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読書感想 夜這いの民俗学・夜這いの性愛論/赤松 啓介

 かつての「性の営み」とはどんなものだったのか。そこに日本人の本当の姿あったのかもしれない。

 「村」はその開発者と子孫が中心になって運営される。後に移住してきた人や、その子供は「村入り」しないと村人とは認められなかった。子供は宮参りすると村人として認められ、初詣(はつもうで)を見物に来た子供達に菓子や文房具などを配って、「子供組」に入れてもらう。
 子供組は12歳か、14歳になると子供組の「頭(かしら)」になった。年長者が何人もいると、選挙して「子供大将」を決めた。子供組の頭や大将は、子供達共同の遊び場所を決めたり、村の行事や祭に参加したり、金を集めて運営の費用にした。子供組には女の子も一緒、というところもあったし、「女児組」という別のグループを作ることもあった。大人達は子供組の自治には干渉せず、ほとんど子供達だけでなんでも決めることができた。
 子供組を卒業すると、その次はだいたい13歳から15歳で「若衆組」に編入される。若衆とは村の現役兵だった。村の行事、祭、喧嘩仲裁などの自治・運営を担っていた。
 若衆の年齢は、人口の大きな村だと15~25歳、ちいさい村だと13~30歳くらいまでであった。結婚すれば若衆卒業ということになっていたが、ちいさい村であると結婚後も若衆に属していて、40歳の若衆もいた。若衆仲間を出ると、40歳くらいまでを「中老」、中老を過ぎると「元老」と呼ぶ。村によっては「取締」「肝入り」と呼ばれた。
 女は13歳くらいで初潮が来ると「娘仲間」に入る。娘仲間は「姉さん」を頭にして若衆仲間と交渉したり、共同作業をする。村によっては「娘頭」「姉頭」という呼ばれ方をしていた。
 結婚すると「嫁仲間」「嬶仲間」を結成し、50~60歳にもなると「婆仲間」になった。嬶仲間は女組の中心的存在となり、男仲間との交渉時には代表として働いた。夫と死別し、後家さんになると「後家仲間」を作ることもあった。婆仲間になると「念仏仲間」なとともいわれ、隠居となる。
 戦国時代まで遡ると、この若衆のグループがそのまま軍団に加わった。戦国時代になると5000人とか1万人といった大軍勢になるが、なぜそんな人数を一度に招集でき、ボスの指揮を受けて軍隊行動できたのか、というと若衆グループに働きかけ、戦線でもこのグループ単位で行動していたからだ。だからこそ統制が取れていた。そして戦争に負けて解散となると、侍達がみんな落ち武者になったわけではなく、それぞれの村に帰っていたわけである。百姓一揆の時も若衆が活躍していた。
 子供組や若衆は村の治安を守るための現役兵であったわけだが、もちろんそれを指揮していた人間がいて、それが村の本家の総領だった。総領という機構のない村では、地主や豪農などの旦那衆が指揮していた。

 村の成年式というのがあって、だいたいは15歳からだが、稀に13歳からという村もあった。成年式は正月の4日から20日の間に催され、この日のことを「日の出」と呼んでいた。場所は村の公会堂、神社、寺院といったところで、こういった場所で若衆頭からの規約、作法の伝授があり、酒宴をして解散という流れだった。
 若衆は村の現役兵であるから、検査があった。四斗俵か五斗俵をかついで、百間くらい運ばせる。そのために集会所の庭には普段から土俵が置いてあったし、力石を置いて持ち上げさせて鍛錬させた。ここで不合格になる体の弱い子供は、街に逃げるしかなかった。川舟運送の盛んな村になると、合格すれば仲仕の仕事ができた。
(1斗…約18.039リットル 四斗俵は72.156リットル。100間…181.8メートル)
 若者達の鍛錬の中には「マラカケ」と呼ばれる物があった。茶瓶カケ、土瓶カケ、鉄瓶カケの三段階があり、中に水や酒を入れて持ち上げた。このテストでその少年の底力がわかるらしい。
 ……と、最初は本を読んでいて「なんのことだろうか?」と思っていたのだが、どうも大きくしたイチモツに茶瓶やら土瓶などを引っかけて持ち上げる……ということらしい。大正や昭和初期の頃は、雨が降ると若衆達が納屋に集まり、マラカケ競争をやって、1位はタダ、2位は10銭、3位は1円などと決めて酒や菓子などを買っていた。

 村では13歳になると「フンドシ祝い」があった。初めて白布または茜のフンドシをする。この時、叔母や年上の娘から正式に性交を教えてもらう。15歳の若衆入りの時に、年上の女性や娘からの実践的な性交、つまり「筆おろし」がある。これが済んだらどの村でも夜這いに行ってよい、といういことになった。
 フンドシ祝いには地域差があり、だいたいは白だったか、村によっては赤、黄色、茶色といろいろあった。フンドシを送るのは叔母か、それに近い女性。フンドシが送られると、送り主の家に餅でお礼をした。この時に、周囲の家にも餅を配るものらしかった。
 フンドシ祝いにも作法があった。母親の姉妹が嫁にいった村へ行き、白布か赤布一反に酒一升、米一升または重ね餅を添えて持参する。その家に到着したら、家族はよそへ行き、少年と叔母だけになる。
 挨拶が済むと、叔母は三方にのせた反物を中心に酒と白米と餅を供える。この時、八幡大神の掛け軸を掛ける。地域や家によっては天照大神や春日大神だった。礼拝して酒を下し、少年と杯で三献する。次に反物を下ろして、フンドシを1組か2組作る。子供を裸にしてフンドシを締めて、作法を教える。それが済むと、隣部屋へ行き、初床の作法を教え、性交の“実地教育”をする。
 ただし、こういうものは“公式儀式”というやつで、実際にはそれ以前に性交を教えてもらえる子供はよくいた。例えば著者の赤松啓介氏の体験で言うと、10歳の頃、近所のおばちゃんとコタツの中で性交した。これが初めてで、それからぽつぽつと経験があった。初めて射精したのが11歳。赤松氏だけが特別だったわけではなく、周りの子供達もみんな同じくらいの頃に経験していた。見た目が可愛い少年は特に早かった。“正式な筆下ろし”は若衆入りの時なのだが、少年によってはそれまでに何度も筆下ろしを経験する子もいた。
(役者の世界はもっと早かったらしい。早く一人前にしよう、ということで8歳とか9歳とかで筆下ろしだったそうだ。相手をする女性も、良い一座の子供に産まれると美人が当てられた)

 若衆入りについてもっと詳しく掘り下げよう。
 村によって決まりは違ったが、だいたいにおいて若衆の新入りは宮の拝殿、寺の本堂、集会所といったところに集められ、村の代表者が列席するなか、若衆頭が仲間を紹介し、決まり事や習俗の訓示などをする。それが終わると酒宴となった。こうした習慣は村ごとに違ったし、文字文献も残していない無形文化だったので全国的に共通する約束事というものはなかった。中にはひどい村もあって、新人いじめをすることが習慣化している村もあった。
 若衆入りすると、一人前の村人として、大人として扱われた。土木作業や農作業に出ると賃金支払いがあるし、女遊びや夜這いも公認となる。結婚も認められる。悪いことをすれば処罰もされた。
 すでに記したように、若衆入りの日を「日の出」と言って、その日の夜6時頃になると仏堂に集められる。ここで実地的な性教育、つまり筆下ろしが始まる。教育してくれるのは後家さん、奥さん、娘、尼僧、酌婦などで、雑魚寝形式が多かった。
(酌婦 …酒場・料理屋や宴会などの席で、酒の酌をする女。また、それをよそおった売春婦)
 ここからのお話しも村ごとに違ったが、よくある形としては夕食が終わった後、少年たちはお堂に集められ、閉じられてしまう。冬だから堂内は真っ暗だ。若衆になるともう大人、といっても15歳かそこらの少年たちだから、ワアワアと修学旅行のような風景だ。かすかなロウソクの明かりだけになり、この明かりの中で「組み合わせ」を決める。クジで決めるのだが、クジのやり方もいろいろだった。ある村では女達が相談して掌に墨で南・無・阿・弥・陀・仏と書く。少年たちも掌に南・無・阿・弥・陀・仏と書く。双方掌を見せ合って、合った者が組になる。この時「仏」で組み合ったものは本尊さんということで絶対変更不可だった。狭い村での話だから、母親とその子とが当たったりすることもあった。組み合わせは変更不可なので、そのまま母親や叔母としてしまうこともあり、すると子供もできることもあったが、当時は気にせず、そんな子も家族の1人として受け入れていた。
 組み合わせが決まると、全員で般若心経を2度唱える。次に西国33番札所の御詠歌の合唱。
 御詠歌が済むと、少年たちはいったん外に出て小便。よう絞って出すんだぞ、といったん追い出される。当時はお寺周りにトイレなんてなかったから、その辺でした。
 少年たちを追い出すと、女達はお堂に布団を敷いた。5組くらいでお堂は満杯だ。
 やがて少年たちが戻ってきて、組み合わせどおりのカップルを作り、筆下ろしが始まる。筆下ろしだから女のほうが経験者だ。セックスを楽しむ、というより少年に教育をさせながらだから忙しい。
 エロ漫画のような状況だが、初めての少年が多い場だから、うまくいかないことが多かった。緊張して立たなかったり、周りの状況に気を取られたりで、女は「アホ、横見てんと気入れんか」と叱ったりした。中にはすでに経験済みの少年もいて、そういう子は言わなくても手つきですぐにわかった。
 一通り済むと、「ああ、こんなええもんやったのか」という歓喜派と、「こんなもんか」という不満派に別れる。どちらであっても、ここから性の快楽を求めて放浪する日々が始まる。
 「日の出」の朝は早い。朝5時に起床すると、布団をしまい、堂内を掃除、若衆達は洗面。済むと堂に集まり、本尊さんの前に並んで般若心経を2回、西国御詠歌を2度合唱する。少年たちが並んで女達に礼を言うと解散となる。

 女の子も同じく13歳の頃、「カネイワイ」といって、昔は叔母からお歯黒道具一式贈られていた。お歯黒という時代ではなくなった後は、腰巻きを贈るようになった。名称だけは残って、腰巻きを贈るのに「オハグロ祝い」と呼ぶ地域もあった。贈る腰巻きは基本的には赤だったが、黄色や桃色というのもあったらしい。
 13歳……と書いたが、これはだいたい13歳、ということで、明治後半頃になると初潮がないと娘にしない、という村も増えたらしい。
 祝い方は村によって違ったが、播磨の市川流域、夢前川流域では初潮の来た娘を丁寧に祝った。親類一族、村の顔役、学校の先生まで招き、朱塗りの客膳にタイの焼き物、ハモの吸物、赤飯を出し、桃、桃がないときはリンゴを赤く染めて、笹の葉、松葉、ひいらぎ、ひばなどの小枝を挿したものを添えて出した。これを「サカエギ」と呼ぶ。
(現代でも娘に初潮が来ると赤飯を出す、という習慣だけは残っている。少年の若衆入りにまつわる習慣は完全に消失したのに、娘の初潮と赤飯という習慣だけは残った。なぜだかわからない)
 やってきた客に娘が挨拶をして引っ込むと、あとは宴で大騒ぎになった。
 中流くらいの家になると、オコワを蒸して重箱に詰め、近所や親類を回って本人が配った。もらった家はオウツリの祝儀に金や装身具を与えた。大正、昭和初期になると桃割れ髪にし、赤い腰巻きにして出した。これで村の人たちも“女”になったとわかった。
 この後に「水揚げ」となる。昼過ぎになると、村でも水揚げが上手とか人柄がよい人のところとか、他村の親類の長老などに相談に行く。相手はその後も相談しやすい人を選ぶ。若い道楽者は絶対ダメだった。
 娘はその日の朝になると母親と一緒に風呂に入り、よく体を洗い、このときにだいたいの作法について教わる。桃割れ髪に新しい赤の腰巻きをして、帯をしめてもらう。訪問先へは米一升、酒一升持参し、母親が挨拶をすると、娘を残して帰って行く。家には男だけで家族はいない。水揚げの多くは納戸で行う。納戸は騒いでも外に声が漏れないからだそうだ。この時の水揚げは、相手がベテランということもあり、かなり丁寧にやってくれるものらしい。
 帰るときには血の付いた拭き紙とか、白布を持たせていく。これで「水揚げ」が完了となり、一人前の娘になったということになり、若衆達が夜這いに来るようになる。
 ただこれは“公式な儀式”というやつで、家が貧しいと売られていく女の子も多かった。紡績工場やマッチ工場の女工として売られていく子もいるし、10歳にもならないのに女衒になる女の子もいた。女工として売られた女の子は、可愛かったらすぐに旦那、番頭、男工が“女”にした。こういうとき序列があるらしく、一番に旦那、次に番頭……とずっと下がってきてやっと丁稚の夜這いがOKということになった。
 かわいそうなのは女衒として売られていった女の子だった。村だと水揚げは初潮が来てから、あるいは陰毛が生え始めてから、という決まりがあったが、女衒の世界ではそういうのもお構いなしだった。女郎になれるのは15歳以上、という法律の決まりもあったが、そういうのはお構いなしだった。世の中にはどうしようもないクズもいて、女の子が苦しんだり、出血するのを喜んだりする男もいた。出血が少ないから処女じゃない、と大騒ぎする男もいた。遣手婆にもクズがいて、幼女には需要があるから、と10人くらいまではまだ処女だ……ということにして客をとらせていたこともあった。
 過酷な世界……に思えるが、中にはケロッとしてその世界に順応しちゃう女の子もそれなりにいたようだ。幼女は金になる、と自覚を持っている女の子もいて、そういう子は自分から客引きをして稼ぎ、若くして結構な貯金を作ったりしていた。

本の感想


 かつて日本にあった性習慣のお話しである。現代的な恋愛観や婚姻観が生まれる以前のお話しで、こちらのほうが日本の各地方に長く伝わり、根付いていたものだった。現代の恋愛観・婚姻観は近代に入って100年ほどで作られた、いや「でっち上げられた」ものでしかなく、人間本来の生理的なものを見た場合、おそらくはこちらのほうが原型的なものだったのではないか。

 現代人は「性にまつわる話」というだけでそれをタブーと見なし、話題を避けたり、避ける代わりに茶化したり、場合によってはそういう話そのものを封じようとする傾向にある。性の話題はそれだけで「低級・低俗」と見下しがちなところもある。そういった話題は公にしてはならない、考えてはならない……まるで「名前を言ってはいけなあのお方」みたいな扱いにすらしている。そうしてしまうのはタブーだから。タブーだから言ってはいけないし考えること自体許されない。なぜならタブーであるからだ! ……それくらいの現代人の頭の中は「性」というものを特殊なものとして扱い、それが習慣化したものだから、それがどういったものだったのか、もはやわからないくらいになってしまっている。
 しかし性の話題は避けるべきではない。おそらくは日本人の原型的な意識がそこにあったわけだし、さらにいえば人間そのもののあり方もそこから語ることにもなるからだ。性のタブーは西洋由来のもので、いつまでもものの考え方までも西洋(他人)に依存していてはいけない。自立して物事を考えるためにも、性について真面目に語る場があってもいいはずだ。ことによると、現代人の考え方のほうが「歪んでいる」可能性すらあるのだから。
 というのも、現代の性習慣なんてものは100年程度、産業革命以降に作られた物で、今回のお話しの中で描かれたような「筆下ろし・夜這い」の習慣は1000年やひょっとするとそれ以上に長い歴史を持っている(平安時代も夜這いをやっていた、という記録がある)。そういう歴史をもっているということは、そちらのほうが実は人間の生理的に合っていたのではないか。

 ここで少し筆者である赤松啓介氏について触れておこう。1909年生まれ。明治42年生まれだ。明治時代は45年で終わり、大正期に入り、日本は急速に近代化していくことになる。大正時代は日本の原型的な文化と、近代的な消費者文化や西洋文化が共存していた時代で、まさに旧時代と近現代の端境期だった。そうした時代に赤松啓介は思春期を過ごすことになる。
 赤松啓介は兵庫県加西群下里村(現在の加西市)に生まれ、その周辺をフィールドワークの舞台とした。播州(播磨)などもよく出てくる。地図で示すと、この辺りだ。

 大正期、昭和期に入って「近代化の波」というやつが猛烈な勢いで日本列島を覆い、文化も習慣も作り変えようとしていた。そうした最中、赤松啓介は地元の村々に残る習慣を、自転車ひとつで移動しながら集めて回っていた。赤松氏がそうやって方々を巡り始めたというのは昭和初期の時代で、まだ地方の村にはかつての夜這い文化が残っていた。そうした昔ながらの風習というものは、高度成長期までは残っていたとされる。しかしやはり高度成長期を端境にして、日本から完全に駆逐されてしまう。
 ただし、テーマとして扱うのは「性」である。いくら昔は「あけすけだった」とは言っても、いきなりやってきてマイクを向けられて話してくれるか……話してくれるわけがない。あけすけであると同時に、「恥の文化」でもあったから、そうした話は外の者には話さなかったり曖昧にしたり、場合によっては嘘も言った。実際に、高学歴エリート達が地方に残る性文化について調べようと、いきなりやってきて無神経にマイクを向けて話を聞き出そうとして失敗した……なんて例はいくらもであた。嘘や冗談を言われているのに気付かず、それを本気にして本にした……なんて例もあったらしい(赤松氏はそういう本を「噴飯物」と批判している)。
 赤松啓介がいつから民俗学を志向しはじめたか定かではないが、ある時期から自転車一つで地元の村を巡り歩き、その村の習慣に入って実践的に夜這いを重ね、そうしながらいくつもの話を聞き出した。村ごとにどんな違いがあるのか、自分の体験と照らし合わせ、共通するところや、普遍的だと思われるところを引き出していった。
 赤松啓介といったら、元・共産党員だった、という話から「そっち側の人」と思われるかもしれないが、戦時中、戦争に反対する立場を取ろうとしたら共産党という選択肢しかなかったからだった。本書でも「共産党員とは肌が合わなかった」と語っている。
 どうやら赤松氏は若い頃はそれなりの美少年だったらしく、本書にもあるように、10歳の頃には近所のおばさんと性交し、その後も何度も“筆下ろし”を経験したらしい。それなりの年齢になった後は、街に出て丁稚になったのだが、その時も“うぶ”なふりをして女達から筆下ろししてもらったということだ。結局、この人は何度筆下ろしを経験したかわからない(クソぅ、羨ましい!)。
 夜這いが解禁になる年齢になると、その美少年ぶりを活かして村の女達ばかりではなく、村の外に出張して何人もの女と経験することになる。民俗学を志してからは、その容貌や社会性の高さが役に立った。むしろあちらから誘われることが多く、夜這いに行って多くの話を聞き出していった。

 性の話題というと、一般的には「男性が女性に対し消費するもの」と、「男性優位」的なものと考えがちだし、もしかすると今回の話もそういう視点で見ていた人もいるかもしれない。実際には女性も大らかな性の時代を享受していた。
 田植えの時、女の子たちは一列に並んで苗を植えるのだが、これはかなりの重労働だった。この時、気を紛らすためによくしていたのが猥談だった。苗持ちの少年が可愛かったら田んぼの中に引き込んで股を見せつけたり、触らせたりして遊んでいた。お気に入りの美少年がいたら捕まえて強姦、輪姦はよくあることだったらしい。
 街に出たら、女主人や後家さんといった人が、お気に入りの美少年・美青年を愛人にする、ということもあった。赤松啓介もどうやらそういう女主人の愛人になっていたこともあるようだ。
 どの時代もバカな男がいて、「俺は1000人斬りを達成してやったぞ」なんて言うやつがいたが、この時代の女も気が強かったので、「なに言うとんの、私なんてとっくの昔に1000人抜きしてやったわ」と言い返していた。
 特に女達にとって美少年の筆下ろしは「ご馳走」ですらあった。みんな美少年の「初めて」を欲しがって取り合っていた。若衆入りの時の筆下ろしも、村の女達が仕方なく動員されていた……のではなく、実際には積極的に楽しんでいた。そういう背景があったから、赤松氏も少年の頃、童貞のふりをして何度も筆下ろしをしてもらっていた……というわけだ(やっぱりこのエピソードだけは憎い)。女もしっかり「性の消費者」だった。

 夜這いというと、女が男がやってくるのを待つもの……女が受け身の側、という視点で見られがちだが、この時代は女も主導的に性を消費する側に回っていた。
 女性側が積極的に夜這いの誘いかける……ということも多かった。赤松氏はあるとき、夫のいる女性に夜這いの誘いを受けたが、「親父はどうすんのや?」と聞いたら「追い出しとくわ」という答えだった。実際に行ってみると、夫は家にいなかったという。
 こんな話からもわかるように、当時は「浮気」なんてあまり気にしなかった。結婚していても男は夜這いに行ったし、女はお気に入りの男性を夜這いに誘っていた。お互いにそんな感じだったので、今みたいに「浮気がどうのこうの」なんて揉め方はしなかった。それで子供ができちゃう……ということはざらにあったが、気にせず家族として受け入れていた。親父は「こいつ、俺とぜんぜん似とらんやろ」とか笑って言っていた。
 現代は「戸籍」の考え方が浸透していて、ほとんどの人々はこの戸籍の法律をきちっと守るべきだと考えるから、そこに混乱を起こす行為をすると怒る……という反応をする。浮気で怒るとか、他で男を作って妊娠をすることに怒るという反応がここから来ているとは思わないが、浮気で怒るという意識は後天的に社会的に刷り込まれたものだということがわかってくる。

 ではどうしてこんなふうに「性」をテーマに語ろうとするのか。私の考えだが、そこに人間そのものが隠れている……という気がするからだ。人はセックスを通じて、「ああ私はここに存在するんだ」という実感を獲得する。「私はこういう人間だったんだ」というものが見えてくるのがセックスだ。セックスを否定されると、どこか自分の存在が否定されたような感覚に陥る。セックスをしていないとどうしようもない孤独を感じるのも、こういうところからだろう。
 また「自分はしょせんこういう人間だ」ということを明らかにしてしまうのもセックスだ。普段はどんなに威張りちらしていても、裸になったらただの人間。セックスは人を平等にさせてしまう。といっても、セックスの最中でも虚栄心に捕らわれるバカはいくらでもいるが。
 ところが現代はセックスはタブーの扱いになっている。性の話題をすると、たいていの人はとりあえず茶化してごまかそうとする。タブーになっているから、性のついてごく浅くでしか考えられない。ある意味、この分野においては「現代人はバカになっている」というしかない。
 それに、解せないのは最近はなんでも「多様化が大切だ!」といろんな人が声を上げているのに、性の話題に関してはその例外にされている。Twitter(X)でも性の話題をするとたちどころに排除される。ゆるやかにシャドウバンされる場合もあれば、凍結処分されることもある。ここまで多様化、多様化と連呼する時代なのに、なぜか性の話題だけ多様性の対象外にされていて、そのことにほとんどの人は疑問とすら思ってない。これも現代人がバカになっている証拠の一つである。
 また性の話題というと、たいていの場合、「エンタメとしてのセックス」の話しかしない。つまり「ポルノ」だ。「エンタメ以外でセックスの話をするな!」という態度を取る人も多い。これもやはり「バカ化」の特徴だ。「男が女を一方的に消費する、差別的なものだ」という意見もバカの証だ。女にも当たり前だが性欲はあって、性の消費者になる。フェミニストは無自覚に男だけではなく、女も敵に回している。
 私としては、こういう話題を掘り起こすことで、現代人がバカになっている……ということを示したいと思っている。タブーにされているから、考えないよう考えないようにして、その結果、それがどういうものか、きちんとした考え方も示せないし、解釈もできない。こういう話題をすることで、現代人はその時代にある考え方に捕らわれて自律的な思考力を失っていますよ、ということが示せることができる。

 おそらく「性」というものは、本来ごくありふれたものだった。日常的なものであった。ごく普通の、当たり前の営みの一つ。男女が会って、それなりに気があえばセックスするのは当たり前。それは特別なイベントではなく、おしゃべりをする、ご飯を食べる、その次くらいがセックスだった。
 セックスをしたからすぐに結婚……というわけでもなかった。セックスはご飯を食べてその次くらいの扱いだから、セックスと結婚はまた別の扱いだった。他の女・男とセックスしたから浮気だ、離婚だ……なんて騒いだりすることもなかった。
 ただまったくの日常の扱いでもなかった。というのも、だからといっていつでもその辺でやっていた……というわけではもちろんない。高学歴エリートが昔の性習慣について調べようと高級車に乗って地方を回り、マイクを向けてきても、話さないし隠す。文字通りの「あけすけの文化」だったものでもなかった。ある意味で大切にもされた。
 大切にされたものだから、筆下ろしはやや儀式化されていた。お堂に集まって南無阿弥陀仏を唱えてから行為を始める……これはしっかりとした「イニシエーション」だ。大切なものだから儀式化していた。筆下ろしを経て、大人として認められ、大人社会に引き入れていく。セックスにはそういう少年に大人としての意識を促す力があったのだろう。
 夜這いも陽が沈んでから、忍んで尋ねるものだった。当時、現代と違って、夜は本当に暗かったし、人も寝静まるから静かだった。夜という時間はある種の異空間だった。夜に忍んでセックスをする……それはそういう夜という異空間に身を任せる行為でもあった。夜這いとは、そういうものを含めての体験だったのだろう。
 夜這いの習慣について考えるとき、言語化されていない、文字化されていない、習慣や儀式についても同時に考えねばならないだろう。ただの字面だけを引っ張り出して、エロ目線だけで考えようとすると、その深みが何も見えなくなってくる。

 そうした文化を、近代は徹底的に否定し、破壊してきた。法律的にも禁止とされてしまった。
 なぜ夜這いが「風紀を乱す」と弾圧の対象にされてきたのか。それは二つの要素から考えられる。工業化社会と、西洋化だ。
 現代は「産業革命以後」の社会で、私たちの制度の多くは工業化社会にとって都合のいい形に作られている。そうするとものの考え方も工業化社会を基準にするようになっている。例えば義務教育制度も工業化社会によって生まれた。中国の工業化が始まった頃、中国に工場を作って何に苦労したかというと、なにからなにまで教育しなければならかったことだ、という。スイッチを押すと明かりが付きますよ、廊下で走ってはいけませんよ、チャイムが鳴ったら休憩は終わり、1人が勝手に休憩すると周りに迷惑を掛けますよ……私たちにとって常識に思える多くは、実は工場運営を円滑にするためのもので、そういう教育がまだ行き届いていない国で工場を作ろうとすると、まずこういうところから教え込まなくてはいけなかった。
 婚姻制度や核家族社会の価値観も工業化以降のものだ。なぜ結婚が18歳からなのか、というと、工業化社会では18歳からだいたいの教育を終えて、働くことができる年齢だからだ。それに合わせて作られている。
 しかしここで問題が生じる。人間の生理として、12歳や13歳から性機能が成立する。すると“性欲”が生まれる。しかし18歳までその性欲を封じなければならなくなる。12歳や13歳は一番活発な時期だ。その時期に、性を否定される。現代の12歳、13歳がやたらとアイデンティティの揺らぎ、つまり「思春期の悩み」を持ちがちなのは、もしかするとセックスを禁止されているから……かも知れない。なにしろ自分の備わっている生物学的な機能を、完全に封じられるのだから。「自分は肯定されていない」という感覚に陥るのは、当たり前ではないか。
 現代は性はタブーの扱いだから、そういう考え方を持ってはいけないことになっているから、永久に解決不能の問いになっている。「思春期はそういうものだから仕方ない」ということになっている。
 もう一つの要素が「西洋化」だ。セックス否定は西洋文化の産物だった。「セックスは子供を作るためであって、それで快楽を感じてはならぬ」という。裸をタブーにし、セックスをタブーにし、表社会から完全に排除してしまった……それが西洋文化だ。その文化を受け入れて、価値基準のベースにしてしまった。それがおかしくなった原因ではないか。むしろそういう西洋文化こそ、「いびつなもの」と指摘してもいいのではないか。
 日本は西洋の文化や潮流をなんでも「正しいもの」と受け入れていた。「日本は遅れている、西洋は進んでいる」と言いながら。でも本当にそうなのか? と性をテーマにして考えてみてもいいのではないか。

 最後に、エロ漫画とはなんなのか……唐突だがエロ漫画の話題をしておこう。
 今回、筆下ろしと夜這いの習俗についての話をしたが、ある人は「おや? これってエロ漫画に一杯ある話じゃないか」と思ったことだろう。私も思った。
 私はエロ漫画、というかエロ産業全体において、「怨嗟と孤独の文化」と考えていた。「孤独の文化」というのは、エロはそもそも「孤独な人間が書き、孤独な人間が消費するもの」だからだ。日常的にセックスパートナーがいるような人が、わざわざ絵に描かれたようなエロを求めるなんてことはしない(それに、エロコンテンツなんて基本的には「他人がやっている」ものでしかない)。日常的にセックスパートナーがいるような人が、虚構の中で自身の「理想の性」を醸成し、具現化するために創作を始めてしまう……なんてこともしない。
 怨嗟というのは、エロ産業に従事する人々、というのがだいたいみんななにかしら精神的な欠損を……つまり思春期の時に性に触れることができず、そのことをコンプレックスとして抱えている人々ばかりだ(もちろん例外なんていくらでもあるけど)。みんな現実で得られなかった性を取り戻そうと、大人になってから仕事として発散している。ある意味、「思春期の復讐」をやっている。タブーにされているから、逆にエロ産業は猛烈な力を持つ。エロ漫画の大半が10代の少年少女を主人公としているのは、そういう理由――つまり「思春期の復讐」が大テーマであるからだ。
 今回、もう一つ思ったのが、エロ漫画は「先祖返り」ではないか、ということ。筆下ろしや夜這い、乱交の話を聞いて、「えー! 昔の日本でそんなことが!」……なんて驚くことはなかった。むしろ、「あれ? そういうのエロ漫画で一杯見たぞ」という気になっていた。
 といっても、多くのエロ漫画家たちがかつてあった筆下ろしや夜這いの知識があったとは思えない(細かいところで「間違い」がたくさんある)。調べた上で書いているとは思えない。たぶん、自身の体内に残存している記憶がそういう漫画を描かせるのだろう。自分の体内にある感覚を掘り起こしていったら、気付けばかつて村社会にあった性習慣そのものを再現していた……という感じだろう(ぜんぶ偶然だろうけど)。夜這いも筆下ろしも、現代の日本にはとっくに喪われているが、まだどこか私たちの奥深いところで記憶していて、無意識に取り戻そうとしているのかも知れない。エロ漫画を掘り下げていくと、日本文化の原点を探すことになるかも知れない。

 裸の文化と同じく、筆下ろしや夜這いや乱交も、今の社会では「取り戻せない」ものの一つだ。思想的なタブーで考えることもできないし、法律的なタブーにもされている。脳みそのなかが鋳型に押し込まれて、自由に物事を考えられないようになっている。私が今回、こういう話ができたのは、私がFランク高校卒の落ちこぼれだったから……かも知れない。高学歴エリートほど、こういう話題は考えることすらできないのではないか。
 それに時代とも合わない。今の時代に筆下ろしや夜這いなどを復活させようとすると、工業化以後社会が崩壊してしまう。制度としても思想としても噛み合わないものになってしまった。復活なんてさせようとしたら、混乱が起きてしまう。
 もはや私たちは過去に戻ることができない。かつてあった時代の価値観はもう取り戻せない。私たちは今も日本人だが、どこか「日本人?」という感じだ。私たちにできることは、エロコンテンツの中でひっそりと書くこと。こっそり忍ばせること。実はエロ漫画のなかにこそ、ひそかなる日本人の精神が隠れている。……そこに気付く人はほとんどいないけど。

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