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9月7日 日本の教育はギフテッドを見いだせない

 私がいま楽しんで見ているアニメ作品が『リコリス・リコイル』。この作品の主人公、錦木千束は「ギフテッド」と呼ばれる少女で、超人的な弾避けを得意をする。間近で銃を撃たれても、複数人に囲まれて撃たれても、当たることがまずない。この特異能力で錦木千束は難事件を解決していく。

 それはさておき、最近、「日本の義務教育でなぜギフテッドを見いだせないのか」というニュース記事を読んだ。この話題、最近多いようだ。
 ギフテッドとは先天的に与えられた「天賦の才能」のこと。ギフテッドとして生まれた子供は、類い希な知性、精神力、共感力、独創性を発揮させる。
 ところが日本の教育の世界では、ギフテッドはただの「厄介な存在」にしか映らない。ギフテッドの子供は通知表には必ずこう書かれる→「落ち着きがなく、協調性がない」。日本の教育の世界では、ただの「落ちこぼれ」と「天才」の区別ができないのだ。
(最近は「落ちこぼれ」に対する「浮きこぼれ」なんて造語もあるそうな)

 この話についてだけど……。
 義務教育の中でギフテッドを見いだせない……というのはそりゃ当たり前だろ、というしかない。
 そもそも「義務教育」とはなんなのか、から考えてみよう。

 義務教育が生まれたのは産業革命以降のことだ。産業革命によって、すべての人が平等に働くことができて、平等に富を得ることができて、平等に均質なモノを得ることが可能になった。その代わりに、私たちは「長時間単純労働」に耐えなければならなくなった。この長時間単純労働のストレスは、19世紀の大人達にとってもキツいものだった。
 そこで生まれたのが義務教育だった。義務教育によってストレスに耐える体質をつくり、周囲との協調性を作り(勝手な行動を取られるとベルトコンベアが止まる)、平均的な知性を持つことになった(全員が平均した物書きができなければならなかったから)。
 「平均的な知性」というのは、「平均的な学力」という意味も含むが、できるだけ全員が同じような考え方を持つこと、という意味だ。解釈は人それぞれ……なんていうとやはり工場労働ではベルトコンベアが止まるようなトラブルになる。解釈は全員同じでなければならない。それに、産業革命以降あたりから国家は国家としての明確な輪郭線を持つようになった時代で、人々は「国民」になるためにも全員が同じような思考様式を持つ必要があった。これができなければ、国民全員が一つの号令の元に豊かになる……ということができなくなる。
 義務教育が生まれたのはイギリスであるが、イギリスは「国策」として義務教育制度を考案し、この制度を「親」に対して課すこととした。「義務教育」というのは子供に課していたものではなく、親に課せられた制度である。その以前の社会というのは、教育というのは親がするものだったり、日本では寺子屋というものがあって、そういうところで教育を受けるものだった。それを義務教育制度によって子供を一時的に国に預けて、国家が指定する平均的な教育を受けさせるべし……というのがこの制度だった。義務教育によって人々の平均的な知性を底上げできて、しかも国民としての連帯感を作れるので、国家として一石二鳥だった。
 明治時代の日本、欧米列強と対抗するために欧米で広まりつつあった工業化社会と義務教育の二つを取り入れた。そこに日本特有の勤勉さと官僚的性格がハマってしまい、人格と能力の平均化を徹底することとなる。
 というわけで、義務教育は「工場労働」に適した人間を作ることを目的としていたので、平均より劣る学習能力の子供を引き上げるとともに、高い能力を持った子供の能力を“引き下げる”ことも目的としている。能力が低い子供がいることも厄介だけど、能力が高すぎる子供も後の工場労働の世界では邪魔だから、平均化する必要があった。
(そういうわけで教育世界における“優等生”というのは、“能力の高い子供”ではなく、理想的なほどに“平均的な子供”ということになる。「優等生=天才」ではない)
 私たちはそういう社会の延長にいるわけだから、「義務教育でギフテッドを見いだせない」のは当たり前。そもそも義務教育に天才を見出し、育てるという理念はないわけだから。義務教育にそんな期待をすること自体が間違っている。
 今まで義務教育の世界で、天才を見いだせたことなんて、一度もないのだから。絵画の天才、音楽の天才、科学の天才……そういうものはみんな義務教育の外で見いだされてきた。こういう天才は、義務教育の世界では、ただの「厄介者」という扱われ方だった。義務教育と天才は、相容れないものなのだ。
 そもそも義務教育がそういうものだ、というのがわかっていたら、「なーに言ってんだ」みたいになる話だ。

 みんなにもきっと覚えのある話だと思うが、学校には明らかにいって偏った価値意識があり、そこから外れるものは「無価値である」……と生徒達に指導する傾向がある。明らかにそのあるものに才能を持っている子供がいて、しかもそれは学校の外の社会では人々から称賛される価値であっても、学校という場所は「それは無駄だ。今すぐやめろ」と指導し、やめさせる。明らかな才能を持っている子供がいたとしても、学校はその才能を育てるということはせず、むしろ「捨てさせる」というやり方をしてしまう。時と場合によっては、教室全体にある空気を作り出し、子供たち同士で自己批判させてでも「それは無価値なのだ、そんな才能は社会に出ても役に立たないのだ……」と洗脳にも似た諭し方をしようとする。
 学校という場所における「価値観」とは、教科として定められているカテゴリー……つまり国語、理科、社会、数学……そういったもののみであって、それ以外の価値意識はすべて切り落とされる。学校という場所は、そもそもそういう場所なのだ、というふうに考えねばならない
 私も義務教育を受けていた頃は、絵を描いていても「そんなの無駄だ。将来なんの役に立たない」とさんざん言われてきた。絵描きの才能、漫画の才能は義務教育の世界では絶対に育たない……いや、育てる気がないのだ。
(学校で学んだ知識は、社会に出て役に立たないことも多い。特に英語は中学高校で6年間学ぶが全く役に立たない。なぜいまだに「あの指導法は間違っている」ということに気付けないのか……という話は後の「日本人の知性は「理解力」ではなく「暗記力」に特化させているのは、そもそもそういう気質だからじゃないだろうか?」の章で掘り下げよう。つまりは間違っていようが「それが教育の世界では正しいのだ」という歪んだ価値意識がそこにある)
 学校という場所の普遍的使命は、子供たちが持っている才能を限定し、押し当て、全体の能力を均質化することにある。学校という場所で伸びる子供というのは、たまたま学校という特異な場所での価値観に合致した……というだけで、別に学校世界における成績優秀者は秀才でも天才でも何でもない。たまたま学校が用意した鋳型の形にはまったというだけの話だ。そこを勘違いしてはならない。
 学校という場所はある程度歪んでいる。そしてそれは社会時代が歪んでいるから。学校はその歪みに合わせて、子供の性質を歪ませねばならない。それが学校という場所の基本的使命なのだ。

 だから、自分は明らかにある分野において才能を持っているという確信がある場合、義務教育の場から去った方がいい。義務教育はその才能をいかにして潰すか……という場所でしかないから。

 それにしても、どうして今になって急にギフテッドをどうやって見いだせるか……という話を色んな人がしはじめたのだろうか。欧米ではギフテッドを見出すための様々なテストがすでに考案されているそうだ。日本はそういう潮流に遅れているから……という危機感ゆえだろうか。
 日本は何かと「欧米では~」と欧米との差を気にする国民性だからそういうこともあるだろうが、そうではなく、私たちは近い将来、産業革命以後の「工業化社会」が崩壊する危機を前にしている。ロボットやAIの発達によって、人間がわざわざストレスフルな工場労働をしなくてもよいという時代に移っていく。
 すると取り残されるのが「義務教育」だ。そもそも工場労働を前提とした均質な労働力を生み出すための義務教育は、これからもそうあるべきだろうか? という問いだ。
 そういう以前に、平均化された労働力が必要なくなるという時代がやってくると、じゃあ私たちは何をすれば良いのか? という問題にも直面する。「働かざる者食うべからず」……とか言っても、そもそも働く場所なんかない。むしろ大多数の平均的な人にとって、今までのような工場労働はあったほうがいい……という考えにすら戻ってしまいそうだ。そういう時代がやがてやってくるが、私たちはその時のための対応はできているか?

 それに、「天才」が作り出すものは後の社会の大いなる「資産」になっていく。欧米は積極的に天才を見出す教育を模索しているのに対し、その後も「天才をいかに潰すのか」という教育をし続けている日本とでは、いずれ経済的格差や文化的格差が生み出されていくことは目に見えている。そういう危機感が少しでも理解できているなら、今の教育制度はダメじゃないのか……と考えるのが普通だろう。

 しかし厄介な問題は、だからといってその子供の才能が何に適しているのか……なんて誰にもわからないことだ。『リコリス・リコイル』の錦木千束はとある組織から「ギフテッド」と認定されたが、自分にその自覚がなく、自分が何の天才なのかわからないままでいる。錦木千束の場合は超人的な弾避け能力を持っているが、つまりそれはどう分類される能力で、社会にどのように影響を与える能力なのか……それがわからない。ただ弾を避けるためだけの能力でしかないからだ。
 「絵を描く能力」や「音楽の才能」といった才能はわかりやすい。昔からあるものだし、これからもそういう才能を持った人は現れてくるだろう。しかし、例えば「プログラムの才能」といった才能は、30年前にはなかった才能だ。これから30年後、そういう現在にはない職業がうまれて、そういう世界における天才は現れてくるかも知れない。そういう、現時点ではなんに使えるかわからない才能を見いだすことができるのか、という問題もある。
 世相というものは常に変わっていくものである。30年前なら、絵の才能を持っているのに、漫画家にでもなったら「期待外れ」と言われただろう。漫画の地位は、ほんのちょっと前までとにかくも低かった(今でもそんなに高くもないけど)。社会はその文化が30年後や50年後、どのような成長の仕方をするか予測することができない。

 少し別の話をしよう。そのうち戻ってくるから、しばしお付き合いを願いたい。

 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という作品には、乱暴者のタネン家一族というキャラクターが出てくる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は未来や過去に行く物語だが、毎回主人公マーティのそばには乱暴者のタネン家の子孫や祖先が出てきて、厄介ごとに巻き込んでくる、というお話になっている。
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はコメディ映画でわかりやすく作っているのだけど、人間の気質が遺伝的に継承していく……というのは正しい。遺伝子研究においても、年を取れば取るほどに、遺伝子が元来もっている性格が現れてくる……と言われている。
 双子の研究というものがある。双子を別々の家庭に養子として預け、その後どうなっていくのか……という内容だ。
 別々の家庭に預けられたのだから、貧富の格差、教育の格差というものは当然ある。子供時代は家が裕福で、良い教育を受けられた子供のほうが成績が上になっていく、という傾向が現れる。しかし大人になるにつれて、次第に是正されていき、双子の学力はあるときからだいたい同じくらいになる……というのが双子研究でわかってきたことだ。感性もだいたい似たような傾向を示すようになり、別の家庭で接点を持たずに暮らしていても、同じようなものを好み、それを仕事にしたり趣味にして行く。
(それでも、裕福な家庭に預けられた子供の方が、その後も学力は上であり続ける。子供時代の教育はまったく無駄ではない)
 絵描きの世界では親も画家であれば息子も画家、というのはよくある話。親が役者であれば子供も役者で、親が文学者であればその子供も文学者で、親が科学者であれば子供も科学者……どれもよくある話だ。これは家庭環境がどうこうという話ではなく、例え養子になったとしても結果的に同じ道を選ぶ可能性すらある。これが遺伝子の性質。今の時代ではこういうものは「世襲だ!」と言われて嫌われる傾向にあるが、遺伝子学的見地からすると、それなりに理にかなったことをしていた、ともいえる。

16世紀の画家、ピーデル・ブリューゲル。彼の息子、同名のピーデル・ブリューゲルも画家で、その孫であるヤン・ブリューゲルも画家、その息子も同名でヤン・ブリューゲルといったがまた画家で、そのさらに息子のアブラハム・ブリューゲルも画家だった。4代続けて歴史に名を残す画家を生み出した家系だった。

 でも必ずしも親の能力を子が受け継ぐわけではない。例えば野球選手の長嶋茂雄の息子、長嶋一茂は父親が高名な野球選手だったので子供の頃から野球に親しんで、自分も父親のようになれると思っていたが……野球の才能は発現することはなかった。努力の末、プロの選手になれたものの、最初から最後までイマイチな選手で終わっている。子供がいつも親と同じ才能を持つというわけではない。それに、“父親と同じ才能”が子供に継承されるというわけではない(母の才能を継承することもあれば、祖父の才能を隔世で継承することもある)。そこは不確定なのだ。だから遺伝子を絶対視して、絵描きの子供だから絵描きをやらせるべき……とするべきではない。これに囚われると、子供の将来に不幸をもたらすことになる。

 私も自分と親と比較して、似ている部分がほとんどない。容貌もまるで違えば体質も違うし、思考様式も違う(唯一似ているなと感じられる部分はどこなのかというと、足の形。私と父は少し変わった骨格の足をしていて、それだけが唯一親子だと感じられる部分だ。それ以外に似たところは本当にない)。私は完全なる突然変異的な存在だ。私みたいな変異体なんかもあるとき突然生まれてくる。そういう人もいるので、遺伝子は絶対ではない。

 ここまでの話で、少し思うことがある。
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場した厄介者のタネン一族のような人々は、実際に現実世界にいる。深く物事を考えられず、なにごとも暴力で解決しようとするジャイアン的な存在だ。どうしてこういうタイプの人間が世の中にいるのか?
 それは人類の長い歴史を考えてみれば、すぐに答えがわかる。私たちは歴史の大半を暴力的な時代の中を過ごしてきた。こうした暴力の時代において、タネン一族のようなジャイアン的な存在はいつも必要とされてきた。人類はいつも危機と直面していたので、いざ暴力を前にしたとき、「なぜ?」とか「どうしよう?」とがグダグダ考えていてはいけない。そこで直情的に暴力に訴えるタイプの人間が必要とされ、価値を与えられ、今でもこういうジャイアンタイプは称賛の対象にもされている。
 アメリカには「マッチョ賛美文化」があるから、今も昔もタネン一族のような人はスクールカースト上位になるし、女の子から「素敵!」と言われてモテるし、日本でもマスコミを中心にこういうタネン家一族みたいなタイプを「ガッツのあるやつだ」称揚する傾向にあり、反対に情緒豊かな人間を「ダメな人間」と非難し続けている。あたかもタネン一族のような人々こそ、人間として正しいのだ……そんなふうに表現する有識者も多い。社会が持っている価値意識はそうそう変わらないから、この価値基準はこれから100年200年経っても変わらないだろう。タネン一族タイプはとっくに現代の社会観と合わなくなっているのに、今でも称賛されるタイプになっているから、これからも社会の価値観はそうそう変わらない。こえれからも「ナヨナヨしたやつはタネン一族のようになればいいのに」……そう表現する有識者は減ることはないだろう。タネン一族の気質も、たくさんある価値観だとは考えずに。
 どうしてタネン一族のような粗暴なタイプが社会から肯定されやすいのか、というと私たちはそういう時代の中を生きてきて、今でもその記憶を忘れられないからだ。
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように、こういうジャイアンタイプも人類が大切に継承してきた気質である。

 私はタネン一族のような暴力的な人間も、一つの才能だと考えている。しかし一般的に考えられている「ギフテッド」の概念の中では、タネン一族のような人間は「無価値」と考えられている。ギフテッドの指し示すものは絵や詩や音楽や科学といったものであって、タネン一族のような属性はそこから排除されている。では私たちはその後の未来、永久に暴力に遭遇することはないのだろうか。終わりなき平和を享受できるのだろうか。まったくもって不必要な才能であるのだろうか。
 そんなわけはあるまい。私たちはいつか暴力に直面することはある。そういうときに、用心棒としてのタネン家一族はいつの時代でも必要となる。今の時点ではタネン家の暴力性は「才能」とは認識されていないが、これも立派な才能の一つではないか。
(ただ、タネン一族のようなジャイアンタイプはすでに社会から肯定されているしスクールカースト上位にいけることは確定しているし、女の子からモテるし、わざわざギフテッドとして特別扱いする必要もないともいえるが)

 ここまでの考えをまとめよう。
 そもそも「義務教育」とは、工業化社会に必要な人材を作り出すための制度だった。義務教育によって全ての人間を、均質な能力に育て上げる。能力の低い子供は能力を上げて、能力の高い子供は能力を下げる……というのが義務教育だ。もしもここから逸脱するような子供がいれば、罰して従わせる。それが学校のルールだ。そうやって、落ちこぼれも浮きこぼれも均質な能力に整えていく。それでもこのルールに順応できないやつは、社会のレールから放逐されていく。
 この義務教育の問題をどうすればいいのか、といえば簡単な解決法を示すと、義務教育自体をやめればいい。新しい教育制度の提唱すればいい。そこまで大胆なことをやれる人間がいるかどうかの話だが。
 しかしこれからの時代、能力の高い「天才」を今まで通り「能力を下げる教育」を施し続ければ、「国益」にも関わってくる。欧米ではすでに「天才を発掘」することに力を入れ始めている。これから数十年後、天才を見いだせなかった日本と欧米とで経済的格差、文化的格差が現れてくることは目に見えている。
 いやそれ以前に、すべての人間を均質に育てる……ということ自体が不合理。人間には様々な気質がある。「平凡な人間」が大多数だが、何かしらの能力に長けた人、知識に長けた人、運動能力が高い人……様々な人間がいる。暴力的な人間も治安維持という面においていつの時代でも必要な人材で、こういう人間が反社会に陥らせないように道筋を作るのも教育があるべき役目だ。
 こういう人たちを、そもそも一つの教室の中に閉じ込めて、均質な教育を受けさせる……ということ時代、実は無理があった……と考えるべきだろう。そもそも「理解力」という面でも人によって個人差があるのに、それを同じ教室の中に放り込むから「落ちこぼれ」なるものが生まれてくる。それに価値観の違いから軋轢が生まれる。理想をいえば、その人間の本来的な性質が現れ始めた時点で、教室を分けるべきであった。

 ただ、そうすると「リソース」の問題が浮き上がってくる。どんな地域でも、そんな数の教室など用意できるわけではないし、教師の数も不足している。「教室を細かく分けるべきだ」と提案しても、それは現実的ではない。
 あり得るとしたら、教育の現場をネットに移すこと。「N高」がすでに実践していることだが、わざわざ学校に行くのではなく、オンライン上で授業を受ける。こうすれば自分が本当に受けたい・受けるべき授業を受けられるようになる。
 これも理想的なようで問題ありだ。ネットのみに移してしまうと、人同士の密な交流ができなくなっていく。教師は生徒1人1人の顔を見て、どの程度理解するか把握するわけだが、リモートになると「顔を見せたくない」で隠してしまう人も出てくるだろう。リモートでは「気配」を感じることもできなくなるから、1人1人がどういう意識でいるか……ということも把握できなくなる。
 生徒同士の交流も薄くなっていき、隣同士の席でも最後までお互いの名前も知らない……みたいな状況にもなる。オンラインの学校に毎日出席していたところで、卒業までに友人が1人もいない……なんてことはありうるかも知れない。
 それに、誰もがそんなネット環境を用意できるわけでもない。そこから躓く人も多かろう。

 次なる問題は、教室を完全に隔てた状態で育った場合、文化観の違う人たちとどのように交流するのか……という問題だ。
 私は絵や映像に関する話はだいたい誰が相手でも交流ができるし、指示を受けることもできるし指示を与えることもできる。しかし音楽に関してはまったくダメ。私には楽譜が魔法言語に見えている。音楽をやっている人とどのように交流を持てばいいかわからない。
 ビフ・タネンのような粗暴なタイプにもなると、交流はさらに難しい。同じ日本語を使っているはずなのに、別言語の人を相手にしているような錯覚にもなってくる。言語が一緒でも文化観が違うと、まともな交流も難しいのだ。
(私はFランク高出身だったから、教室にいる全員がビフ・タネンみたいなやつだった。3年間ひたすら苦痛だったし、高校時代の友人は1人もいない。今にして思えば、なんであんな苦痛を背負わされなければならなかったのか……と疑問にさえ思う。私は未だに、高校に行ったのではなく、「3年間受刑していた」というつもりでいるくらいだ。どうしてそうなったのか……といえばもちろん、義務教育特有の社会にまったく順応できなかったからだ)
 しかし交流が難しいといって、永久に交流しないわけにはいかない。絵や音楽をやっている人が、将来的に暴力にまったく直面しない……というわけではないからだ。粗暴なタイプの人間を用心棒として味方に付けておく……というのは必要なことである。
 ところが教室を分けてしまうと、教室を隔たった相手との交流が難しくなっていく。いつの時代でも、「教室」は子供達に「ナワバリ意識」を生み出し、それが対立の原因になる。私の経験でも、お隣の教室に不用意に入ったせいで「誰だお前!」と怒鳴られたことがある。「教室」で隔てた瞬間、そういう意識を作ってしまうのだ。

 だからといって、教室を隔てた相手とずっと交流しないわけにはいかない。なぜなら能力というものは補いあうものだからだ。
 例えば「アニメ」を作りたいと考える。アニメは絵描きだけで成立するものではない。脚本だけでも成立しないし、音楽だけでも成立しない。いろんな分野の才能が集まって作らないとアニメは成立しない。
 不思議に思うかも知れないが、「監督」としての能力のみを持つ人達もいる。高畑勲監督や押井守監督といった人たちだ。高畑勲も押井守も、絵も描けないし、音楽も奏でることができない。しかし映画監督として優れた能力を発揮する。押井守監督も高畑勲監督も、絵描きや音楽家がまわりにいなければ、自分の持っているイメージを画像に起こすことができない。誰かと交流しないと発揮されない才能なのである。
 人はいくつもの能力を同時に発揮することはできない。絵描きが音楽の才能を発揮することはないし、音楽家が絵描きの才能を発揮することはない。一つの能力だけで世の中を渡っていくことなんて不可能なので、様々な能力の人と交流し、補い合っていく必要がある。そのために、交流を持たねばならない。
 義務教育は今も昔も、こういうときいかにして「交流するのか」という指導を一切行っていない。もし新しい教育制度を提唱する時は、交流の方法も指導として取り入れるべきだろう。

 「ギフテッド」なんて高級そうな言葉を与えてしまうと勘違いしてしまいそうだが、「天才」というのは「超人」ではない。あらゆるものに対して才能を発揮するわけではない。ある一つの分野に対して、異常な能力を持った人のことをいう。
 人には人生の中で割り当てられているスキルポイントというものがあって、それは限界値はあらかじめ決まっているもの……と私は考えている。ギフテッドはそれをある部分に極端に振り分けちゃった人……と考えられる。だからいわゆる「天才」とは、その分野の外に関する話になると完全なるポンコツになる。ものすごい天才は日常生活もままならないくらいのポンコツ……ということはよくある話だ。
 万能の天才、あるいは超人なんてものはこの世に存在しない。だからこそ能力は補い合ったほうがいいし、そういう能力に偏りのある人たちを支えるための「平均的な能力の人たち」もやはり必要だ。普通の人も、そういう意味でも絶対にいた方がいい。むしろ普通の人がいないと、天才はその能力を発揮することができない。こうやって私たちは能力を補い合ったほうがいいし、そのために私たちはこんなふうに巨大な「社会」を築いている。その意味を充分に発揮しなければ、意味がない。

 ただし、こういうのはすべて「理想」の話であって、うまくいくわけはない。世の中、そんなに簡単なものではない。
 だいたい文科省なんかにいるお役人が、こういった問題をすべて頭に入れて、「それではどうすればいいか」と新しい制度を考えたりすることはできない。なぜなら官僚というのは学校教育のなかの「優等生」に過ぎず、新しい発想、複雑な思考ができるようなタイプではないからだ。官僚はすでにあるものから当てはめて考える……しかできない人々だ。そのように訓練してきた人だからだ。
 所詮は平凡な人に過ぎない秀才に、天才をいかに見出すのか……という教育制度を作るなんて無理。官僚達にはなにも期待できない。官僚たちは「過去」について考えることはできても、未来の危機を想定して、そのために今の社会を変えるなんてことはできない。

 今ようやくギフテッドがどうのこうのという問題が浮き上がってきたが、学校教育の問題はずっとあるものだった。「今」出てきたのではなく、ずっとあったものだ。
 明らかに違う文化観の人間、明らかに能力の差がありすぎるどうしを同じ教室の中に閉じ込めて、どこか対立を促しているかのような状況に追い込む……これが教育のある姿だ。能力が平均値以下の人たちはそのことにコンプレックスを抱き続けるし、能力の高すぎる人たちは評価されずに苦しみ続ける。子供の未熟な社会だから、結局のところ、暴力的な子供が支配的な社会を作ってしまう。
 個性も能力も潰すのが、教育の世界でずっとあったものだ。絵描きや音楽といった才能を持った人は、できるかぎり教育の世界から早く抜け出さなければならない。そうしなければ、才能は潰されるからだ。教育の世界で評価されるのは「官僚としての資質」その1点だけである。教育はそれ自体がどこかえらぶった存在として君臨しているが、そこから一歩抜け出て、俯瞰して見るとあれはただの「官僚養成塾」でしかない実体が見えてくる。
 今ようやくギフテッドがどうのこうのという話が出てきたが、そもそも教育の形自体が歪んでいる。その問題を自覚し、どのように変革していくか……人間1人1人にあった教育をどのように考え構築していくか。その考え方が必要だが……まずそういう問題の存在を文科省のお役人が気付くかどうかだな。


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