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映画感想 あのこは貴族

 東京には「貴族」と呼ばれる人達がいる。

 『あのこは貴族』は2016年集英社文庫から刊行された山内マリコによる小説。その小説を映像化したのが本作、映画『あのこは貴族』だ。監督は岨手由貴子(そで・ゆきこ)。岨手由貴子は2004年に『コスプレイヤー』で映画監督デビューし、『マイムマイム』『アンダーウェア・アフェア』『グッド・ストライプ』という作品を発表し、女性映画監督という立場から女性を描いてきた作家だった。本作『あのこは貴族』も女性による女性映画。それも、私たちの知る日常世界とはちょっと違う立場の女性を描いた作品である。
 『あのこは貴族』のタイトルからわかるように、日本における「貴族階級」を描いた作品だ。作品を見ていて、まず面白いかどうか、よりもなんともいえない「不思議なものを見た」という印象が先立つ。日本にこんな貴族階級がいたのか……。テレビメディアに出ることもなく、エンタメ作品でもキャラクターとして登場することもなく、私たち庶民の視点からすると「本当にいるの?」という世界だが、しかし確かに存在する貴族階級の人々。そうした人たちは日々どんな心情で世の中を過ごしているのか……その実体と心理を深掘りした作品が『あのこは貴族』だ。
 とりあえずは、珍しいものを見る……という動機で見始めてもいい作品だろう。

 あらすじを映画本編の解説とともに進めていこう。

 まず冒頭は、榛原華子がタクシーに乗っている姿から始まる。この子が本作の第1の主人公。「貴族階級」の出身……いわゆるお嬢様である。冒頭からタクシーから始まるが、榛原華子が自分の足で道を歩くシーンというのはほとんどない。なぜなら本物の貴族階級だから。自分の周囲にある全てがしつらえたもので、移動もタクシーに乗って、自分の意思とは無関係に物事が進んでしまう……そういう姿を象徴している。
 行き先はホテル。元日。ホテルの一室を借りて家族で食事……なのだが、その風景がいきなりヤバい。
 こんな様子である。

 ホテルの一室を借りて……といったら庶民の私たちからすればせいぜいホテルの一部屋借りて……というところを想像するのだけど、榛原一家が借りた部屋というのはこんな感じ。大奥様の背後には掛け軸が飾ってあって、反対側の壁には金屏風。部屋にはお付きの女中がスタンバイしていて、呼べばすぐに出てくる……という具合。出てくる料理も超一級品。
 これが貴族階級である榛原一家の日常的な風景である。

 この一家の末娘、榛原華子が主人公であるわけだが、元日を迎えたその日、婚約者に「お別れ」を告げられてきたところだった。振られたのである。本来なら、華子の婚約者を迎えてのお食事会だったはずなのに、婚約解消の話を聞いて、一家は暗澹とした気分になるのだった。
 榛原一家はどうやら病院の経営者一族のようである。榛原華子の姉たちもみんな医者と結婚している。華子が振られてしまったので、祖母たちはお見合いを薦めてくる。ただし、そのお見合い相手というのも、やっぱり医者。
 華子の結婚相手は単に「一族の後継者」というだけではなく、稼業となっている病院も同時に継いでもらわなくてはならない。華子には「恋愛による結婚」という選択権はほぼなかった。庶民の視点からは不思議に感じられるが、それが貴族階級の当たり前だった。

 榛原華子も間もなく30歳手前。家族から急かされて、早く結婚せねば……と焦るのだった。祖母の提案でお見合いをするし、知り合いの男性を紹介してもらったり、普段行っているネイルショップの店員に男性を紹介してもらったり……。でもなかなかうまく行かない。焦る日々が続く。
 そんな榛原華子なのだが、おしとやかな佇まいである一方、言動が子供。なかなかいい相手が見つからず、台所ですねて苺ジャムをなめるシーンがある。その時の振る舞い方がやたらと子供っぽく描かれている。華子はお嬢様として育ってきたけれど、まだ「自我」の目覚めていない子供……そういう側面が描かれている。

 そんな悪戦苦闘の日々が続き、ある日、青木幸一郎という男性と知り合う。落ち着きがあって、理知的で優しい男性。求めていた理想の男性だった。
 華子は青木幸一郎との出会いに感激し、デートを重ねるのだが、ある日、「時岡美紀」という女性からLINEメッセージが届いていることに気付くのだった。
 時岡美紀とは誰なのか?
 ここまででだいたい30分ほど。第1部は終わり、第2部に入る。

 第2部、謎の女性「時岡美紀」を主人公にして物語が始まる。この女性が第2の主人公である。
 時岡美紀は努力の末に慶應義塾大学に入学するのだが、入学したその日に、「内部生」と呼ばれる人たちの存在を知る。

内部生達。わざわざ“一段高い場所”に座っている……という光景が作られている。庶民階級と立っている場所が違うことが表現されている。

 内部生というのは高校から大学へエスカレーター式に入ってきた人のこと。受験を受けて入ってくる人たちのことは「外部性」と呼び分けられていた。
 その内部生の中でもさらなるエリートが、幼稚舎から大学までエスカレーターで登ってくる一握りの人たち。その“本物のエリート”こそが青木幸一郎だった。ここでは時岡美紀はまだ青木幸一郎を遠くから見る立場でしかなかった。
 この作品の中でまざまざと見せられるのは超エリート・貴族階級たちによる庶民階級へのふわっとした差別。冒頭の食事会でも「ユニクロだなんて……」という台詞があるし、大衆音楽を「変なJポップ」呼ばわりだし。無自覚に庶民階級と自分たちを切り分けている。慶應義塾大学での「内部生」を説明するシーン、外部生達が自分の足で歩いているのに対して、内部生の若者達は階段を一つ二つ登ったところで椅子に座っている。「庶民を見下ろす立場」として描かれている。貴族階級達の人々がレストランで食事する……といったらだいたい“高い”。お値段も高いし、窓から見える風景も高い。私たち庶民と住む世界が違うし、思想も違うことがどこまでも表現される。
 時岡美紀は富山の庶民の出身で猛勉強の末、やっとこさ慶應義塾大学に入れたのだけど、やがて実家からの仕送りが途絶えてしまう。学費を稼ぐために“夜のお店”に通い始めるのだけど(エッチなお店じゃないよ)、周りの華やかな女の子達を見て、にわかにコンプレックスを感じてしまう。頑張って東京に出てきたけれど、どうあがいても“田舎者”。ありとあらゆるシチュエーションで東京住まいの人々との違いを意識させられるのだった。
 そんなお店での仕事で、青木幸一郎と出会う。店員と客という関係性から関係は始まるのだった。
 時岡美紀と青木幸一郎は瞬く間に親密になっていって、“ベッドを共にする”関係にもなっていく。

 時岡美紀と接しているとき、青木幸一郎は自分のことを「俺」という。それ以外のほとんどの時は「僕」。時岡美紀と接しているときだけは自然な笑顔を作る。榛原華子と接しているときのような、“お芝居”を演じているような雰囲気とまるで違う。自然に自分自身でいられる相手が時岡美紀だったのだ。
 本作は基本的には女性による女性映画なのだが、“男性側の苦労”もほんの少しだけ描いている。青木幸一郎は超エリートの生まれで、それゆえに普段から周りからどう見られているかを意識しなければならない。超エリートだから幼稚舎から大学、就職までエスカレーター。それはイージーモードの人生に思えて、庶民には理解できない苦悩もあるのだ。物心ついたときには、もう「周りから見られている」という意識を持たねばならない。ある場面では、ここでこういしているのは「自分の意思ではない」……というような台詞がある。しつらえられた世界でしつらえられた人間を演じる……そのことへの葛藤は青木幸一郎にもあるのだ。
 そんな青木幸一郎も時岡美紀と接しているときだけは、“ごく普通の人間”として接していられる。気兼ねもしなくてもいい。無責任でいられる。エリートとして育てられたがゆえに、そうやって無責任でいられる相手が居心地良かったのだ。
 でも一方で、ただただ無責任だった。青木幸一郎にとって時岡美紀は「都合のいい女」。エリートとしての自分を演じなくていい相手。たまに会って、セックスする相手。青木幸一郎は時岡美紀がどういう人間か知らないし、興味も持たない。そういう関係性を、榛原華子と出会ってデートを重ねていく最中でもやっていた。
 時岡美紀はやがて青木幸一郎がすでに婚約していることを知り、お別れを決意する。時岡美保は「私のこと、なんにも知らなかったでしょ」と言う。「都合のいい女」だからどこ出身で何を仕事にしているのか、日々なにを考えているのか……なんにも知らない。ただの「女」であって「人間」ではない。
 これも貴族階級による庶民階級差別の一つ。貴族様は庶民のことは何も知らないし、興味もない。貴族階級と庶民階級は永久にわかりあえないのだった……。

本作は女性による女性目線の映画だから、今の時代に女性1人が自立して生きることの難しさも描いている。上の場面は同窓会で会った男性に、「不倫の誘い」を受けているところ。男は無責任で身勝手に振る舞って何も喪わない。無意識に女性を“道具”扱いし、差別もしている。女性目線でなければわからない女性の立場だ。

 時岡美紀とお別れをして、第3部、ようやく榛原華子と青木幸一郎との結婚生活が始まる。
 ……が。
 2人はぜんぜん向き合わない。話すシーンもお互い背を向けるし、並んで立つこともない。所詮は誰かに“しつらえられた夫婦生活”でしかない。夫婦生活っぽいものを2人で芝居しているだけに過ぎない。来客の時、榛原華子は何をしているかというと、お客様にお茶を出して、部屋の隅っこで待機しているだけ。そのように教育されてきたから、そうしているわけだけど、ほとんど「召使い」みたいな存在。
 ある場面で、青木幸一郎は榛原華子の顔を見て「こんなに睫毛が長かったんだな……」と言うシーンがある。要するに、顔すらちゃんと見ていなかった。それくらい薄っぺらい夫婦だった。
 しばらくして青木幸一郎は政治家となる。といっても父親の秘書を勤めてそのうち出馬……という流れになるのだが、榛原華子は青木幸一郎が政治家になる、なんてぜんぜん知らなかった。相談もされなかった。あるとき、そのことを事後報告的に聞かされて愕然とするのだった。
 青木家はもともと政治家家系だから、それは予想できたことだった。本物の超エリートである政治家家系は、生まれたときから将来政治家になることが確定している。有権者に名前を覚えてもらうために、名前は「一郎」とか「太郎」とか「晋太郎」とか、そういうシンプルな名前になる。そう言われてみれば、いわゆる「2世議員」ってみんな簡単な名前だ。この映画の中で説明されてハッと気付くのだけど、2世議員達がなんであんな名前なのか、というと生まれたときから「将来政治家になる」という前提で育てられるからだった。
 貴族階級には実は「職業選択の自由」なんてなかったのだ。榛原華子も青木幸一郎のような男性と結婚するしか将来がないのだけど、青木幸一郎にも職業選択の自由がない……それが貴族階級の定めだった。
 赤ちゃんが生まれてきたとしても、自由に名前を付けることができない。自由に将来を決めてあげることもできない。もしも離婚となっても、赤ちゃんは相手側に取られてしまう……。
 そのことに気付いて、榛原華子はやっと「自我」が芽生え始める。「これでいいのだろうか」……今まで言われるままに結婚したけれど、これでいいのだろうか?

 映画の中でも話題にされるのだが、「東京」は変な街だ。まずいって、数百年前には“場所”すら存在していなかったような街だ。
 1600年頃、徳川家康が征夷大将軍となって江戸、もとい板東にやってきたときは、そこは広大な湿地帯だった。その当時、そこに住んでいたのはせいぜい山賊くらいなものだった。それを気合いと根性で開拓して埋め立てして作り上げた土地が江戸であった。現在の皇居になっているところから南側は全て埋め立て地。本来海だった場所だ。
 そんな街だから、本当の意味で「昔から江戸に住んでいた」……という人はいなかった。外から移住してきて、やがてその土地を古里とした……そういう人たちばかりだった。江戸の人口構成はそうやって移住してきた人の他に、「江戸で一旗揚げてやるか」という若者達、それから故郷を追われた人たち。つまりは故郷で親の土地を相続できなかった次男や三男といった若者達である。
 そういう性質は、「東京」と呼ばれるようになった現代でもあまり変化はない。「自分は東京生まれだ」という人でも、2代3代と遡るとどこかの田舎が出てくるだろう。相変わらず東京は「一旗揚げてやるか」という田舎の若者達、古里で居場所のない田舎の若者達が毎年大挙してやってくる。そういう若者達への仕送りだけで、一つの街の財政に匹敵するだけのお金が動いているというくらいだ。

 榛原華子は本当の意味で東京生まれの子供だ。
 冒頭のタクシー運転手の台詞で、こんなのがある。
「田舎者が帰って、東京の街がスカスカですわ。お客さん、東京の人でしょ」
 元旦になると東京から田舎者――地方からの移住者が帰っていく。その瞬間、東京は本当の意味で「東京出身者」の街になる(実際にはそういう時でも働いている人もいるけど、それは置いといて)。
 本当の意味で東京出身者とは? もともと海だった場所に作られた街。あらゆる人の手によって“しつらえられた場所”。そういう場所で生まれ、田舎の移住者と一切接点を持たず、榛原華子は“東京の申し子”として育てられてきた。そういう世界に生まれたから、しつらえられた人格を当たり前のように演じ、振る舞いを当たり前のように演じ、レールに乗せられた人生を疑問もなく生きていく。

時岡美紀の古里。街も人間も荒廃している様子が描かれている。

 その一方で、第2の主人公である時岡美紀の視点で、「地方・田舎」が描かれている。貴族階級が贅沢三昧な生活を送っている一方、地方は衰退している。シャッターが閉まった商店街。駅前の大通りでも人通りは少ない。むしろあの風景の方が、現在の日本の現実を現している
 そうした現実の上で、地方の冨を吸い上げて、空虚な世界を築き上げている……それが東京の貴族階級だ。映画の中でその対比を生々しく見せている(そういう意味で平安貴族とそう変わらない)。
 ある場面で、榛原華子はベランダでトマトを作ろうとする。でも結局、「トマトなら買ったほうが早い」と言われてしまい、鉢植えと土を買ったところで断念してしまう。この場面は自我が芽生え始めた華子が「何か自分で育てたい」という欲求を現したものだけど、ある意味、貴族階級の思想を現しているともいえる。自分で土を耕さない、第一産業の実態を知らない、その上で地方が生み出したものを買って暮らしている貴族階級。無限にあるお金で地方の冨を遠慮なしに吸い上げていき、地方が衰退していようがお構いなし。
 東京という、数百年程度の歴史でしつらえられた土地。そんな場所でしつらえられたような暮らしを送る貴族達。押井守監督が映画『パトレイバー2』という作品の中で「蜃気楼のような街」と表現していたが、そんな蜃気楼のような街に生まれて、蜃気楼のような生活をしている人々……それが貴族階級の人たちだ。“本当の東京出身者”とはそういう意味だ。

 そんな世界観において、しつらえられた生活になんの疑問も持たなかった榛原華子は、政治家一族の青木家に嫁いで、ようやく自分の「自我」に芽生え始める。自我に芽生えるがいったいなにをしていいのかわからない……そんな時、偶然時岡美紀と再会する。
 時岡美紀の部屋に招待されるのだが、そこには時岡美紀の自我だらけ。目に映るありとあらゆるものが時岡美紀の人格が投影されている。そんな光景を見て、榛原華子は感激し、ようやく自分自身のための人生を送ろう……と決意する。
 ここで初めてタクシーではなく、自分の足で歩いて移動する場面が描かれる。まず「自分の足で歩くこと」それが自我の獲得の第一歩だ。そういうところまで考えられて設計されているのがこの映画だ。

 本作の紹介はここまで。あまりにも意外な「日本の貴族階級」の実体を描いた作品。テレビメディアに姿を現すことがほとんどなく、漫画やアニメで描かれるときは、よくわからないから何となくの雰囲気だけで描写されがちな貴族達(本当の貴族は「オーホッホッホッ」なんて笑い方はしない)。実際にはどういう生活を送っていて、何を考えているのか、それをかなりきちんとした取材の元に表現されたのが本作だ。そういう意味でかなり興味深い。
 私の感想文では貴族階級をやや批判的に表現したけれど、実際の映画ではそういう部分もかなり柔らかく、優しい描き方をしている。本編中でも「メディアはなにかと対立を煽りたがるけど、そこには行きたくない」という感じの台詞が出てくるとおり、確かにある部分は批判的に、冷ややかに描かれている一方、だからといって切り捨てる感じはまったくない。空虚な生活を送っている貴族達にもそういう世界に生まれたがゆえの苦しみはある。苦しみを抱えながらも、期待されたとおりのものを演じなければいけない。
 青木幸一郎は台詞には現さないが、貴族としての暮らしに空虚さを確実に感じている。だから時岡美紀との関係を手放そうとしなかった。青木幸一郎にとって時岡美紀は唯一感情的になれる相手だった。
 主人公となる榛原華子は女の子として生まれてしまったから、もっと社会からの強制力は強い。ひたすらに空虚な“お人形”のような人格を演じ続ける。そんな榛原華子がいかにして自我に目覚め、情緒を獲得するか……それを描いた作品だ。
 そうした心情の一つ一つを、丁寧にすくい上げて、映画の画として表現している。そういう作品だ。

 シーンの描き方が非常に丁寧なのが良かった。一つ一つの描写にきちんとした意味づけして構図を作っている作家だというのがすぐにわかる。ただ、基本的に画面をフィックスで作り上げるので、見ていると不思議なくらい“アニメっぽい”と感じてしまう。この映画で作られた構図をそのままアニメに置き換えても、ほとんど成立するんじゃないかな……。といっても、アニメに興味がある人でないとそう思わないかも知れないが。

 「日本に貴族階級なんているの?」そういう興味から見始めた作品だったが、思いのほか見るべきものがあった作品だった。貴族階級の暮らしだけではなく、彼らがどんな心情でいるのか、貴族階級の人々がいかにしてパーソナルを獲得するのか。ただ貴族階級を面白おかしく映画いた作品ではなく、貴族階級の心情を中心に描かれている。見る動機としては、興味本位であってもいいだろう。そこから貴族階級の「心情」を知る切っ掛けにもなるはずだ。


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