のお話に入っていく前に、「団地」という場所について確かめておこう。
 「団地」とは「集合住宅地」の略で、この言葉の初出は古く、1939年の日本建築学会主催コンペ「労務者向集団住宅地計画」の中で現れてくるが、実際の建築計画として打ち立てられたのは戦後の話。1950年代後半から1960年代、さらに1970年代という時代に都市部を囲むように作られていった。ちょうど「もはや戦後ではない」と言われるようになった時代背景、高度経済成長期の時代に団地は各地に増え、そこを拠点とする労働者達による「団地族」や「団地妻」といった言葉が生まれていき、一つの時代を象徴する場所や言葉となっていった。
 団地が作られ始めた1950年代においては、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダなどがそろった住宅は、近代的な住宅として憧れの対象であった。しかし極端に人が密集する場所で、次第に所得のあまり高くない人たちの住居という印象が付いてくると、団地にたいするネガティブなイメージが定着しはじめていった。人が密集するゆえの「鬱屈」の場として語られることが多くなっていくことになる。さらに団地は時代遅れの場所にもなっていく。
 その「団地の今」はどうなっているのかというと、団地は2000年以降、老朽化や住民の高齢化を理由に、建て壊しや建て直しがはかれれていき、団地という言葉そのものが過去のものになろうとしている。例えば草加松原団地はコンフォール松原という名称に変わり、赤羽台団地はヌーヴェル赤羽台、本作のモデルとなっているひばりが丘団地はひばりヶ丘パークヒルズへ。環境が刷新されるタイミングで、「団地」という言葉が避けられている現状がある。それだけ「団地」という言葉にマイナスイメージが人々の間にあり、団地という言葉を避けることで新しさを打ち出そうとすらしている。
 こういった時代観で、令和にも入った時代に、昭和後期のシンボル的な場所:団地が本作のモチーフとなっている。「今さら団地……」という感じがあるが、しかし今だからこそ団地をどのように切り取り、語るのか……が本作の大きなテーマとなっている。

 という前置きを踏まえて上で本編をプロローグから見ていこう。

 冒頭場面。兎内ナツメが団地のとある部屋で気怠げに横たわっている。窓の向こうに見えているのは海。すでに「異界」の風景で、ナツメはまどろみながら異界の景色を見ている。
 台詞で「ブタメン一杯買ってきた」とあるので、ナツメは取り壊し前に籠城するつもりだった……ということがわかる。これが後々、サバイバルになったときの貴重な食料となる。
 横たわるナツメの体を見ると、ウエストのくびれが現れて、お尻が大きくなっている。別のカットでは胸にささやかだが膨らみも確認できる。すでに第2次性徴期に入っている(ただ、ブラジャーはまだ付けてないと思われる。それくらいの微妙さ)。少女と大人の端境の体だ。さらに「小学生最後の夏」というもう一つの社会的な端境期を迎えている。いろんな「端境期」が多重的に描かれている、というのが本作のポイントだ。

 そこから続いてオープニングシーン。「団地」という場所が「ノスタルジー」の舞台として描かれている。「団地」という言葉自体、ある種「時代の遺物」として否定されようとしている今だけど、しかしその場所をあえてぬくもりあるノスタルジーの場として表現されている。。
 団地という場所の問題はいろんなところで語られているけれども、そこに住んで、育ってきた人にとっては「我が家」だったんじゃないか。「古里」と呼ぶべき場所だったんじゃないか。それが消えゆこうとしている――そうした情緒を込めて描かれている。

 技術的なポイントはこのカット。足場が組まれている現代の景色から、「思い出の団地」の風景へとオーバーラップしていく。その中を2人の子供が駆け抜けていく……という場面。現在の風景と思い出の風景を同時に捉えている秀逸なカットだ。

 本編が始まって、兎内ナツメがずっと窓の外を見ている。ナツメが見ているのは取り壊しが決まって、立ち入り禁止になっている団地。
 そのナツメをじっと見ている熊谷コウスケ。(このカットはコウスケの視点)
 2人とも想いはあるのだけど、その想いの方向性が微妙にすれ違っている。気にしているのだけど、なんとなく声をかけることができない……という関係性や距離感を描いている。この構図のために、コウスケの席がナツメよりも少し斜め後ろに設定されている。

 ナツメが教室を出ようとしたところで、羽馬レイナが飛び込んでくる。2人はぶつかってしまい、ナツメの工作物が破壊されている。
 ここでレイナはナツメの工作物を見て「なに、このゴミ」と自分勝手なところを見せている。一方、ナツメは工作物を破壊されても怒らず、レイナを気遣っている。このくらいの年頃だったら、ぶつかられてきたら怒るのが普通だけど、その気持ちを抑えて理性的に応対している。振る舞い方が不自然だ。さらにナツメの工作物が「家」。ここでナツメとレイナという人物観を見せている。またナツメがこのように振る舞う理由が伏線となっている。

 帰宅するナツメ。外観からして、ちょっとステータスの高い家庭だとわかる。ただし、シングルマザー家庭だ。部屋の様子を見ると、母親はどうやら服飾関係の仕事をしているらしいことがわかる。
 ここでもナツメは年相応ではない振る舞いで母親と対応している。親子っぽくない。「物わかりのいい子供」を演じているナツメに対して、母親はちょっと引っ掛かるような視線で見ている。この描写で少し不自然なところがある母子ということがわかる。

 一方の熊谷コウスケの家。お爺ちゃんの仏壇の前にご飯をお供えしているところ。
 ごく最近、お爺ちゃんの死があったこと、コウスケはそのお爺ちゃんの死ときちんと向き合えていないことがここで描かれている。

 人がいなくなって「オバケ団地」と呼ばれるようになったそこに、少年サッカークラブの友人である小祝タイシが「自由研究でオバケを掴まえるんだ!」と冒険に行こうとする。それに付き合わされている橘ユズル。熊谷コウスケは「絶対行かねーぞ!」と言い続けていたのだけど、結局ついていくことに。

 団地はどこも閉め切られていたのだけど、一棟だけ入れる場所があった。さらに開いている部屋を見付けて入っていく。そこは熊谷コウスケのお爺ちゃんが住んでいた部屋だった。

 そんな部屋の押し入れにいたのがナツメ。押し入れに入っていたのは、観客を驚かすためのちょっとした仕掛けだね。押し入れを開ける前に、ちゃぶ台に置かれた筆記用具に気付くはずでしょうに。でもその描写は、ナツメが登場した後に見せている。

 団地周辺の風景がよくわかるカット。意外に緑豊かな風景だ。
 ナツメと同じく、この団地に居座っている少年がいる。名前を名乗らないし、背が高いから「ノッポ君」と呼んでいた。団地に籠城している様子だけど、しかしどこかの部屋に住み着いている様子でもないので、ナツメは屋上にテントを立ててあげることにした。

 団地のそばを歩いている羽馬レイナと安藤ジュリが、屋上にいるコウスケたちに気付いて……。

 テントを持ち上げて、「なんだこんなもん」みたいに言っていると、中からフィルムカメラがポロッと出てくる。それはお爺ちゃんの死の前後、なくなっていたもので……。コウスケはナツメが盗んだ物だと思い込んで、問い詰める。そんなふうに疑いを向けられて逆上するナツメ。これまで理性的に振る舞っていたナツメが逆上する……そこを問い詰められることがなにより許せない、というナツメの価値観がわかる。

 ナツメはフィルムカメラを奪い取って、屋上の一番端っこ、どういう構造物かわからないが、細く突き出た先端まで逃げる。そこで足を滑らせてしまい……。

 この瞬間の演出を見てみよう。
 まずナツメが転落する。次に建物の亀裂が一気に広がる。さらに雨がザァと降る。その次の瞬間、異界へと転移している。
 この作品の一番大胆なところだが、「建物にも臨死体験はあるんじゃないか」……という考え方だ。ナツメが転落した瞬間、建物自体が自壊を進めて、生死の端境の世界……要するに「三途の川」のような場所へと転移してしまう。その端境に使われた現象が「雨」。
(冒頭で海の風景を見えていたのは、すでに団地が臨死体験を始めていたからだ)
 別の作品だが、黒澤明監督の映画『夢』では、子供が森に迷い込み、雨が降り、雨がやんで霧があたりを漂って……そこで子供は異界の住人を目撃してしまう……という展開がある。雨を現界と異界を切り分ける「境界」に使うのは、本作だけではなく、日本では古くから使われるモチーフだ。
 さて、ナツメはここで「死ぬような経験をした」。しかし建物自体が異界に転移してしまったことで、死の運命が“保留”された。これが後半における重要な伏線になっている。この説明は後ほど。

 次の瞬間、気付けば団地ごと別世界へと転移していた。
 この場所がなんなのか、すでに書いた通り、「三途の川」のような場所だ。ただし、人間が行く「あの世」ではなく、建築物が行くかも知れない……という場所だ。この発想法には心底仰天したところ。こんなイメージ、私は考えたこともなかった。

 この場所には同じように漂流している建築物がある。そのどれもがすでに取り壊され、現存していないものばかり。「建築物のあの世」だから、そういうものが漂っていても不思議ではない。
 こんな場所に、まだ取り壊し前なのに、迷い込んでしまった……というのがこの団地。まだ死んでないのに、あの世にいってしまった……。だから蘇生するわけでもなく、死ぬわけでもなく、どこにも行き着かず漂流し続けることになる。

 そんな場所に住み着いている謎の少年ノッポ君。
 最初からネタバレをするが、ノッポ君の正体は団地の化身。ということはノッポ君は「付喪神」ということになる(座敷童……みたいなものかも)。日本には古くから「長く使用している物」には魂が宿ると考えられていた。だったら建築物にも魂(神)が宿るのではないか。そしてその付喪神も、魂があるのだからこの世を去るときに「あの世」へ行くのではないか……。そのように発想を広げていったのがこの作品だ。
 ではどうしてノッポ君が「子供」の姿で描かれたのか。それはたぶん、作られてからたかだが60年くらいの建築物だからじゃないだろうか。建築物は寿命の長いもので100年、200年……1000年近く前に建てられ、今で現役の建築物もある。その建築物の水準で見れば、たかだか60年程度の団地は子供に過ぎない……ということじゃないだろうか。

 ここまでが前半20分の見所だ。続くストーリーを見ていこう。


 漂流団地でのサバイバル生活が始まった。屋上にSOSの文字を書いてみるけど、飛行機すら横切らない。携帯電話はアンテナ1本も立たないし、無線も外部へは通じない。双眼鏡で四方八方見回すけれども、陸地影すら見当たらない。花火を打ち上げても誰も見てくれない。……どうやら、本当にここにいるのは自分たちだけのようだった。
 食料はナツメが買い集めていたブタメン。飲料はお茶とコーラ。生活用水は溜まった雨水を煮沸して使用。釣り糸を垂らしても魚一匹釣れず。
 サバイバルが始まって4日……早くも食料を食い尽くそうとしていた。
 そんなある日――。雨の後、スッと霧が晴れて視界が開けたその場所に、別の建築物が浮かんでいた。3年前に取り壊された永原のプールだ。
 あそこに飛び移れば食料を確保できるかも知れない。コウスケは用意していたロープで思い切って永原のプールに飛び移る。その様子を見ていたナツメも、同じく永原のプールに入っていくのだった。
 コウスケとナツメはプールの中で合流する。そこはやはり覚えのある場所……3年前取り壊されたはずのプールだった。
 どこかに食料はないだろうか……そうだ、自動販売機があったはず。ナツメは自動販売機の前まで行くが、そこで転んで、膝を怪我してしまう。コウスケはナツメの膝に包帯を巻き、2人で協力して自動販売機を破壊しようとするが、どうやっても破壊することはできない。
 そうしているうちに、永原のプールが団地から離れ始めてしまう。諦めて帰ろう……というとき、何者かがふっと「非常持出袋」を置いていく。
 それを持ってコウスケとナツメは団地に帰還するのだった……。


 ここまでで40分。ではストーリーを掘り下げていこう。

 おそらくは取り壊しを前に、団地に籠城するつもりだったらしいナツメ。それにしてもブタメン多すぎだ。この辺りはさすがに物語的なご都合主義。これくらいのご都合主義なら問題ない。

 ここは「あの世」であるので、当然ながら魚は釣れない。生態系もそもそもないような場所だ。

 ここは要するに巨大な三途の川のような場所だから、同じようにすでにこの世を去った建築物が漂流している。
 ただ一つの引っ掛かりとして、3年前やそれ以上前の建築物なら、もうすでに三途の川を渡りきっているのではないだろうか……。「この場所はなんなのか?」というミステリー的な印象を強めるための仕掛けではあるのだけど。
 まあそれはそれとして、3年前に取り壊されたはずのプールに飛び移ることに。

 見ていて妙に気になるところだけど、ナツメがやたらと怪我をする。これはなぜだろう。ナツメが周りのエゴを1人で引き受けている……ということも関係ありそうだけど。

 この場所にやってきて以来、コウスケとナツメが初めて共同作業を行う。ポイントは台詞だが、台詞と行動があべこべ。言っていることとやっていることがズレている。言葉ではガツガツに喧嘩しているが、しっかりと協力し合っている。
 子供というのはプライドの塊。子供は自分の意地を守ろうとする力が強い。大人になっていくとこの妙なプライドが抜け落ちていって、何でも受け入れられるようになっていくのだけど、子供はなにかと意固地。本音をぜんぜん言わない(特にナツメはぜんぜん本音を言わない)。コウスケとナツメは、過去になにかしらがあって対立する関係になってしまった。それは現時点では明かされないが、お互いに自分の立場を守りつつ、相手を攻撃しつつ、それでも裏では想い合っている……。子供らしい意固地がぶつかり合っている場面で、台詞のやりとりがやたらとリアル。それでいて、しっかりと2人の関係が接近していく過程も描かれている。

 そんなことをやっている間に、何者かが「非常持出袋」を置いていく。
 何者だったのか……。団地に付喪神がいるのなら、当然ながらプールにも付喪神はいるはず。ここでプールの付喪神が姿を現さなかったのは、そもそも付喪神は軽々に人前に姿を現す物じゃない……という付喪神ならではの約束後があるのかも知れない。
 それに、物語の展開として、まだノッポ君の正体が明らかになっていない段階で、別の建築物の付喪神を見せると、話が混雑してしまう。
 ただノッポ君は、団地に籠城しようとしているナツメがあまりに気がかりで、姿を現してしまった。ここからこの不思議な物語の切っ掛けが生まれている。

 非常持出袋を持って帰還し、どうにか数日分の食糧確保に成功。
レイナ「フン。どうせ熊谷が頑張ったんでしょ」
 と嫌味たっぷりに言うレイナに、
ナツメ「うん。コウスケのおかげだよ」
 と答える。このおかげで、みんなのコウスケに対する評価は上がっていくが……やはり子供の振るまいとして不自然。ナツメは自分の感情をどこかに置き忘れたみたいな対応を取る。そのおかしさに、コウスケだけが気付く。
 これまでコウスケは単独行動を取っていたが、プールでの一件でナツメとの関係をある程度回復させ、さらにナツメのはからいがあって、ようやくみんなと一緒に行動するようになった。意固地だったコウスケの感情がようやくほぐれていく。

 もう一つの重要なアイテムがフィルムカメラ。ナツメはなぜこのカメラを自分が持っていたかを明かす。
「コウスケ、これ。これね、やす爺からコウスケにって。その、2人で話してたんだ。コウスケの誕生日に、サプライズしようって」
 これに対してコウスケは、
「お前が謝んなよ。俺だって、俺の方が……」
 ……でも恥ずかしがって何も言えないコウスケ。やはり本音が言えない。こういうところは素直じゃない子供なのだ。

 ここからは後半パート。場面カットのみで映画を掘り下げていこう。
 40分を過ぎたところで、ようやく物語中の謎が明かされていく。

 まずノッポ君が人間ではないこと。
 腕に苔やらなにやら生えている。後にタンポポなんかが咲いたりするけど、基本的に全て「地面に生える植物」。建築物の妖怪なのだから、管理されていない状態になっていくと、当然ながら体には苔やら草やらが生えてくる。

 もう一つ明かされるエピソードは、2人の関係に亀裂が生まれてしまった過去のある事件について。
 それはお爺ちゃんのお見舞いに行ったときのこと、不安そうにしているナツメに、コウスケはこう言う。
「お前の爺ちゃんじゃないんだし、そんなにビビんなくても……」
 台詞のトーンからわかるように、これは「気遣い」で言った台詞。でもこの瞬間、ナツメははっとする。「そうだ、私は家族じゃないんだ」。家族じゃないから、家族みたいに心配したり、悲しんだりするのはおかしんだ……。家族だと思い込んでいたけど、家族じゃなかった。
 これが2人の関係が崩壊する切っ掛けとなり、さらにお爺ちゃんの死で決定的になってしまった。それきり、2人は距離を置いて、お互いを気にしながら過ごすのだった。これも一つの「端境」を生む事件となっていたのだが、さらに色んな「端境」が2人の上に重なっていく。

 53分。今度はデパートが近付いてくる。今度も食糧確保のためにコウスケとナツメ、ノッポの3人が乗り込むのだった。
 しかし元デパートとはいえ、やはりすでに取り壊された建物。ほとんどの物は撤収済みだった。

 デパートの玩具売り場の近くで、青い光がキラキラと現れて、ナツメの幼い頃の姿を映し出す。
 この青い光がなんなのか、というと「残留思念」が一番近い言葉。そこで活動していた人の記憶のようなものが想念となって留まっている。青い光に触れると、その時の記憶が再生される仕掛けになっている。
 後のシーンで、青い光に触れた瞬間、お爺ちゃんの声が聞こえる……という場面がある。なんでお爺ちゃんの声が聞こえたのか、というと団地に残っていた残留思念に触れたから。
 ここでナツメの子供時代の姿を見せる……ということが後々の大きな伏線となっている。

 建築物同士がぶつかる、かなり派手なシーン。現実ではまず見ることのない、面白いシーンだ。

 ここがアニメーション的な見所。今まさに落下しようとしている女の子がいて、その女の子を助けるために、崩れた壁面を登らなくてはいけない……さあ、この場面をどう描く?
 アニメーター的にはかなり難しいシーンだが、見事に描ききっている。長回しで「カメラワークでごまかす」という手も使えないし、ナツメは普通の女の子だから空を飛んだりとかもできない。崩れた壁を登っていく所作を一つ一つ描かなくてはいけない。この動きが見事なので、是非見てほしい場面。

 ナツメは安藤ジュリを救い出すが、海の中に落ちてしまう。海の底には、真っ暗な何かがいて……。
 これが何なのかというと、「死」。団地がただよっているこの場所は「三途の川」のような場所で、水底に沈むと死……つまり「消滅」する。あの世の中での死だから、消滅してしまうともう現界で生きている人から思い出してもらえることもなくなる。「存在」がなくなってしまうのだ。

「ジュリはわたしの親友なんだよ……」
 救われたが気絶したまま目を覚まさないジュリ。ここでレイナははじめて他人のために感情を露わにする。レイナは物語の最初からひたすらに自分の欲求が動機になって動いているキャラクターだった。ただひたすらに自分勝手。でも初めて他人のために感情を爆発させる。
 ただ、それを救ってくれた相手であるナツメに対して爆発させるのはどうかという感じがあったが。

 落ち込んでいるナツメの様子を見て、話しかけようとするコウスケ。
 怒鳴り合っているけれど、やはりお互いに気を遣い合っている。優しさが不器用。声優の芝居が良いので、この微妙なトーンの使い方が上手い。

 ナツメの過去が語られる。ナツメがやっと「本音」を語った場面だ。問題のあった家庭だった。夫婦は毎日喧嘩。この日もナツメの誕生日だったのに、両親はガツガツに喧嘩。そんな様子を幼い頃から見ていたから、ナツメは早く「大人」にならなくてはならなかった。親にも感情を見せず、自分の欲求は抑えて、「聞き分けの良い」子供を演じ続ける。
 最初のシーンを見てわかるように、母親はそんなナツメの振る舞いには気付いている。「自分は母親の役割をまっとうできていない」と、そういう負い目を持っている。家族っぽく振る舞おうとするのだけど、どこか不自然な関係になっている。

 間もなく離婚し、シングルマザーになったナツメの家族は、団地に引っ越してくる(シングルマザーになって生活のグレードを落とさなくてはならなくなったからだ)。そこで、ご近所だったヤス爺と知り合う。
 ナツメはヤス爺と知り合い、コウスケと一緒になって疑似家族の関係を築いていく。

 ヤス爺の前では、こんなふうに悩みを打ち明けて泣くことができる……。母親に対してもできなかったこと。ナツメの心情的には、ヤス爺が「父親」という認識だった。

 そこで最初のシーンの意味が明らかになってくる。ナツメが工作で作っていたのは「家」。ナツメにとって「家」「家族」がなによりも大切なものだった。だから工作で何かを作ろう……という課題をもらうと、まず「家」を作ろうと考えた。
 でも自分の欲求や感情を抑える「聞き分けのいい子供」として育ってきたから、ぶつかられて工作物を破壊されても怒ることはない。自分の本心や本音を抑えて隠して……ということになれすぎてしまった女の子。
 そのナツメにぶつかるレイナは対象的に、自分の欲望にひたすら忠実。2人の関係が対象となっている。レイナが実は「裏の主人公」として見て行くと、この作品のサイドストーリーが見えてくる。

 ところがヤス爺はこの世を去ってしまう。

「でもさ。泣いても泣いてもなんにもならなくて。全部バラバラのままで。だからあの時は、もうなんにも欲しがらないようにしてた。そのほうが楽なのかなって。でもね、団地に来ることになって、ヤス爺が受け入れてくれて。やっぱり、嬉しかったんだと思う。だって、こっちのほうが、本当の家族っぽいのかなって思ったくらいだもん。それに、どんなことも話せて、泣いてもよかったから。こんなに嬉しいことなんだって。……けど、ヤス爺はもう死んじゃった。団地もなくなって、またバラバラになっちゃった。お別れなんてもういやって思うほど、苦しくなっちゃって。けどそんなことお母さんに言ったって、どうしようもないことだもん。だから、ここに来るしかなかったんだよ。ごめんね。こうすけにも迷惑かけたくなかったのに。私がグチグチ考えているのが悪いんだ」

 ヤス爺が死ぬ直前、「家族じゃないんだから」と言われて、ハッとしてしまうナツメ。家族だと思っていたのに、家族じゃなかった。それを突きつけられた直後、ヤス爺が死に、さらに団地そのものが取り壊されることになってみんな離ればなれになって……。
 「家族」と「家」と同時に喪う、という事態に直面してしまったナツメ。しかしそれを受け入れられなかった。これがナツメが団地に籠城しようとしていた動機だった。

 1時間19分。
 さあいよいよ団地が沈む。団地から脱出しなければならない。

 そんな最後を前にして、ナツメは団地に乗り移ってしまう。

 ナツメを追いかけて、コウスケも団地へ向かおうとするが、どうしてもたどり着けない。
 なぜなのか?
 まずこの異界にやってくるとき、雨が降ったことを憶えているだろうか。あの雨が「境界」の役割を果たしていた。ナツメが団地に乗り移ったときもあの時と同じ雨が横切っていった。あの瞬間、別の次元に移ってしまった。死すべき運命の団地と、まだ生きているはずの子供たち……この二つが別々の領域に移ったから、次元がそこでパッと切り分けられてしまった。
 しかしそんな最後の時に、ナツメが団地に乗り移ってしまう。これはナツメが団地に感情が捕らわれているから……だけどもう一つ理由がある。
 ナツメ達がこの場所に転移するとき、何があったか憶えているだろうか。ナツメは転落し、「死にかけ」ていた。「死の運命」をいったん保留して、異界へやってきていた。ナツメは団地とともに死の運命を受け入れなければならない。だからナツメはこの場面で団地のほうへ飛び移り、それを切っ掛けに雨が降って境界が切り分けられてしまった。

 再び青いキラキラが舞って、子供たちに幻を見せる。
 青いキラキラは「残留思念」と書いたけれども、ちょっと違う。説明が難しい概念だが、人間はあちこちに「生命」の痕跡を残していく。その痕跡はあちこちに残されていく。それが時としてイメージを再生させることがある。
 ここでは子供たち自身の想念が具体化して見せている。みんなが「帰りたい」と思っているいま現在の「家」と「家族」の姿だ。
 「家」と「家族」が出てくるところで作品のテーマと合致している。さて、どの家がどの家族だろうか……。

 ここからが面白い場面。なぜここで観覧車が出てくるのか……というのは映画的な見せ場を作るため。このあたりは理屈を尋ねるのは野暮だろう。
 ここでコウスケがやろうとしているのはギリシア神話のオルフェウス。冥界へ下りていって、妻を連れ戻す、あの神話ね。コウスケがやろうとしていることはまさにそれ。死の運命だったナツメを取り戻さなければならない。でもナツメは死ぬ運命を背負って団地のほうへ行ったのだから、容易に連れ戻せるものじゃない。

 ここでもう一つのポイントは、作中、ずっとエゴイズムむき出して行動してきたレイナが、そのエゴイズムを引っ込める切っ掛けを作ること。
 レイナは登場の時から「フロリダのランドが~」と話をしていたが、はっきりいえば「身の丈」に合っていない。身の丈にあっていないものを、自分が持っているステータスだと思い込んでいた。正しくは、「親のステータス」だよね。でもこの場面で、レイナが本当に身の丈に合ったステータスとして地元のショボい観覧車が出てくる。「アンタはこんなもんだよ」と。
 そこでレイナはハッとなって、初めて他人のために行動する……ということを始める。

「俺はやっぱりこんなオンボロ団地嫌いなんだよ! お前隠れて泣いてたのに、知らねえフリしたこと思い出すし、そういう俺を殴ってやりたくなるし、だし、俺んちとお前は関係ねえとか言っちゃって、関係大アリじゃん! お前は土足で上がってねえんだって! ここは立派なお前んちだよ。でももう捨てて行かなくちゃいけねえんだよ! だってお前と一緒に帰れねえじゃん! ノッポなんかより俺の方がナツメに一緒にいたいんだよ!」

 ここに来てコウスケもやっと本音でぶちまける。男の子って、本当面倒くさいわ。でもナツメはやっとコウスケの本音を知って、死ぬ運命を受け入れるつもりだったが、「生きよう」と活動を始める。

 最終的に行き着いたその場所は……。三途の川を渡りきったのだから、ここは天国。役目を終えた建築物にとってのヴァルハラ。ここにきて、団地の精霊・ノッポ君は成仏するのだった。

 宿主が去って、団地は生きた人間であるコウスケたちを載せて、三途の川を離れていく。
 青い光が子供たちの周囲を駆け抜けていく。青い光は「生きている人たち」の残像のようなものだから、生と死の端境をくぐる瞬間、そこを生きてきた人たちの想念が一斉に駆け抜けていくような表現になっている。これをくぐり抜けて、「生」の世界へ帰還していく。単なる情緒で描いたシーンではないのだ。
 こうしてこの物語は終わる。

 この作品を見て、私がまず思ったのは、「これは海外に紹介したい作品だ」ということ。なぜかというと、日本のある景色・文化を切り取って、それをエンタメとして成立させている。単に楽しい作品、子供の冒険物語、というだけではなく、「団地があった時代」をうまく切り取って、それを「ノスタルジー」という綺麗な包装紙に包んで表現している。「団地」は戦後建築・高度経済成長期を象徴する建築であるが、それは平成の時代を通り抜けて、日本から消滅しようとしている。そんな団地に住んでいた人がいて、古里にした人がいて、それがお別れの時を迎えようとしている……そういう過程そのものを物語にしたのが本作だ。
 この作品を見て、深く掘り下げていけば、いつか必ずそういった文化・時代があった……ということに行き着くはず。そこから日本の戦後文化のある一面を知ることができる。
 現実には「団地」という場所は何かと「社会問題」の場だったし、昭和の時代が終わる頃には「時代遅れ」の産物になっていた。時代遅れの産物になっていったもの、というものは何かとパロディの対象にされやすいものだ。
 しかしこの作品のアプローチはぜんぜん違う。あんな場所でも、そこで過ごして育ってきた人たちにとっては「家」だった。そこに住んでいた人たちまるごと「家族」だった。そんな団地という場所への愛着を込め、団地という場所の再規定し、それを全部込めた物語という形として表現した。この表現が見事だったし、大成功を収めている。物語は本来そうあるべきだ、というものを描いている。

 この作品のちょっと不思議に感じたところ、というか「今時だな」と思ったのは、最終的にレイナとジュリのカップリングが成立してしまったところ。こういう時、2人の少年と結びつくものじゃない? 私は最初、レイナとタイシが結ばれるお話だと思っていた。
 レイナとジュリが結びついてしまったおかげで、残った2人の少年からドラマが消えてしまい……ただの背景キャラ扱いに。この辺りも、「男性の陽炎化」……と私が最近言い始めていることだけど、この動きに呼応した現象なのかな。

 私はそんなふうに高く評価したのだけど、だからYahoo!映画の一般レビューを見てびっくりしたんだ。まず、ほとんどの人がこの作品の物語すら理解していない。自分が理解できていないことすら気付いていない。『雨を告げる漂流団地』はことさら注釈の必要のない、誰が見てもわかりやすいエンタメ作品……だと思ったのだが、しかし一般層には驚くほど伝わっていない。テーマを理解していなければ、物語の大筋の流れすら理解していない。理解できていない状態で、上から目線のレビューを書いてしまう……。一般層の理解力の低さに驚いてしまったし、「ちゃんと解説を書かねば」と感想文もやたらと長くなってしまった。
 一つ、一般層に理解できなかった理由として思い当たるのは絵がわりがほとんどなかったこと。というのも団地とともにずっと三途の川にいたわけだから、絵がわりするわけがない。どうもこれが読解力の低い人とからは「似たような展開ばかり」……と映ったのではないだろうか。台詞を聞いているだけでも、物語の進捗は理解できるはずなのだが……。
 もしもこの理由が正解だった場合、一般層って絵の雰囲気と場面の雰囲気だけで映画を観ている……ということになるが……その程度しか理解できてない人が論評なんかやっちゃダメでしょうに。

 一般レビューをはじめとしてやたらと評価の低い本作だが、私は高く評価したい。とにかくもよくできている。「団地」という一つのお題から、かなりしっかりとした筋の物語が作り上げられている。団地という場所に対する思い入れや、「忘れてくれるな」という想いがメッセージとなって強く現れている。そうしたテーマをどのように表現するか、ということが「表現」とするならば、本作は非常によく作られた作品だといえる。
 結局は団地は「時代の産物」として消えていくものとして描かれ、コウスケとナツメは新しい家へと移っていく。映画のラストカットがどうだったかというと、コウスケとナツメが見つめ合って……で終わる。ずっと姉と弟という疑似家族の関係性で育ってきた2人。子供の関係で、「男女」の意識はなかった。団地で過ごしてきた幼年期が終わり……それを予感させる終わり方となっている。この2人の行く末がまた楽しみだ。要するに、この結末を描くことで、作者としても「団地の終焉」を受け入れたんだ。
 といってもこの面倒くさい2人のことだから、2人の関係が「恋愛」になるまで、長い遠回りをしていくことだろう。
 団地という奇妙な題材で作られた作品だが、とにかくもしっかり作られた作品だ。よくわからなかった……という人はこの解説を読んで、もう一度視聴して欲しい。作者が何を表現したかったのか、それを読み取って欲しい。


この記事が参加している募集

アニメ感想文

映画感想文

とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。