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読書感想 裸はいつから恥ずかしくなったのか――「裸体」の日本近代史/中野明

 歴史家すら忘れていた、かつてあった日本人の風習。

 それはとある1枚の絵から始まった。その絵とはこちらの作品である。

 『下田公衆浴場図』という作品で、描いたのはドイツ人画家のヴィルヘルム・ハイネ。描かれた年代は1854(安政元)年である。歴史に詳しい人はこの年号を聞いてピンと来るかと思うが、この前年、ペリーが艦隊を引き連れて江戸に来航した。そんな年に日本の銭湯を描いた西洋画……ということからわかるように、ヴィルヘルム・ハイネはペリーとともにやってきた随行画家だった。
 日本に訪れたペリーは「日米和親条約」を締結させた後、本国に戻り、政府に提出するための公式文書である『合衆国海軍提督M・C・ペリーの指揮下における1852年、1853年および1854年に実施した中国海および日本へのアメリカ艦隊遠征記(通称『ペリー艦隊日本遠征記』)』なるものが作られた。これはただの文化調査資料ではなく、軍事的な攻略を含む重要書類だったので、全三巻、各巻400ページ超えというなかなか凄い書類であった。この報告書の中には日本の文化、習慣についての詳細な報告が含まれており、『下田公衆浴場図』はその中に描かれた挿絵の1枚であった

中段左端の男性がヴィルヘルム・ハイネ
ヴィルヘルム・ハイネの肖像画

 画家についても触れておこう。ヴィルヘルム・ハイネは1827年にドイツのドレスデンに生まれ、王立芸術学院で絵を学んだ。1848年に起きたドレスデン蜂起に参加するも、挫折し、1849年にアメリカへ移住する。ここで画才が認められたハイネは、外交官という肩書きでアメリカ先住民の様子や風土を絵として記録している。そうしたことから、ペリーとともに随行画家として日本へやってくることになった。
 ヴィルヘルム・ハイネは3度日本を訪ね、400枚に及ぶスケッチを描き、そのスケッチをもとに『ペリー艦隊日本遠征記』に掲載された多数の挿絵を描き上げた。

 『下田公衆浴場図』はその中の一枚だが……なんとなく変な感じがする。まず「銭湯」の絵だというのに浴槽が描かれていない。やや斜めに傾いた地面の上に、裸の男女が当たり前のように同居している。サウナ風呂だろうか? 場所の問題についてはさて置くとして、引っかかるのが当たり前のように裸の男女が同居していること。なのにそこに性的なものを感じさせる“視線”がない。男達は別に裸の女達をジロジロ見ていたりしない。性的に興奮している様子もない。こうやって裸でいることが当たり前のように、ごく自然な感じに同居している。
 なんだか奇妙な感じのする絵だ。この絵は、かつてあった日本の様子を正しく描写しているのだろうか?
 この疑問を解き明かしてみよう……ということでこの本は始まる。

 ペリー提督は1853(嘉永6)年、浦賀沖に現れ、神奈川県条約を横浜で結ぶ。これによって鎖国状態だった日本は開港となり、ペリー提督の艦隊は下田に上陸した。4月18日午後3時10分投錨。その時の様子を「変化に富んだ景色と海岸の絵のような美しさに、一同感嘆の声を発したものだ」と記し残している。
 この後、神奈川条約の細かい取り決めに関する交渉が行われ、6月20日に下田条約が締結される。これら2つの条約を合わせて「日米和親条約」と呼ぶ。この時にペリー一行は幕府の監視付きであったが、下田の街を自由に散策することができた。
 そんな最中、ペリー艦隊の士官が日本の銭湯を訪ねるのである。
「人々は皆非常に礼儀正しく控えめである。しかし驚くべき習慣を持っている。ある公衆浴場での光景だが、男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」
 そしてこう記す――「身分の低い日本人は、道徳こそ他の東洋諸国より優れているが、淫猥な人たちだ」と。

 銭湯における習慣ばかりではない。当時の日本人女性は胸を隠そうとしなかったし、歩くときに太ももをちらつかせることにも何にも思ってなかった。男も半端なボロだけ(おそらく褌のこと)で前を隠して出歩いていた。アメリカ人達は日本の様子を見て、彼らは慎みを知らない。下劣で淫ら。東洋の中でも文明化されていない。モラルなき民族と断定している。「春画や猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を超している」とこのように表現していた。

 この後も西洋人に対する日本へのバッシング事例は続くのだが、省略しよう。まずそもそもの話として、当時の日本と西洋とでは習慣がまるっきり違っていた。西洋において裸はタブーだった。たいていの西洋人は結婚するまで異性の裸すら見たことがなかった。結婚して初めて見る新妻の恥毛に腰を抜かした……なんて話もあるくらいだ。
 入浴の概念も日本と西洋とではまったく違っていた。まずいって、西洋には「風呂に入る」という習慣自体なかった。まったくなかったわけではなく、14世紀頃まではお湯につかる風習はあったようだが、ペストの蔓延により、「熱い湯に入ると皮膚に裂け目が生じ、そこからペストが入り込む」という迷信が広まったために、この習慣はなくなってしまった。
 これ以降、西洋に入浴の習慣はなく、たいていの西洋人は人生で一度も入浴せずに終わる。水浴びもしない。そのかわりに下着さえ新しくすればよい……という考え方だった。ご存じのように、それで西洋人は体臭がきつく、香水が発達したと言われている。
 こんなふうに習慣がまるっきり違ったから、西洋人達は人前で裸になり、入浴する日本人にビックリ仰天したわけだった。

 日本にやってきた西洋人達は、どうやら入浴体験をしてみたけれど、まったくダメだったようだ。入浴風景を見て、まず「彼らが何をしているのか推測もできなかった」と語っていたし、その湯の温度についても「私は一分間も手をその中に入れられないほどだった」と語り、入浴の行為そのものも「中世以前の聖人の殉教のよう」と表現していた。
 実際、この時代の銭湯のお湯はどうやら相当熱かったらしく、「45度」という記録があるが、ゆったり入るにはやや熱すぎの温度だった。銭湯になれている日本人も、「体がゆでた蟹のよう」になっていた、と記されている。

 そろそろ絵の謎について解き明かしていこう。
 『下田公衆浴場図』は私たちの知っている銭湯、あるいは大浴場とはどこか様子が異なっている。裸の男女が同居しているし、浴槽が描かれていない。絵の中央、破風(はふ)のようなものの向こう側はどうなっているのだろうか?
(破風 ……破風とは屋根の妻側にある山形の板や付属物の総称。家を雨風から守る役割を担っていた)

 こちらの絵を見てもらいたい。この作品は浮世絵師・山東京伝が1802(享和2)年に発表した『賢愚湊銭湯新話(けんぐいりごみせんとうしんわ)』の一場面である。
 この絵の中に、ヴィルヘルム・ハイネの作品に描かれている破風と同じものが描かれている。
 注連縄が飾られているのは、時期が新年であるから。絵の周りに書かれている文字を見ても「今年は静かな良い春じゃ。去年の心の垢を洗い落として、恵方巡りをしよう」と書かれている。さらに唐獅子と牡丹が書かれている。この破風のようなものを、当時は「石榴口(ざくろぐち)」と呼んでいた。
 ではこの石榴口の向こう側はどうなっているのか。『賢愚湊銭湯新話』の続きを見てみよう。

 石榴口の向こう側は浴槽になっていた。文字を見ると「これは強勢に熱い湯だ。灼熱地獄の銅壺(どうこ)の蓋か。不動様の背中ときている」「ああいい加減な湯じゃ。これがほんの極楽浄土。ああ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」……くつろいでいる様子が見て取れる。
 ここで改めてヴィルヘルム・ハイネの絵を見ると、石榴口の向こう、段差のようなものが描かれていて、その中に入ろうとしている人が描かれている。あれが浴槽だったのだ。
 ではこの石榴口のこちら側、洗い場の様子はどうだったのだろうか。やはり『賢愚湊銭湯新話』を見てみよう。

 このようになっていた。注目なのは地面の傾き方で、中央に向かって斜面になっていて、その中央部には溝ができていた。当時の銭湯ではここで体を洗い、汚れた湯は斜面を滑り落ちていって溝のところから外に排出される……という仕組みになっていた。
 次の資料を見ていただきたい。

 こちらは『守貞謾稿』に収録されている、当時の浴場の平面図である。この平面図を見ると、下側が表入り口となっていて、入り口の土間を上がると脱衣場となっている。図面の左下と右下に衣服棚が書かれている。そこからシームレスで洗い場につながっていて、その洗い場の中央には「溝一寸」と書かれている。これが洗い場の溝部分だ。その洗い場の向こう側に石榴口があって、さらに向こうが男浴槽・女浴槽となっている。

 以上のことから、ヴィルヘルム・ハイネの描いていた絵はかなり正しかった……ということがわかる。実際当時の浴場はあのような構造になっていたのは確かなようだ。
 だが問題なのが「男女混浴」の部分だ。ヴィルヘルム・ハイネの絵を見ると、さも当たり前のように裸の男女が同居している。これは事実だったのか?

 ここから江戸時代までの日本人の「裸観」というものに触れておこう。
 まず幕末の頃、日本にやってきた西洋人達の証言を並べていこう。
「私がいても一向に恥ずかしがらなかった。なぜなら、身体を洗い終えると、彼は丸裸で出てきて、全身を乾いた手拭いでこすっていたからである」
「外人が入ってきても、この裸ん坊は一向に驚かないし、せいぜい冗談混じりに大声を上げるくらいだった」
「男も女もおたがいの視線にさらされているが、恥じらったり抵抗を感じたりすることなど少しもない」
「休憩室では老若男女をとわず、すべての人が白い布もまとわない裸で、性別や年齢、つまり私たちが西洋で礼儀作法と考えるものとはいっさい関係なく、ありとあらゆる姿態で横になっている」
 ……とこんなふうに、幕末の日本人は裸を見られることをなんとも思わなかった。肌をさらすことを恥だと思ってなかったし、裸を見られることも恥だとは思ってなかった。
 職業によるが、ほぼ裸であることが当たり前の職業も一杯あった。例えば人力車夫などは裸で褌のみ。馬丁も裸。夏になると、そういう職業でもない人々も、ほぼ裸で仕事をしていた。
 かつての日本では「裸」の状態は特別でもなんでもなく日常だった。銭湯でお湯につかった後、男でも女でも裸のまま外に出て、家に帰る……という人も当時はいたそうだ。そればかりか、夏になると行水という習慣があったが、この行水はごく普通に往来でもやっていた。家の前に盥や浴槽を置いて、丸裸になって入っていた。それが普通だったから、道行く人もその様子をジロジロ見たりもしなかった。
 当時の日本では「内」と「外」の感覚もやや曖昧だった。日本を三度訪れたスイス領事ルドルフ・リンダウはこう語る。
「通常一階は、住んでいる人が寝る時間となり、頑丈で幅の広い、堅い木の板戸で閉められる時まで、開け放たれている。夏には、一日で家の中で起こることが見られてしまう。冬でも、一寸好奇心があれば、住人の生活様式まで細かく確かめることは難しいことではない」
 当時の日本家屋は、だいたいにおいて「開けっぱなし」だったので、外から覗き込もうと思ったらいくらでも覗き込めた。とある外国人は、この開けっぱなし状態の家に入り、その中の様子を眺めていたのだが、その住人に、「喉元をつかまれ、蹴られて追い出されてもおかしくなかったが、そうではなく、私を歓迎してくれた」と語っているように、なんの問題も起きなかった。覗き込んでもよかったし、入ってきてもよかったようだった。

 当時の人々にとって「裸」というのは、おそらく「顔」とそう変わらないものだった。現代の私たちでも、他人の顔を見たり、見られたりしても恥ずかしいという感覚はない。女性の場合、メイクをせず外に出るのは抵抗がある……かも知れないが、それも羞恥心からというわけではない。裸というものは特別ではなく、ある意味顔の延長だった。
 現代人が裸をタブーにしているのは、裸が性の対象だからだ。セックスを想起させてしまう。だから隠すべきである――というのが一般的な論法だ。だが当時の日本人は裸を見てそれで性的なものを想起させることはなかった。だから隠す必要がなかった。隠す必要がなかったから、男と女が裸になって一緒の風呂に入っても、そこで何も問題は起きなかった。

 美術史家の若桑みどり氏はこう語る。
「江戸に習俗としての裸体が徘徊していたということは、身体があっても、それを、自然な身体の危険性を持つものとして見る「視線がなかった」ということを意味する。いわば身体そのもののもつ意味が制度化されている、無害なものとなっているのであり、そのために、身体のもつ意味を直視することが前もってタブーとなっており、在っても「無い」ことになっていたのである。江戸のように高度に発達した文明社会において、白昼巷間に裸が自由に徘徊できるという理由は、高度に制度化された視線が人間の身体を包んでいた、という理由以外に説明できない。開化以前、日本で裸体が自由に往来していたのは、身体が無化されていたためである」
 日本人にとって身体は「裸」ではなく、「顔」の延長であり、それは「日常」の産物であった。だからそれで性・セックスという「非日常・特別」を想起させる感覚がなかった。日常であってタブーではない。そういうものであるから、隠す必要がなかった。
 というわけで、これは「価値観の違い」でしかない。裸であることを隠そうともしない日本人に、西洋人達は驚き、嫌悪し、「下劣だ」「文明化されていない」「おぞましい」と徹底的にこき下ろす。そういう西洋人達に日本人は恐縮しながら、こう答えていた。
「私は風呂で裸のご婦人に気づいたとしても、目をそらすことはしませんよ。そうすることに何か悪いことでもあるのですか」「西洋人というのは、何と好色な心の持ち主なのだろう」

本の感想


 この本では、ある奇妙な絵画から、かつて日本にはどんな風習があったかを掘り下げている。その絵画というのがヴィルヘルム・ハイネの『下田公衆浴場図』。裸の男女が同居しているのに、どこかあっけらかんとしている。性的ないやらしさがまったくない。ごく当たり前の日常として描かれていた。
 しかしそれが現代人から見ると不思議に感じる。この絵画に描かれていることは本当だったのだろうか?
 そこから、かつての日本は現代とまったく違う習慣と考え方があったことを明らかにする。つまりは「裸は別に恥ずかしいものではなかった」という歴史家すらほとんど話題にすることのない事実である。
 常識に囚われがちな人々にとって理解に苦しむかも話かも知れないが、性にまつわる習慣は世界中で同じというわけではない。例えば女性の乳房はどこの世界、地域へいっても必ず性的なものを喚起させる部位ではない。ミクロネシアだったと記憶しているが、この辺りの地域では、女性達は普段から乳房を出しっぱなし。乳房が性的なものという認識がない。その代わりに、どこで性的なものを喚起させるか、それは「太もも」で、そこは必ず隠すようにしている。もしも「強姦事件が起きた!」というとき、強姦魔は太ももを触るわけである。
 そういう地域の人々からすると、乳房を隠す文化の方が異様。「自分たちの考え方が絶対的に正しい」という考え方は傲慢ですらある。

 かつての日本では裸は非日常のものではなかった。それが性的なものを喚起させるわけでもなかった。だから隠す必要が無かった。かつての日本人は「裸族」というわけではなかったが、感覚的には裸族的なところがあったといえる。
 そんな話を聞いて、個人的に一つ謎が解けたような気分でいる。一時、私は春画について調べていたことがあったのだが、江戸期の日本人はどうしてこんなにオッパイに関心が無かったのだろうか……と不思議だった。オッパイの膨らみは曖昧だし、形も良くない。ふとすると、男と女、ほとんど同じように描かれる。オッパイに愛情が感じられない。かつての日本人に「巨乳」は存在しなかったのだろうか。
 しかしヴィルヘルム・ハイネの絵を見ても、ジョルジュ・ビゴーの絵を見ても、しっかり乳房の膨らみが描かれている。春画のオッパイがきちんと描写されていないのは、それが性を喚起する部位ではなかったからだ。エロ要素に貢献しない部位だから、やや雑に描かれていた。一方の現代は、オッパイこそが性を喚起する部位であるから、これみよがしに描かれがちである。
 江戸期の日本人おいて、性を喚起する部位というのは性器、そして性交そのものだった。だから性器が強調されて描かれる。どうして江戸時代と現代とここまで描写に違いが生まれたのだろうか、と疑問だったが、そもそもの習慣が違っていたから……が答えだった。

 ちょっと違う話題から今回のお話しを掘り下げていこう。
 「本音」「建前」という言葉がある。本音と建て前とは……という話をすると、どういうわけか「“日本人の”本音と建て前は……」というように、「日本人の」を枕詞にしがちだ。これが一つ問題だと思っていて、この表現だと、あたかも日本人以外は「建前」と「本音」がないかのよに感じられてしまう。実際に、西洋人は自分の考えを理路整然と言葉にして話すから、「西洋人の建前」などないのだ、とよくいわれがちである。
 そんなわけないだろ。
 西洋人にもごく普通に「本音」と「建前」を持っている。日本人の「本音と建て前」となにが違うのか、というと西洋人は自分たちの「本音」を決して語らないことにある。人生をかけて話さない、隠し続ける、場合によっては自身の本音に気付いてすらない場合があり、指摘しても否定することもある。
 だからある意味の「西洋人の本音」を暴き立てた精神科医のジークムント・フロイトが衝撃的だったわけである。西洋人にも本音がある。しかしほとんどの西洋人は自身の本音と向き合っていない。このことをはじめて指摘したのがフロイトで、だからこそ嫌悪された。
 不思議な話だが、アメリカでは映画のなかで自分たちの本質・本音を突きつけられると喜ぶという気質がある。例えばアメリカ人の暴力性や同性愛をどうして嫌うのか、といったタブーを指摘すると、高確率で映画賞を獲得しやすくなる。アメリカ人はマゾ気質なのだろうか。そういう国だから、アメリカもフロイトを受け入れたのだろうか。

アレクサンドル・カバネル 『ヴィーナスの誕生』

 西洋画の世界を見ると、どこもかしくも女の裸だらけである。西洋の世界において、裸はタブーであるはずなのに、なぜか絵画の世界では「問題ない」ということになっている。むしろ西洋画のなかの裸を性的な目で見るな……というくらいである。
 しかし――これらの裸に「性的な意識」が絶対にない……そんなわけはなかろう。事実、西洋において芸術は、公衆の面前に裸を出す。そのための方便ではなかったのか、という指摘がある。

ジャン・レオン・ジェローム 『ローマの奴隷市場』

 例えばこちらの作品。群衆が集まる中に、これみよがしに女性の裸をさらしている。女は羞恥で顔を隠している。その女の裸を前に、男達が競りをやっている。
 こんなの、エロいじゃん。エロ意識なしで、こんな作品が生まれるわけないじゃない。もしもエロ意識がなかったら、中央に立っているのは裸の女ではなくなるはずだ。わざわざ裸の女を立たせる。こんなの、画家に「裏の意識」があったのは間違いないし、これを好んで鑑賞するほうにも「裏の意識」があったに決まっている。
 しかし、すでに書いたように西洋人は自身の本音を語らないし、場合によっては自分の本音に自覚もない。指摘すると居心地悪そうに逆上したりする。よくよく見なくてもドエロな作品であっても、そういう作品だと気付いていないことすらある。

マネ 『草上の昼食』

 そこで出てきたのがマネの『草上の昼食』だ。この作品を見て、人々は猛烈に居心地が悪くなり、「猥褻だ!」とバッシングした。
 なぜか? これが猥褻というなら、アレクサンドル・カバネルの『ヴィーナルの誕生』だって、ジャン・レオン・ジェロームの『ローマの奴隷市場』だって充分猥褻だ。なぜこの作品だけがそこまで非難されたのか? マネの『草上の昼食』のどこがいけなかったのか?
 問題は描かれた時代観だ。アレクサンドル・カバネルやジャン・レオン・ジェロームは「神話の世界だから良い」「遠い昔の話だから問題なし」ということになっていた。神話の世界だから、女神様が裸であっても問題ない、と。一方、マネの『草上の昼食』はその時代の、ごく普通の人々裸になって佇んでいる。神話の世界でも古代ローマ時代でもない。現代だ。現代人が裸でいる……。「女神様だから裸であっても問題ない」という方便が使えない。当時の人々は、自分たちがやってきた方便を指摘されたような気がして、猛烈に居心地が悪くなり、それに対する反発として「猥褻だ!」と怒りの声を上げたわけである。
 ちなみに、マネは相当に「天然さん」なところがあって、別に当時の人々の本音を暴き出そうとしたとか、そういうつもりはなかった。まったくの無自覚にヨーロッパ人の本音を暴いてしまい、バッシングされ、その後はなぜか印象派の先駆者として祭り上げられてしまう。マネ自身はずっと「自分は古典絵画のスタイルを忠実に守っている」と思い込み続けたのだが。

 と、こんなふうに西洋人にも本音と建て前がある。しかも西洋人の本音は自分でも無自覚な場合が多い。西洋人の言い分を、すべて正直に受け取ってはいけないわけである。
 さて、お話しを幕末の日本に戻そう。西洋人は日本の銭湯を見て、衝撃を受ける。裸の男女が当たり前のように同居している。このお話しはどうやらアメリカだけではなくヨーロッパ中に知れ渡ったらしく、その後日本にやってきたヨーロッパ人がこぞって目指した場所はどこかというと銭湯だった。「男女が裸でいるなんてけしからん!」「日本はまだ文明化されていないのか!」などと言いながら、みんな銭湯を覗きにやってきたのだ。
 それで当時、日本の銭湯にやってきた西洋人の言及がやたらと出てくる謎が解けてくる。お前ら、本当は女の裸が見たかっただけだろうが。
 中には正直者もいて、イギリス人船長のヘンリー・ホームズはこのように書き記している。
「公道でみられた奇妙な光景を回想しながら、私は、女性にやさしい船乗りとして、帆を一杯に張って歩を進めた」
 要するに、西洋人達は「けしからん!」と言いながら、みんな股間をモッコリさせながら、女の裸をジロジロと見ていたわけである。

 こんなエピソードもある。1860(万延元)年、勝海舟がサンフランシスコに滞在していたときである。勝海舟は突然裁判所から出張命令を受けて、なにごとかと飛んでいった。裁判所からの呼び出しだから、何か問題が起きたんじゃないかと思ったわけだ。
 ところが行ってみると、裁判長が出してきたのは「春画」であった。
 裁判長によると、「昨日、サンフランシスコ公園で、ある2人の貴婦人が散歩をしていたら、日本の水夫が乱暴にもこの本を貴婦人に無理矢理与えようとした。そこでその貴婦人は大いに怒って、侮辱の訴えを当法廷に起こしたから、法律によって取り調べを至急執り行う」ということだった。
 なんだそんなことか……。勝海舟は問題をおこした水夫を割り出してすぐに処罰を与える、と約束し、その場を退出しようとした。
 しかし裁判長はそんな勝海舟を呼び止めて、こう言った。
「実はかの貴婦人達もその本を欲しいと言っている。2冊は彼女たちに進呈し、残りは私にくれないか」
 エロ本を突きつけられて侮辱された、許さない! ……というのが建前で、本音は「このエロ本いいわ。欲しい」だった。珍しく本音が語られた場面である。

 ここまでの話を聞いていて、「当時の日本人には羞恥心はなかったのか?」と思う人もいるかも知れないが、羞恥心はちゃんとあった。ただその対象が「裸」ではなかっただけの話で、日本人は当時からしっかりと「恥の文化」だった。
 幕末まで日本人は裸にさしたる恥じらいを感じておらず、西洋人がやってきてもしばらくは気にしなかった。ところがその後、西洋人達はこぞって銭湯を目指した。そればかりか、往来で行水があるとジロジロと見てきた。川遊びしている女の子もジロジロ見ていた。「けしからん! けしからん!」と口では言いながら、股間をモッコリさせながらしっかり見ていた。西洋では裸はタブーで、普段なかなか見られないものだからこそ、ここぞとばかり見ようとした。
 この時、初めて日本人は「性的な視線」を意識し、やはり根底には「恥の文化」があったから、急速に居心地が悪くなってくる。西洋人達は露骨に「性的な目線」だったし、その目線に気付かないわけがなかった。
 それに当時の日本政府は、西洋人達の言う「建前での非難」を真に受けてしまった。「裸に羞恥心を感じないのはけしからん」……西洋人達のこの進言を受け入れて、裸を隠すことを制度化し、社会的にも「裸を徹底して隠す」ことを相互監視をさせるような状況を作った。銭湯の混浴はこの時代に全面禁止となった。風呂帰りに裸で帰るなどあってはならぬ。当時は人夫など、裸に褌一丁が仕事着、という職業が結構あったわけだが、そういうものも処罰の対象になった。芸術表現でも裸は断じて許さぬ。性器の描写などは言語道断。
 当時は西洋という脅威があったから、今すぐにでも意識を変えなければ飲み込まれる……そういう危機感があったからこそ、日本人の文化観は急速に作り替えられていった。
 その成果といえるのか、1866年、イギリス公使館員のミットフォードは日本にやってきて、あちこち歩き回ったそうだが、往来の行水などもはや見ることはなかった、という。ペリーがやってきてまだ10年ちょっとといったところだが、すでに日本人の意識は変わってしまっていた。

 そうすると次の問題が起きた。こちらの絵が「問題」になった。

黒田清輝 1893 『朝妝』 1945年の神戸大空襲により焼失

 黒田清輝の作品『朝妝(ちょうしょう)』である。黒田清輝はパリへ留学し、絵を学び、1893年この作品をフランスのサロンに発表する。その時は特に問題がなかったのだが、日本へ戻り、1895年に京都で開かれた第4回内国勧業博覧会にこちらの作品を出品したとき、社会的な大問題へと発展した。
 公衆の場で裸を公開するとは何事か! けしからん! 風紀を乱す!
 当時は新聞メディアが中心だったが、囂々の非難。一方で、「どこが問題なのか」という擁護の声も上がってきて、連日賑わす大激論にまで発展した。

 風刺画家のジョルジュ・ビゴーが当時の様子を絵にして残している。黒田清輝の作品の前に、人々が集まって驚いたり好奇の顔を見せたりしている。もはや「芸術鑑賞」という空気感ではなく、ただ裸が見たいだけ、ただ話題の絵を見たいだけ……という様子になっている。
 これまで見てきたように、西洋では絵画の中の裸だけはタブーとしない、という「例外」を作っていた。しかし日本にはその例外がなく、絵画の中であろうと「裸」はすべてタブーである……という社会観を作ってしまった。だから問題になった。

 日本の悪いところが出た……という感じだろうか。日本はおそらく、世界でもっとも「不謹慎狩り」を好む民族だ。2020年はじめ頃、コロナウィルスの蔓延が問題になったとき、マスクを付けていない人を見つけると罵倒する、殴打する……というような事件があちこちで起きていた。不謹慎な物や人が許せない。不謹慎だと思う対象はいくらでも攻撃をしていい。日本人は大体において道徳心の高い民族だが、こういうときに道徳心の安全弁が壊れがちになる。
 1895年の議論では「裸」が問題になった。しかしその裸は、ペリーがやって来た40年前にはなんら問題ではなかった。わずか40年で日本人の意識は完全に作り替えられ、裸をさらすことは社会的な禁忌にすらなっていた。西洋では「芸術であればOK」という例外があったのだが、当時の日本はそういう意識すらない。ルールができあがったら、それを守るために極端に物事を考え、極端に行動してしまう。日本人はこの頃から変わってなかった。

 ペリー提督がやってきて、日本は急速な文明開化で風景も変わったし、意識も変わった。そういう話はよく聞くが、では具体的に何がどのように変わったのか? それを1枚の絵から掘り下げていく……という本だった。
 まず切り口が面白い。幕末に描かれた、現代の視点で見ると奇妙な感じのする絵。そこから当時の日本人の「裸」に対する意識をあぶり出していく。それは歴史家すら見落としていた視点だった。
 ここまでのまとめとして私が思ったのは、日本人は精神的な側面から見ても、西洋人にすっかり作り変えられてしまっていたのだな……ということだった。戦後、日本人はアメリカに敗北したため、徹底的に生活習慣を変えさせられた。住宅も着るものも変えられたし、食文化も変えられた。なぜ変えさせたのか、というとアメリカが日本を「買い手市場」にするためだった。アメリカで作ったものを日本で売れやすくするために、日本を徹底的にアメリカナイズさせていった。こうした習慣は戦争から70年経っても続いていて、アメリカが「法律を変えろ」と言ったら、今でも日本人は「合点承知!」と答えて何でも変えてしまう。どう考えても不都合な物でも採り入れてしまう。自分自身の軸のない、情けない民族になってしまった。
 でも実はその以前、ペリー提督がやってきた時からすでに、日本人は作り変えられていた。それは「裸」と「性」に対する意識だ。日本における裸と性は、もっと自然なものだった。もっと日常に接したものだった。今、裸と性といったら、どこか非日常的なもの、日常から切り離し、公にしてはならないもの……というふうに考えられている。そうではなく、幕末以前の日本では、もっと自然な、日常の営みの一つだった。それがいつの間にか破壊されていた。

 今でも多くの日本人は、アメリカや西洋のものは何でも素晴らしい、優れていると思い込んでいる。ヨーロッパの文化や言論は素晴らしい。日本は遅れているから、ヨーロッパの生活や最先端で論じられる思想を受け入れるべきだ……と語られがちだ。こういう話は、高学歴エリートほど陥りがちだ。
 だがやはり提唱しなければならない。本当にそうだろうか? ヨーロッパ人の思想や文化は、本当に素晴らしいものだろうか?
 例えば性についてだが、ヨーロッパの歴史を掘り下げると「黒歴史」しか出てこない。女性に対する猛烈な差別。例えば魔女狩りだ。魔女狩りなんてものがどうして広まったのか、というと根源的には女性に対する差別があった。キリスト教は平和的で素晴らしいものだ……と語られがちだが、実はキリスト教の性差別は苛烈だった。女性の修道士がどんなに修行に励んでも、キリスト教の教義では救済されるのは男性だけ、と最初から決まっている。女性はいつも一つ下の存在に置かれていた。
 同性愛の問題もそうだ。ヨーロッパでは同性愛は許されざるもので、同性愛と発覚した瞬間、周囲の人々に撲殺されていた。撲殺という野蛮な手段にでなくなった時代であっても、同性愛は逮捕の対象だったり、あるいは精神病院に監禁の対象だった。
 こんなヨーロッパが健全なものか?
 ヨーロッパの歴史を掘り下げると、暗部しか出てこない。私にはヨーロッパがかなり特殊で、「歪んだ文化」に見えている。
 それに、ヨーロッパにはヨーロッパ的な「本音と建て前」というものもある。ヨーロッパは日本に対し、いろいろ文句を言ってくるが、そこにも「本音と建て前」が隠れている。「ヨーロッパではこうなっている。日本は遅れている」……よくよく調べてみると、ぜんぜんそんなことはなかったりする。例えば児童ポルノの問題もそうだ。「日本は児童ポルノの生産国だ」――調べてみると、世界一の児童ポルノ生産国は(今も)アメリカで、その次にヨーロッパの国々で、日本はその次だった。ついでに実際の性被害も、日本は欧米に較べてはるかに少なかった。ヨーロッパ人はいつも自分たちの都合の悪い側面を隠しつつ、「建前の非難」をやってくる。それは見抜かなければならない。
 しかし日本はいつもヨーロッパ人の「建前」がわからず、額面通り受け止め、その通りの社会を作ろうとしてしまう。そこでおかしくなっていく。日本は今も昔も「恥の文化」だから、非難されると受け入れてしまう。今の日本はどこか歪んでいる……と感じるとき、建前の世界を実現しようとするからおかしくなっている、と考えたほうがいいかもしれない。

2013年頃、ネットで拾った画像。世界のアダルトサイトを比較した図。見ての通り、アメリカがもっとも大きい。日本は0.27%。「日本は児童ポルノ大国」と欧米から揶揄されたが、これも嘘。データを見ると、児童ポルノをもっとも生産していた国はアメリカ、その次にヨーロッパだった。
2005年のデータ。性犯罪の発生件数を比較したデータ。こちらで見ても、日本は圧倒的に少ない。なぜか学歴エリートは「日本は性犯罪大国!」と言ってはばからないが、ぜんぜんそんなことはない。こういうデータを出すと「暗数が~」と言ってくる人も多いが、もちろんその暗数もデータに含まれている。

 それにやはり「性」の問題だ。どうして今の私たちは、性をこうも取り扱いの難しい対象にしてしまったのだろうか。
 こちらの話も掘り下げたいところだが……それは別の機会を作っているので、近いうちにそちらで語るとしよう。

 昔の日本では裸はタブーではなかった。裸族ではないが、ある種裸族的な感覚だった。そんな話を聞くと、どこか牧歌的な感じがする。
 というのも、私も子供の頃はわりと裸族だった。夏に限るという話だし、パンツは履いていたけど。私くらいの年代になると、夏は裸族だった……という子供時代を持つ人は多いはず。私の子供の頃は今よりもっと大らかで、そんなにうるさく言われることもなかった。
 ところが今の時代、子供でも裸族は許されない。かつてあったような大らかさは少しずつ遠ざかっていく。ある時代ではもっと穏やかで牧歌的だった。そういう時代は西洋によって強制終了されていく。江戸時代の頃にあったかも知れない牧歌的な空気を知って、どこか懐かしさを感じるのだった。

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