見出し画像

映画感想 万引き家族

万引き家族 本予告

 2018年、『ROMA/ローマ』と並び世界的に注目を浴びた作品の一方である『万引き家族』。第71回カンヌ国際映画祭では最高賞パルムドール受賞をはじめ、第42回日本アカデミー賞最優秀作品賞、第61回ブルーリボン賞受賞など多くの栄冠に輝いた作品である。
 「万引き」で生計を立てるある一家の物語――下層階級の暗澹たる暮らしを描きながら、そのただなか不思議に浮かび上がってくる“幸福”を描いた作品である。

!!ネタバレあり!!

 詳しいあらすじについては省略しよう。色んなところに書いてあるから。
 オープニングからお父さん柴田治と息子祥太の万引きの場面から始まる。後に治も信代も働いていることがわかり、さらにお婆ちゃん初枝の年金もあったが、しかしそれで生計を立てていけるわけではない。5人が食べていくには、万引きをするしかなかった。この頃は賃金体制も上がってきた……と言われるが下層民の暮らしはそれでもギリギリ。いやギリギリを下回っているから、足りない部分は万引きで補填しなければ生きていけない。そういう現代の下層社会の実態が描かれている。

 最下層に近い暮らしはいま現在私も送っているわけだが、安月給の仕事をいくらやったところで、貯金なんてできるものじゃない。私は無理して創作のための機材を買っているから余計、貯金なんかできない。毎日カップ麺をすする日々だ。
 こう見えても私は勤勉な質だ。どこのバイトでも皆勤賞。残業があるなら全部出ている。それでいくらになるか、というと最近は時給単価もよくなってきたから17万円(交通費込み)。10年ほど前だったらやっと12万円だった。私はそれだけのお金をやりくりして、日々生きてパソコンを買い、絵や小説を書いている。
 ごく普通の暮らしをしている人たちにとっては想像できない世界だろう。それじゃ、どうして普通の社会に行こうとしないのか? どうして就職活動をしないのか? もちろんしたさ。結構色んなところに履歴書送ったよ。しかし一度も面接にたどり着くことができなかった。面接にたどり着いても、採用されるかというと、あり得ないでしょう。要するに一回底辺に転落した者は、まっとうな社会人としてのスタートラインに2度と立つことができないんだ。誰も私みたいな人間を、自分たちと同じラインに立たせたいとは考えないんだ。
 それが現実。だから私も諦めた。
 仕方なく雇ってくれるところを探して働いて、カツカツの給料で機材を買って、こうやって物作りの準備を始める。1年の準備期間を経て、ようやく創作活動を再開、というところまできたが、貯金がいくらあるのか、というと20万円。数ヶ月でなくなる。

 どうして私の話を最初にし始めたかというと、底辺の暮らしがどういうものなのか、理解して欲しかったからだ。おそらくこれを読んでいる大半は中流。「底辺? なにそれ? 自己責任でしょ?」くらいに思って深刻に考えたことがない、甘やかされたお坊ちゃんたちなんでしょう。人生を甘く見るな。一歩間違えれば私と同じ、底辺に堕ちるんだよ。遠い世界の話じゃないんだよ。
 『万引き家族』で描かれたのは私よりもさらに下、最底辺の暮らしがどんなものか、を描いた作品だ。私はここで踏ん張っているが、あと1歩間違えれば堕ちる場所……が描かれている。

 『万引き家族』の柴田一家はそれぞれ仕事をしているけれども、それで5人の生活を成立させられるか、というとそういうわけにはいかず。万引きでやっと食べているだけの生活。しかも貯金はまったくない。最底辺の収入がいかに少ないか、我が国の現状をまざまざと描いている。
 しかも柴田一家は本当の家族ではない。柴田初枝と亜紀だけは一応血縁者だが、それ以外の全員は他人同士。他人同士で集まり、お互いを夫として、妻として、息子として生きている。仮想家族だった。
 そこに、明らかに虐待を受けている5歳の幼女りん(劇中では“ゆり”、後に“じゅり”が本名であると判明するが、ここでは“りん”とする)がやってくる。
 そのりんがやってきた当初、柴田家の顔がやたらと暗い。照明が真上から当たっていて、顔全体に影が落ちているし、しかも顔がカメラに寄りすぎて不気味に見える。

 どうしてこんな撮り方をするのだろう……と不思議に思っていたが、お話が進んでいくと次第に次第に顔から影が消え、カメラとの距離も適切になり……それで理解したのだけど、りんの視点を重視して作られている。最初、りんの目線では柴田家族が不気味な存在に見えていた。なにしろ突然連れてこられた知らない家だから、そう見えるだろう。だが、柴田家族との交流が深くなっていくにつれ、柴田家の人間の顔がはっきり見えて、穏やかそう笑顔が見えてくる。
 その幼女のりんだが、当初、表情がまったくない。表情がまったくないのは、感情の起伏を失っているからだ。虐待を受けている家庭で過ごしているから、笑ってもうるさいと殴られ、泣いてもうるさいと殴られ、そういう家庭で育つと真っ先に失うのは感情。自分を守るために感情を消してしまう。栄養状態もよくないから痩せているし、服を脱がせると傷だらけ。ひょっとすると知能にも何かしら障害が出ている可能性もある。
 それも30分ほどが過ぎたところで変化が現れる。りんが「誘拐」されたとして報道されるようになり、そこで名前を“じゅり”から“りん”に変え、髪を切り、服を燃やす。
 服を燃やすのはお焚き上げだ。古くから燃やすことは「お清め」の意味合いがあり、このシーンで服を燃やすのは証拠隠滅以上に、じゅりという人物を殺し、りんとして生まれ変わらせるという意味がある。その後、“りん”の名前が与えられるわけだが、ここで初めてりんは微笑む。かわいい。感情を失った人形のような子供から、人間らしい表情を持ったりんへと生まれ変わったのだ。

 始めに書いたように、これを読んでいる人たちの大半は中流だろう。中流の人々は底辺がどんなものか知っている人は少ない。なぜ誰も知らないのか、というと体験がない、という以上にそもそもそういう下層の人たちについて“考えない”からだ。意識の外になっている。そんなのはテレビの向こうの存在であって、実際ではない。「アニメみたいなものだ」と思い込んでいる。
 中流の人々はよくわからないものに対しては、世間でよく言われがちな答えをそこに当てはめて、その内実がどんなものか知ろうとしないし、考えもしない。どうしてそんなふうにいい加減な生き方をしていけるのか、というと考えなくても生きていけるからだ。だから考えない。下流に堕ちる瞬間まで、何も考えずにいる……そういうものだ。
 柴田一家の存在について、見るからにいびつな風貌の一家なのにどうして近所の人々が何も言わないのか……というと誰からも認識されていないからだ。街を歩いていたら時々視界の隅をよぎるだけのノイズ。気付いていないのだ。
 いったん下層に堕ちるとどうなるか、というとまず誰からも認識されない。「透明人間」になってしまう。透明人間になってしまうから、「万引き生活」という不法行為が成立する。あの街で見かける小さな男の子がどこの家の子で、何をしているか……誰からも意識すらされていないのだ。

 性風俗店で働いている亜紀(源氏名:さやか)に常連として通ってくる4番という男がいる。間もなく亜紀は4番と直接会うが、4番は「あ……あ……」くらいしか喋れない。『千と千尋の神隠し』に登場する「カオナシ」だ。言葉がうまく喋れず、まともなコミュニケーションも取れず、だから誰からも相手にされない。というか誰かから相手にされていたら風俗店に通ったりもしない。そんな誰からも相手にされないような人間は透明人間みたいなもの。だから、風俗店に“存在の証”を求めてやってくる。
 前から何度かこのブログで「現代人は衣食住足りて性に欠ける」と書いてきているが、性とは一時的な性欲を処理するだけのものではなく、個人としてのアイデンティティにも直接結びついてくる。セックスを果たせない人間は、単にコンプレクスという話ではなく、人として何かが欠けているような、そんな不完全な感じに捕らわれてしまう。
 しかし現実に性を満たすことができない人間は、性風俗のお店に行くしかない。カオナシの4番も亜紀も同じものを求めて性風俗のお店にいる。お互いそこでしか知り合えることができず、そこでしかお互いの存在を確かめることができないのだ。

 カオナシの4番は自分自身を殴り続けている。自己否定をし続けている。自身に欠落を感じている人間は、何より自分がもっとも許せず、次に他人も許せない。だからネットで暴れ回ったりしている。ネットで暴れる人間は人や社会が憎いのではなく、自分自身がもっとも憎いのだ。
 亜紀も映画後半、拳にあざができるようになる。自分自身を攻撃し始めているからだ。亜紀が風俗店で“さやか”と名乗っているが、それは妹の名前だ。妹のさやかは両親の愛情を受けて、清く正しく育っている。亜紀はさやかになりたかったのだ。でも両親は何かしらで劣っている亜紀に愛情を見せず、不和の切っ掛けを作った。亜紀は両親が憎かったし、さやかになれなかった自分自身も憎い。おそらくさやかも憎い。この中でもっとも憎いのは自分自身だから、自分を殴る。自分自身がもっとも悪い……という思い込みがあるからだ。
 亜紀の両親柴田謙・葉子は、亜紀が初枝のところにいることを認識しているようだ。知っているのに、何も対処しない。金だけを(せいぜい3万円)を送り続けている。まっとうな人間なら「お婆ちゃん、家で一緒に住まないか」と言うものだが、それもしない。まっとうな親だったら、娘を家に連れ帰るものだが、それもやらない。中流がいかにエゴイストか、下層に対して無関心か、ここで見えてくるし、中流と下層がそう遠いものでもないこともここで見えてくる。

 名前を巡るミステリーについて掘り下げると、「祥太」の名前は柴田治の本名だ。これは治が自分の少年時代を取り戻したい、自分の手でやり直したい……という願望が込められている。だから柴田治は祥太に対して、どんなときも「優しい父親」を演じようとしている。おそらくは治の本当の父は、真逆の性格だったのだと推測できる。
 本編中で言及されなかった要素だが、「柴田治・信代」の名前は柴田初枝の実の息子夫婦の名前だ。実の息子夫婦とは嫁との関係が悪く、絶縁してしまっている。そんな「治・信代」の名前を柴田治・信代の2人に名乗らせているのは、柴田初枝が「本当はこういう息子夫婦が良かった」あるいは「息子夫婦との関係をやり直したかった」という願望が込められている。
 柴田家に集まった人たちはみんな何かしら願望を持っていて、その願望の通りにそれぞれの役割を演じていた。みんなで芝居をやっていた……みたいな状態だ。そういうことが名前を見ているとわかってくる。あの小さな平屋には何一つ“本当”はない……そういう歪さも見えてくる。

 透明人間の柴田一家だが、ところが駄菓子屋やまとやのオジさんに「妹にはさせんなよ」と言われてしまう。駄菓子屋のオジさんだけは柴平一家の存在を認識して、認識しつつ黙認していたのだ。当然、事情も察しつつだろう。
 「自分の存在を認識された」……祥太の心理にこれが強烈なインパクトとなり、ようやく万引きすることの倫理観について意識するようになる。これは自分以外の社会があることを認識し、万引きすることによって困る人がいるんじゃないか……という子供ならではの正義感を唐突に取り戻した瞬間であった。

 これ以降、祥太は治と信代のしていることに対して不信感を持つようになる。車上荒らしをするシーンで「僕を助けてくれたときも、何か盗もうとしてたの?」と問い、治は「違う」と答えるが、祥太は治が信頼できなくなっている。
 お話は前後するが、お婆ちゃんが死んで、へそくりを発見する(これは謙・葉子夫婦からもらってきたお金を使わず貯めてきたものだ)治と信代。「やっぱりあるじゃねえか」とホクホク顔の治と信代に対しても、祥太は不信の目で見るようになる。
 ここの演出が素晴らしく、祥太は何かしらリアクションもせず、ただ見ているだけ。ただこれだけだが、非常の効果が高い。大人が悪さをしているところを、無垢な子供の顔を見せる。しかも表情アップを長めに映す。これが一番心が痛くなる見せ方だ。まっとうな人間なら、せめて子供の前では、と取り繕うはずだ。しかし治と信代は気にせず、見付けたお金を懐にしまってしまう。これが祥太の不信感を募らせる結果となる。

 その次のシーン。りんがスーパーで万引きをしようとする。りんは万引きをすれば褒められる……ということを教えられているから、万引きしようとしてしまう。祥太はこれを止めようと、大袈裟に商品を崩して、ミカンを持って飛び出していく。妹を守ろうととっさに起こした行動だった。妹に万引きさせまい……という意識もあったかもしれない。
 店員が追いかけてくる。やがて追い詰められてしまう。一見すると“橋”に見えるような場所だ。ここからの演出がいい。
 電車が来る。音がかき消される。祥太が橋から飛び降りる。音が聞こえない。橋の下は川……かと思うと、カメラがすっと上にあがり、見えてくるのはアスファルトと転がっていくミカン。これで「あっ!」となる。

 これを切っ掛けに、柴田一家はあっという間に崩壊してしまう。あまりにも脆弱で、薄氷の上にかろうじて成立していたに過ぎない一家だった。
 この映画が悲しく思えるのは、柴田一家がどういうわけか「幸福」そうに見えたからだ。みんな何かしらやらかして、逃げて堕ちてきた人たち。一般社会から放逐されてしまった人たち。特に幼女りんは虐待親から逃げ出せて、「柴田家」の中に入ることによって子供らしい幸福さを手にしていた。みんな誰からも信頼されていない、誰からも愛されていない、誰からも相手にされない……そういう人たちだ。そうした人たちがほんのちょっとの安らぎと幸福を求めて疑似家族を作っている。
 でもそれは所詮“疑似”に過ぎず、本当のものではない。疑似家族を続けても幸福が存続するかというとそんなわけはなく、疑似家族を解体してもそこに待っているのはただただどん底の下層の暮らし。どっちに転んでもあるのは絶望。

 おばあちゃんの遺体が発見されたとき、取調官に対して信代はこう答える。
「拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのはほかにいるんじゃないですか?」
 お婆ちゃんを捨てたのが誰なのか、というと柴田謙・葉子夫婦。あの夫婦はお婆ちゃんを救うことができる立場の人間だった。だがたかだか3万円という金だけを言い訳みたいに送って、何もしなかった。中流家庭のエゴイズムがここで見えてくる。
 人がどうして社会から放逐されて下層に堕ちるのか……というと誰かが捨てるからだ。誰も救おうとしない。そういった現象が社会全体に広がっていたとしても、政治は何もしない。人間は残酷なもので、大抵の人は一度“他人だ”と決めた他者に対してどこまでも冷淡に、残酷になることができる。「殺しさえやらなければ何でもやってもいい」と思っている。好き放題なだけマウントかけていいサンドバッグだと思っている。“他人”というのは人間の血が通った生き物だという認識の外の何かだから。“物”と一緒。だから平気で捨てて、その後は無関心。
 貧困がなぜこうも広がっていったのか、というと誰も彼も無関心になったからだ。もはや同じ街に住んでいても、名前も知らなければ、顔もわからない。“ご近所”なるものももうない。家の塀の向こうに何があるのか、もう誰も知らないし、気にもしない。その中で何かおかしなことが起こっていても、気にしないし、気付かない。貧困を救おうと思えば、誰だってできる。でも誰もやらない。「貧困なるものは存在しない。テレビだけ。アニメと一緒」と思っている。現代人の感性は、だいたいこういう感じだろう。

 私もかつては何人か友達がいたが、みんなから縁を切られてしまった。捨てられたんだ。
 これを読んでいるあなただって、いつか一方的に捨てられる日が来るだろう。

 さらに取調官は信代に対してこう尋ねる。
「子供2人は、あなたのことなんて呼んでました?」
 これに答えられない信代。答えられず、静かに涙を流す。
 祥太もりんも、治と信代を「お父さん」「お母さん」とは一度も呼ばなかった。要するに家族になれなかった。所詮は疑似家族に過ぎなかった。いや、疑似家族も成立していなかった。

 この取調室でもう一つ明らかになる事実は、万引きが治の唯一の教育だったこと。“家族ごっこ”をしているわけだが、親として教えられるものが何もない。誰かの親をする限り、子供に何か教えて、伝え残るものがなければならない。しかし治は仕事も、まっとうな倫理観も、キャッチボールもやってやれない。そんな治が唯一教えられるもの、が万引きだった。
 万引きをすること、が治と祥太の2人の間に結ばれた唯一の絆。親子であることの証だった。
 よくよく考えれば、治がもっと頑張って働けば、祥太も万引きせずに済んだ。そうはせず万引きをさせていたのは、二人を繋げる唯一のものだったからだ。このことからも柴田家一家のいびつさが見えてくる。

 崩壊した柴田家のその後に待っていたのは孤独だった。
 治も信代も一人きりで毎日を過ごしている。祥太は学校へ行くことができた。りんはあの虐待親の元へ帰されてしまう。亜紀は家へ戻ることもできたが、誰もいないお婆ちゃんの家へ行くことに。最初の狭い平屋からすれば生活のグレードは一歩上がったが、むしろ「分断」を生む理由になっていた。
 すでに書いたように、下層に堕ちていった人たちは「透明人間」だ。誰からも相手にされない。友人もいなければ、恋人もいない。それ以前に、話す相手もいない。仕事場へ行ってはいるけど、機械のように働いて定時になったらスッと帰るだけなので、いるのかいないのかわからない人間になっている。金もない、将来もない、忙しいから遊ぶ時間もないし遊ぶ相手もいない……ただひたすらの孤独がえんえんに続く。
 私が下層民だから、その実体験でいくらでも書くことができる。下層に堕ちたいった人は「透明人間」になる。誰も私を知らない。そして孤独になる。

 このお話で一番の不幸はりんだ。世間一般的に子供は親の元にさえ帰せば幸福だ、親元に帰せば事件解決、めでたしめでたし……ということになっている。だがりんの場合はそうならない。りんは柴田家に拾われて、子供らしい笑顔や快活さを取り戻しかけていた。普通に子供に戻れるチャンスがあったのに、“世間の常識”がふりだしに戻してしまった。
 映画の最後、りんは元のぼさぼさの髪に戻り、狭いベランダで一人きりで遊ぶ……最初の頃に戻ってしまった。表情も消えてしまった。私にはあのベランダが「檻」に見えた。あの後もりんがベランダから外の風景を見て、誰かが来るのを待ち続けるのかと思うと、あまりにもつらい。
 でも上にも書いたように、ご近所の人たちは無関心。救えるのに救わない。という以前に下層は「透明人間」だから誰も気付かない。こうして下層が社会から取り残されていく。その責任は一人一人が負っている……のだがその責任すら背負うのを避ける。それが現代人。

 祥太も元の親の手がかりが最後に示されるが、しかし祥太が発見された場所、というのはパチンコ屋。パチンコ屋前の駐車場で閉じ込められ、放置されていた子供……といったらどんな親かお察しだ。本当の親元に戻るのが祥太にとっての幸福になるのか……というと相当に疑問だ。しかし治のもとにも戻れない。行く場所も帰る場所もない……祥太も孤独になってしまった。

 映画の感想なのに私自身の話を書いたのは、私が下層だからだ。いや、本当の最下層は私の下にあるから、私は最下層の一歩手前にいる。そんな私が『万引き家族』を見ると他人事と思って観ることはできなかった。私自身の今と一緒に映画の話を書いた方が読む人もわかりやすいんじゃないか……と思って今回はこういう書き方になっている。
 『万引き家族』は現代日本における貧困の実態を描いた作品だ。以前よりも賃金がよくなってきた……と言われているが実態はどうだろうか。生活するのでギリギリ、貯金もできない。下層に堕ちると「透明人間」になるから、誰も相手にしない。友人もいなければ、恋人もなく、結婚もできず、普通の家族を作ることができない。運良く「中流」でいられる人たちは、自分が下層に堕ちるという想像ができず、いやもしかしたら下層に堕ちる不安があるから、「自己責任」と攻撃するだけで何もしない。下層に堕ちると、ありとあらゆる社会生活がまっとうに送れなくなり、這い上がるチャンスも失う。
 そんな下層階級の実態をまざまざと描き、描きつつその中にあるささやかな「幸福」を描いた作品だ。ただ、その幸福が本当にささやかだから、あまりにも悲しくなってくる。不幸だから悲しい、というより、幸福そうに見えてしまうから悲しい作品に思えた。見終わった後もずっと頭の中に残って、もやもやと考え続けてしまう。そういうインパクトの強い映画だった。

 とりあえずこの映画を誰に見て欲しいか、というと政治家の人たちかな……。政治家やっているような上級国民様は、この作品を見てもリアリティを感じないかも知れないけど。『モダン・タイムズ』みたいな内容……と思っちゃうかな?


とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。