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映画感想 デューン

 お、Netflixにあの映画が配信されている。これは見なくては……!
 あの映画とは、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督による2021年の作品『デューン・砂の惑星』。原作は1965年に発表された「SF界の聖書」とも呼ばれるフランク・ハーバードのSF小説。その後のありとあらゆるSFやファンタジーに影響を与え、イメージの源泉となり、幾度となく映画化が構想されたが、あまりの壮大かつ複雑であるがゆえに頓挫を繰り返し続けた難物原作である。この作品を、『メッセージ』『ブレードランナー2049』といった「難物原作」の映像化に成功させてきたドゥニ・ヴィルヌーブがメガホンを取る。
 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の『デューン』は発表されると批評家から大絶賛を受け、興行的にも大成功を収める。映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは批評家支持率83%、平均評価10点満点中7.6。興行収入は北米で4125館で公開され、公開初週だけで4100万ドルを稼ぎ出す。最終的な興行収入は4億ドル。
 受賞は第94回アカデミー賞作曲賞、録音賞、撮影賞、美術賞、視覚効果賞をはじめ、第79回ゴールデングローブ賞、第47回ロサンゼルス映画批評家協会賞……その他世界中の映画批評家協会賞で映像系の賞を独占した。名実ともに2021年の映像業界を代表する作品にもなっている。

 ただ本作は映像化にあたり、だいぶ原作をスリムにしているが、それでも独自の世界観や専門用語の多い作品でもあり、その一つ一つを理解していないと難しい作品だ。今回はこの作品が映像化されるに至った経緯からはじめ、作中に語られている世界観や専門用語を確かめながらストーリーを読み解いていくとしよう。

スターウォーズとの類似性

 映画にあまり詳しくない人がいきなり『デューン』と接すると、「この映画、『スターウォーズ』に似てないか……?」と思うことだろう。もちろん似ているのは偶然ではなく、それなりの理由がある。その話から始めよう。
 フランク・ハーバード原作の『デューン』は発表された当時から話題の作品で、1974年、映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーが『デューン』の映画化に着手した。この時の顛末は前回お話ししたので、そちらを見てもらうとして……。

 1974年当時、『デューン』はすでにSFファンの間で神格化されている小説だった。この作品の映像化を試みたのはどうやらアレハンドロ・ホドロフスキーが最初ではなかったようだが、ホドロフスキーの挑戦は映画史的にも重要な痕跡を残すことになる。
 ホドロフスキーはその当時、最高と思えるクリエイター達を集め、思うさま構想を描き、それを1冊の「企画書」にまとめて各映画会社に送りつけた。これを「ホドロフスキーの企画書」と呼ぶことにする。ホドロフスキーの企画書は、よくある「数ページのペラペラの企画書」とは違い、数百ページに及ぶ分厚い企画書でフルカラー、内容は一流デザイナーたちによる世界観設計、衣装デザインが延々描かれ、詳細な絵コンテ、さらにはどうやったら映像にできるかの計画書まで含み、細部までとことんしっかり作り込まれたものだった。
 これだけ完璧な企画書を作り上げれば、映画会社も「NO」とは言わないだろう……とホドロフスキーやその彼の元に集まったクリエイターたちは思っていた。しかし当時の映画会社はSFがヒットするとは思っておらず、企画はNG。ホドロフスキーの『デューン』にどの映画会社もお金を出さなかったために、この時の映画化は頓挫してしまう。

 ところが「ホドロフスキーの企画書」は映画会社の図書室にその後も残ることになる。この映画会社が誰も興味を示さず、まともに見てももらえなかった分厚い企画書を熱心に読み込んだ若者がいた。それがジョージ・ルーカスである。ホドロフスキーの企画書の中には驚嘆すべきイメージの元素が一杯に描かれている。なのに誰も興味を示さず、映像化もされていない……。若いクリエイターが興味を示さないはずがなく、ジョージ・ルーカスはこのホドロフスキーの企画書からいくつものイメージをいただいて、『スターウォーズ』を制作することになる。
 実は『スターウォーズ』ばかりではなく、「ホドロフスキーの企画書」は様々な映画のイメージ元ネタにされていった。映像化されなかったことをいいことに(書店で売られてもいない)、ほとんど「版権フリーイメージ素材集」みたいな扱い方をされてしまったわけである。しかも「世に出なかった作品の企画書」であるから、長らく一般の映画ファンばかりか映画研究をやっている人も、数多のSF映画の背後に「ホドロフスキーの企画書」なるものが存在していることに気付かなかった。
 1975年の『デューン』は映像化されなかったのに、後の様々なSF映画に絶大な影響を与えていたのである。

「この映画、『スターウォーズ』に影響されすぎじゃないか?」
 映画の知識がない人が『デューン』を見るとこんなイメージを抱くかも知れないが、話は逆。そもそも『デューン』があって、そのイメージをヒントにして『スターウォーズ』が生まれた。もちろん、『スターウォーズ』は映像化されていない『デューン』をそのまんまいただきました……という作品ではなく、ジョージ・ルーカスが好きだった様々なSFを重ね合わせ、西部劇や時代劇のイメージも重ねて、それをさらにカジュアルなストーリーに仕上げた。『デューン』は複雑かつ難解なストーリーだが、『スターウォーズ』は誰にでもわかりやすく、それでいて奥行き感がある。この世界観設計はジョージ・ルーカスの才能から出たものである。

 ジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』を大ヒットさせたことにより、世間的な「SF観」は大きく変わり、映画会社は一転して様々なSFの企画書にGOサインを出すことになる。この中に1984年のデヴィッド・リンチ版の『デューン』もある。
 しかしデヴィッド・リンチ版の『デューン』は悲劇的な顛末を迎えることになる。壮大なスケールに対して、予算は少なすぎ、脚本の決定権も、編集権すらない。デヴィッド・リンチは呼ばれて現場指揮を任されただけ……のような状態になり、監督を引き受けたことを後悔し、エンドクレジットに名前を載せることを拒否した。
 その後、「デューンの映画化」の構想は浮かんでは消え……を繰り返し、そのたびに「映像化不可能伝説」は濃厚になっていく。ありとあらゆる映像クリエイターの名前が浮かび、映像化権は映画会社の間をパス回ししていくことになる。
 それが2018年、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督によって、ようやく『デューン』の企画は現実的な方向に動き始める。製作はレジェンダリー・ピクチャーズ。ご存じの通り、『パシフィック・リム』や『ゴジラ』といった、そっち方面で濃い作品ばかり制作しているところである。監督は『メッセージ』や『ブレードランナー2049』といった難物作品を成功に導いたドゥニ・ヴィルヌーブ。原作発表から半世紀にわたる「映像化不可能伝説」がようやく終わる時に来たのだ。

 監督ドゥニ・ヴィルヌーブのインタビューを読むと、どうやらデヴィッド・リンチの『デューン』は意識していたようである。ただし、「望まぬ映画化」だったことを踏まえて、デヴィッド・リンチに敬意を表して、デヴィッド・リンチ版には触れないようにした……という話だった。
 また『デューン』は映像化されていなかったはずなのに、過去50年にわたり様々な映画に影響を与えてきた。「ホドロフスキーの企画書」や『スターウォーズ』はもちろんだし、『風の谷のナウシカ』といった作品も実は『デューン』の影響を受けて生まれている(砂ばかりの荒涼とした世界観や、王蟲のイメージなど……)。すでに『デューン』の影響を受けた作品が世の中に一杯溢れているからこそ、そうした作品群を踏まえつつ、それらと似ていないように世界観を設計しなければならなかった。
 こうした経緯を頭に入れた上で見ると、ドゥニ・ヴィルヌーブの『デューン』の世界観はかなり現実的に練り上げられている。兵士達のアーマーも現実にありそうなデザインだし、トンボのような姿をしたオーニソプターも、ああいった羽ばたきで飛ぶ機械はまだ現実に存在していないのにどこかリアルに感じられるようなデザインで描かれている。『デューン』の世界観は『スターウォーズ』のような完全なファンタジーではなく、実は私たちの世界と地続き。だからどこか現代を感じさせるデザイン観が盛り込まれているのは、理にかなっているとはいえる。
 まずホドロフスキーの企画書なるものが存在していて、様々な作品がその影響下にある。だからこそ、その影響から逃れ、それらを踏まえつつ、似ていない世界観を構築しなければならない。ここからすでに「難題」ではあるのだが、ドゥニ・ヴィルヌーブはこれも見事に乗り越えて映像化してみせた。

メランジ……「麻薬」を巡るストーリー

 物語の冒頭は悪逆ハルコンネン家が惑星アラキス(通称デューン)において極悪非道の限りを尽くしていた……というエピソードから始まる。
 惑星アラキスの地表を覆う砂漠には、「メランジ」と呼ばれる麻薬が混じっている。「麻薬」といえば、私たちの世界では植物性のものだし、鉱物か何かだったとしてもそれは穴を掘って採掘するものだ。しかし『デューン』では面白いことに、地表に浮かび上がった砂に「メランジ」と呼ばれる麻薬が混じっていて、それを採取する……という形を取っている。

 どうして物語のキーとなるものが「麻薬」であるのか……。
 まず『デューン』が描かれた1960年代頃というのはヒッピー文化隆盛の時代で、ヒッピー達が好んでいたものといえば麻薬だった。麻薬によって現実の苦しみから解放され、純粋な愛に邁進することができる……というのがヒッピー文化の基本思想だった。麻薬はこの時代のあらゆる小説家、音楽家、映像クリエイターたちも好んで摂取していた。LSDやマリファナやコカインを吸えば創作のストレスから解放されるし、今まで見たことのないイメージを頭に浮かべることができる。1975年のホドロフスキーも制作スタッフを集め、結束を深めるためにマリファナを使っていた。当時のクリエイターたちはだいたいみんな麻薬やっていた……といってもいい。おそらくは原作者であるフランク・ハーバードも何かしらの麻薬を吸っていて、それをヒントに『デューン』の構想を練っていたのだろう。
 麻薬が禁断の薬として日常から駆逐されてしまった現代の私たちからすると、ビックリするような話ではあるが。
 当時、クリエイターたちの間で信じられていたLSDの効能といえば、「意識の拡張」だった。LSDを吸えば、それまで考えもしなかった素晴らしいイメージに行き当たることができる。麻薬を吸えば新しい能力を切り開ける……と信じられていた。
 そこから、メランジという麻薬を吸ったことにより超能力に目覚める人達の物語が構想された。実は『デューン』は1960年代に隆盛した「ドラッグ・カルチャー」を背景にして生まれた作品であった。

 ただ、現代においては麻薬はタブーであるので、映画中ではメランジは単に「香料(スパイス)」とだけしか紹介されない。「香料」と書くと「なぜ香料(香辛料)で意識の拡張なんかが起きるんだ?」「なぜ香料を吸っただけで幻覚を見るんだ?」となるが、実は正しくは「麻薬」である……ということが了解できれば、この辺りの設定は理解しやすくなる。
 このメランジが、「意識の覚醒」だけではなく、惑星間航行の燃料にもなる……というのは私も実はよくわかってないけど……。

 お話は映画『デューン』に戻ってくる。惑星アラキスでは「メランジ」と呼ばれる強力な麻薬があって、悪逆ハルコンネン家がメランジの採取・販売を独占していた。それでアラキスの先住民である「フレメン」と対立関係となり、激しく争い合っていた。
 この物語の時代における「宇宙帝国」は主にメランジ・ビジネスによって成り立っていて、この帝国とハルコンネン家とは持ちつ持たれつの良好の関係にあった。つまり、宇宙全体が麻薬密売のマフィアが制覇しているような状態で、しかもそれが“犯罪”ではなく、麻薬販売も合法の帝国ビジネスになっている……そういう状態である。
 「帝国」のイメージはもちろん、ローマ帝国。ローマ帝国が当時の世界を制していたように、『デューン』の世界では銀河系全体を領土に入れていて、その中に様々な一族がいる……という構図になっている。

 そんな持ちつ持たれつの関係にあったはずの帝国とハルコンネン家だったが、なぜか帝国は突然、ハルコンネン家に撤退命令を下す。いったいなぜ……? これが物語の始まりとなる。

アトレイデス家 ……英雄の血族

 帝国がハルコンネン家の代わりに、惑星アラキスの支配、およびメランジ採取・販売の利権に指名したのはアトレイデス家であった。
 プロローグのあと、惑星アラキスの使者が惑星カラダンを訪問し、権利の譲渡を交わす記念式典が催される。未来のお話だけど、結局人類はこういった古風な式典をやらねば物事を決定できない……技術がどんなに進歩しても、この性格が変わらないところが描かれている。

 アトレイデス家はこの世界における“名門”。民衆からではなく、諸大領家からも人気の高い一族である。そういう高い信頼感と指導力から、帝国を維持するのに必要なメランジ販売の利権を委ねられた……ように感じるが、実は皇帝は人気が高すぎるアトレイデス家を厄介に感じていた。
 アトレイデス家も惑星アラキスを領地として委ねられて「ラッキー」とかのんきに思っているわけではなく、それ自体が帝国の陰謀じゃあるまいか……と警戒している。しかし帝国からの命令であると、拒否するわけにも行かない。

 こちらの超イケメンが本作の主人公、ポール・アトレイデスだ。演じるのはティモシー・シャラメ。「プリンス・オブ・ハリウッド」なんて異名を持つイケメン中のイケメン、イケメン界の王子である。この顔を見ると、納得の美形である。
 本作における役どころは「いいところのお坊ちゃん」。一般庶民から見ると、ポールのような「領家のお坊ちゃん」は「何も苦労せずうまいもん食えていいなぁ」みたいに思うが、しかし実際にこういった名家に生まれると、生まれながらにして「公人」となり、自由な生き方はできなくなる。「ヤンチャ」なんてできない(何かやったら、あっという間にマスコミの餌食になる)。幼少期から厳しい教育、肉体訓練を課せられ、しかもそれらを発揮する機会がない。アトレイデス家は「軍閥」という側面もあってポールも訓練は受けているのだが、それで戦争に出ることもない。いちばん安全で退屈なところにいて、英雄的な行動を発揮する機会はない。名家に生まれると、その名家としての「シンボル」として育つことだけを期待され、その人生は一族を維持するために捧げられる。そうすることが自分だけではなく、領民のためにもなる。名家に生まれれば、相応の苦労はあるのだ。
 ポール・アトレイデスはそういう「敷かれたレールの人生」に反発を持っている青年だ。しかし、現状、何もできない。まだ「何者でもない」若者だ。

 映画冒頭、一族の墓場で父と子が語り合う。なぜ墓場で語り合うのか……というと「お前もここに眠っている一族を背負っているんだぞ」という父からのメッセージだから。その父親、レト・アトレイデスも若い頃は一族の「掟」に反発していた頃もあった。しかし、結局、一族の末裔であることを受け入れたほうが、自分のためであるし領民のためでもある……という結論に行き当たり、当主に代々受け継がれていた「指輪」を継承した。そう諭すことが父の務めであるし、一族のためである……が、まだ若いポールには受け入れがたいものがある。

 作中、頻繁に「闘牛士」あるいは「ハンティング・トロフィー」と呼ばれる壁に掛けられている牛の像が登場する。
 これは祖父が闘牛を趣味としていた……というエピソードから来ている。結局祖父は、闘牛によって命を落としたが……。
 この牛には様々な意味合いが込められている。一つにはアトレイデス家の「先祖」。レトが「祖父」という時、その祖父1人ではなく、背後にいるアトレイデス家一族全体のことが意識されている。例えば、レト・アトレイデスは死の間際に壁に掛けられている牛の首を見詰める。これはアトレイデス家の一族そのものが意識され、レトはこの一族のために殉死の覚悟を受け入れる。
 しかしポールが闘牛士の像を見ている時は、祖父や一族のことではなく、意識されているのは「自分らしい自由な生き方」。祖父のように、自分の好きなことのために生きたい……というポールの想い。あるいはポール自身、自分の体がヒョロヒョロで、色んな人に警護されなければいけない、つまり「自立できていない自分」に対するコンプレックスを感じていて、「力が欲しい」という内面的な願望を現している。

 ところで「祖父は闘牛で死んだ」……という話はちょっと嘘くさいな……と私は考えている。実際には戦争で死んだんじゃないだろうか。それを息子に話す物語として「闘牛で」と話を変えた……ということじゃないかな。

 主人公の母親。レディ・ジェシカ。息子が超美少年であるなら、母親も当然ながら美人。
 ただこの母親、普通の人ではない。「ベネ・ゲセリット」と呼ばれる教団の一員で、ベネ・ゲセリットは超能力を操るちょっと怪しい集団だった。ジェシカはすでにベネ・ゲセリットから脱退しているが、今でも影響下にある。
 本当なら、ベネ・ゲセリットの掟で女の子しか産んではいけないのだけど、ジェシカはそこから脱退しているし、レト・アトレイデスへの愛から男児を産んだ。たぶん、男児を産まねば一族の存続が……といった問題があるから、ということではないかと思うが。しかもジェシカは、男の子であるポールに、密かに超能力の指導もしていた。

悪逆ハルコンネン家

 名門アトレイデス家と敵対関係になるのが、ハルコンネン家。惑星アラキスで圧政を敷いて、メランジ販売利権を一手にしていた。ハルコンネン家が登場するシーンはいつも画面が真っ暗なので、“悪党”であることが非常にわかりやすい。
 そもそもメランジは「麻薬」のことなので、ハルコンネン家はその麻薬密売を取り仕切っている悪いマフィアのイメージが重ねられている。
 ハルコンネン家はノリノリでメランジ販売利権を取り仕切っていたが、突如ボスである帝国から撤退命令が下される。「皇帝は我々を裏切ったのか!?」……ハルコンネン家内でも動揺があった。

 場所はサルーサ・セクンドゥス。ここには帝国直属の軍隊サーダカーたちがいた。
 帝国はハルコンネン家を見捨ててはいなかった。帝国は民衆からの支持を集め、勢力を拡大しつつあるアトレイデス家を警戒しており、帝国の息のかかった惑星アラキスに招き入れて、一気に滅亡させるつもりだった。しかしアトレイデス家は軍閥でもあって、銀河系内でも強力派閥。そこで帝国はおかかえの精鋭部隊サーダカーを提供するのだった。サーダカーと協力して、アトレイデス家を殲滅せよ……これが皇帝が密かに下した命令だった。

第3勢力 神秘集団ベネ・ゲセリット

 アトレイデス家とハルコンネン家の対立話だけならいいのだけど、ここに第3勢力であるベネ・ゲセリットが関わってくる。ベネ・ゲセリットはすでに説明したとおり、超能力を操る神秘の一団。ベネ・ゲセリットは宇宙中の様々な領家に潜り込んでいて、政治を裏から操るだけではなく、帝国の“血統”すらもコントロールしていた。
 歴史ものではお馴染みの、権力者の傍らで政治をコントロールしようとする宗教集団がベネ・ゲセリットである。
 そのベネ・ゲセリットの教祖的な存在である「教母」が突如、アトレイデス家が治めるカラダンにやってくる。教母はジェシカが掟に逆らって、息子ポールに超能力の一つである“ボイス”を教えていることを察している。そのポールは果たして何者なのか……教母はポールに対してテストを課す。

 そのテスト内容が「箱の中身はなんだろな」。人は未知のものに対して恐れたり、崇めたりする性質を持っている。この理論上、人間が一番不安を感じるテストは「箱の中身はなんだろな」ということになる。箱の中はなんなのかわからない……。その恐れに耐えきれず暴れたり声を出したりしたら失格。箱に手を突っ込んで、内的な不安に捕らわれたら、毒針で首を刺しますよ……と教母様は言う。
 これがポールに課せられた、最初の精神的な試練なのだけれど……でも「箱の中身はなんだろな」なんだよなぁ……。バラエティでよく見るやつだなぁ……。
 このテストによって、ベネ・ゲセリットの教母はポールが自分たちの陰謀にとって相応しい人間であると認められる。
 ベネ・ゲセリットは帝国の血統も裏からコントロールしていたが、果たして……。

 教母様はハルコンネン家の前にも現れる。教母様は「アラキスに侵攻していいけども、ポール親子は殺すんじゃないよ」と指示する。ハルコンネン家は「いいよ」と了承するが……。
 戦争の最中、何かしらの事故で死んじゃったら仕方ないよね、俺たちの責任じゃないよね~ウッシッシッ……とハルコンネン家は密かにほくそ笑むのだった。

惑星アラキス到着! しかしそこには……

 いよいよアトレイデス家が惑星アラキスに降り立つのだが、そう簡単なものではなかった。惑星アラキス住民は悪逆ハルコンネン家の圧政のせいで、帝国支配に辟易している。いくら“名門アトレイデス家”とはいえ、そう簡単に歓迎ムードというわけにはいかない。アトレイデス家本隊が到着する前に、相当いろいろ準備があったらしい。そこは省略されるとして……。
 ポール・アトレイデスが惑星アラキスに降り立つと、先住民達が「リサーン・アル=ガイブ!」と絶叫している。「救世主」を現す言葉らしい。
 どうやらベネ・ゲセリットも介入して、先住民達になにやら吹き込んだらしい……。
 ポールは称えられている存在になっているが、しかしそれも誰かが敷いたレール……。立場を押しつけられて、ポールはご立腹。僕は僕自身の立場を、自分で掴み取りたいのに……! とかポール君は考えているわけです。「救世主」と呼ばれても、「与えられた立場」に過ぎないことにポールは不満。

 住民達に敵愾心はないようだ。
 しかしだからといって、惑星アラキスでの生活がうまく行くというわけではない。新たな問題がすぐに起きる。ハルコンネン家が残していった装置でメランジの精製をやっているのだけど、どうにも生産効率が良くない。帝国が要求した分量を用意できない。
 要求された分量のメランジを用意できないと、アトレイデス家として立場が悪い……。これをどうにかしなければならない……。

 問題は他にもある。先住民のなかでも“戦士”と呼ばれる人達を「フレメン」と呼ばれ、彼らフレメンは先のハルコンネン家時代の時は最前線で戦っていた。フレメン達は帝国に猛烈な不信感を抱いていて、やはり帝国の手先であるアトレイデス家を信用していない。アトレイデス家がアラキスにやって来たこと自体は受け入れるが、「俺たちの土地には入ってくんなよ」と警告する。

 メランジ採掘の現状はどうなっているのか……? 帝国の監察官であるリエト・カインズをともなって様子を見に行くことに。
 しかしリエト・カインズは帝国側の勢力なのか、こちら側なのか……。アトレイデス家はリエト・カインズに対して不信感を抱いている。
 後半、リエト・カインズは帝国の陰謀を知りつつ、「何もするな」と警告を受けていたことが明らかになる。リエト・カインズ個人では、どうにもならない状態だったのだ。

 メランジ採掘の現場に、サンドワームが姿を現す!
 しかし避難が遅れたために、巨大な採掘機はバリバリ食われてしまう。圧倒的なまでに巨大だし、無数に生えている歯が怖い。サンドワームは『ファイナルファンタジー』シリーズにも毎度登場するのだけど、私はこのモンスターがずっと怖かった。こうやって映画で見ても、やはり怖い。
 『デューン』におけるサンドワームは、「打倒すべき恐るべきモンスター」ではない。砂漠における食物連鎖の最上位にいて、自然環境を平行に保つスタビライザーの役割を引き受けている。巨大な採掘機をボリボリ食っちゃうけど、どうやら消化して、砂漠の養分にしてしまうようだ。なんでも噛み砕いて自然に帰しちゃう存在……人間にとっては脅威だが、自然全体においては必要な存在でもある。
 こんなふうに巨大で、人間が制御できない自然生物を、人類は信仰の対象にしがちである。このサンドワームを、地元民たちは「シャイー=フルード」と呼び、とある登場人物によれば「我が主人はただ1人、その名はシャイー=フルード」という台詞がある。しっかり「信仰の対象」にされている。

 召使い候補にやってきた女性の1人が、武器を携帯していた。ジェシカは女が武器を持っていることに気付き、指摘するが、しかし女は暗殺に来たのではなかった。持ってきた武器は「クリスナイフ」と呼ばれているもので、シャイ=フルードすなわちサンドワームの歯から作られた短剣であるという。「鉄」ではないのだ。
(こんな砂漠では燃やすものもないので、鉄の生成は無理。なので、サンドワームの歯から作り出した加工品が、この土地では最強のものだし、聖なる生き物シャイー=フルードから出たものだから、神聖なアイテムということになる)
 クリスナイフはやがて現れる救世主が身につけるもの……ポールは地元民達に「救世主」であると信じられていて、そのポールに剣を届けようと女は現れたのだった。ポールは地元民達にサンドワームと同じ属性の存在と見なされていた。

 さて、いきなり映画のクライマックス。サンドワームがポールの前に現れるが……サンドワームはポールを襲わない。なぜならポールはこの惑星における救世主で、サンドワームは一目でポールは自分と同じ属性だと見抜いたから。サンドワームが襲わなかったことが、ポールが救世主であることの証となった。
 ところでサンドワームが通り過ぎる時の砂の動きが「波」のような動き方をする。これはサンドワームに「鯨」のイメージを当てているため。サンドワームの皮膚感もクローズアップすると鯨っぽいし、無数の歯も鯨の髭っぽく見えるように描いている。サンドワームは「砂虫」だが「虫」ではないのだ。

ハルコンネン家襲撃! どうなるアトレイデス家!

 いよいよクライマックス。ハルコンネン家が精鋭サーダガーを率いて惑星アラキスを襲撃!
 夜の闇に乗じての奇襲だ。不意を突かれたアトレイデス家だが、アトレイデス家も力のある軍閥なので、ただちに反撃に乗り出す。

 そんな最中、ウェリントン・ユエ医師がアトレイデス家を裏切る。妻を人質に取られて仕方なく……。しかしユエは、アトレイデス家が反撃できるように密かに手を回す。アトレイデス家への忠義心は忘れていない。

 ハルコンネン家の兵器。現代の兵器とは違うので興味深い。このシーンでは花火のような弾幕を一斉掃射したあと、レーザービームでオーニソプターを落とそうとする。レーザービームが一発しか撃てなかったのは、それだけ高い出力がいるからだろう。一発だけだが、ありとあらゆるものを貫通する威力は絶大!
 弾幕攻撃は面で対象を破壊するのに対し、レーザービームは一機一機に対して使われている……という使い分けがあるようだ。

 戦闘の最中、ポール&ジェシカ母子は誘拐されてしまう。ベネ・ゲセリットの教母(魔女と呼ばれている)の言いつけで、ポール&ジェシカは殺さないが、砂漠に放り出して勝手に死ぬように仕向けるつもりだった。
 だがハルコンネン家の兵士達は、ポールも“ボイス”を使えることを知らず。いいように操られて、逃げられてしまうのだった。
 そのポールが座った座席下には、「◇」のサインが。クリスナイフの柄に刻まれているサインと同じものだ。もちろんユエ医師が残して行ったもの。ユエ医師は脱出の手引きもしてくれていたのだ。

 ポール&ジェシカは脱出したが、拠点はハルコンネン家に徹底的に潰されてしまう。ポール&ジェシカは拠点に戻らず、砂漠へと逃亡するのだった。
 この襲撃で全てを喪ったポールだったが、しかし転機でもあった。これまでは「アトレイデス家」という“完成した世界”があって、自分はそのレールの上で生きていくだけ……だったが、全てを喪ったことで自分で自分の人生を歩むチャンスが訪れる。また同時に、それまでのポールは自分の家柄を軽んじているところがあったが、父が殺されたことによって、自分の出自を意識し、それを守る戦い決意するようになる。
 すべてを喪って、ポールはかえって自分の使命とアイデンティティの有り様を発見する。
 ポールは自分が何者かわからない、どんな人間がわからない……アイデンティティの有り様に悩む若者だったが、悲劇によってようやく自分が何者か、その輪郭線を掴もうとしていた。

映画の感想文

 最初に書いたように、『デューン』はそもそも難物原作だったうえに、時間が経ちすぎたために、より映像化の難しい作品になってしまっていた。『デューン』に影響を受けた映像作品はすでに世の中に一杯あって、多くの観客はそれらの元ネタが『デューン』であることを知らずに見てきた。そんな最中に『デューン』を映像化する。それは逆に言えば「今さら」な感じがする。今まで『デューン』を知らなかった観客でも、「あれ? これどっかで見たな」……と既視感だらけになることは必死だ。
 だから2021年版『デューン』は、これまでに構想された過去の『デューン』とは違うものにしなければならなかったし、これまでに『デューン』に影響を受けた映画とも似ていないものにしなければならなかった。
 そうは言っても、やっぱり『スターウォーズ』っぽいなぁ、とか思うところもあったけれども。冒頭の、やや部族がかった衣装を着た人達がやってくるシーンは、『スターウォーズ』が先に描いている。アトレイデス家の軍艦も、形だけを見ると『スターウォーズ』にそっくりな物が登場している。そこは仕方ない。
 そういう難しい課題を前に、見事に『デューン』を“真新しい作品”にしてみせている。これまでのSFにない新しい作品にきちんと見せかけているし、これまでのSFを統括するような映像にもしてみせている。
 どういうところが……というと、習慣や映像は古色蒼然とした雰囲気が漂っていたこと。由緒あるアトレイデス家の様子はむしろ歴史物っぽい雰囲気で。遠い未来の話だけど、そういう未来の話だからこそ、むしろ現代でも“古い”と感じさせるものが受け継がれていくのではないか……という推測の元に描かれている。式典の時にバグバイプを吹く様子も、1万年後の未来でもまだやっているのか……と思うが、おそらくはそういったものの由来などがわからなくなっても、“形”だけはああいうふうに残っていくのではないか。現代でもすでに、私たちは自分たちの出自――自分たちがどんな文化に属しているのか意識しなくなっているが、より未来へ進むと、さらにわからなくなるが、形だけでも自分の出自を示すものを持ちたくなるのではないか。そういった歴史的な軸になるものから、自分たちの規律となるものがどこにあるのか、を見出すのではないか。
(登場人物の名前も、現代であっても不思議ではないような名前が採用されている。SFでは世界観を押し出そうと少し不思議な語感の名前を出したりすることはよくあるのだが)

 映画『デューン』の描いた世界観は、“未来世界”というよりむしろ伝統社会の色彩を強く残している。こういった描き方は、意外とSFの中ではあまり見られないものだった。新しいようで馴染みのある……という独自の世界観がそこに描かれた。
 一方、建築は徹底的に質素。余計な家具もなければ、調度品も最小限に描かれる。『ブレードランナー』のような「物質主義社会のなれはて」ではなく、そういう時代を通り越してミニマリストになっている。もっとも、それが質実剛健を良しとするアトレイデス家の性格かも知れないが。
 そこで一つ気になるのは、「街」が描かれなかったこと。アトレイデス家のもともとの拠点であるカラダンでは雄大な自然が描かれたが、そこに住んでいる人々がまったく描かれない。人々はいったい、どんな暮らしをしているのだろうか?
 惑星アラキスにやって来たあとは拠点の周囲の街のようなものと、住民達が描かれたが、生活の様子はまったく想像できない。そういう世界観を目指した結果なのだけれど、少し気になる。
 一方、メカは現代を踏まえて、おそらく未来世界ではこれくらい進んでいるだろう……というシミュレーションで描いている。現代では実現できていない羽ばたきで飛ぶオーニソプター(機動力がヘリコプターより断然高い。いきなり静止したり、真上や真下にも移動できてしまう)や、なんでも貫通しちゃうビーム兵器。パラシュートを使わず、兵士が高所からふわりと下りてくるシーンがあったが、ああいった反重力を応用したアイテムも、未来世界では生まれているのかも知れない。
 不思議なのはコンピューターが描かれなかったこと。アトレイデス家の側近の1人、スフィル・ハワトは優れた計算能力を持っていて、何を聞かれても一瞬白目を剥き、その直後には答えを出している。これは「メンタート」と呼ばれる能力だそうだ。こういった能力者がいるからコンピューターが不要になったのか、それともコンピューターが人間の脳内に埋め込まれているのかはわからない。

 なによりも映像。ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の映像は、どのシーンを見てもとにかくも美しい。絵になっているカットが次々に出てくる。映画館のスクリーンで見ることを前提にしているので、どのカットもどっしりとした重量感がある。最終的には、画面の美しさで切り拓いていった……そんな感じすらある。
 ただそれゆえに、アクションシーンに精彩さが出ない。後半のクライマックスはハルコンネン家の襲撃が描かれたが、どのカットも絵が止まっているように見える。「動的な画」になっていない。「動的な画」というのは、つまり「捨て画」のことだ。アクションを描くには、膨大な量の「捨て画」を編集でダーッと繋がなければならない。しかしドゥニ・ヴィルヌーブ監督の映像は、1カット1カットがあまりにも美しく整えられている。これだとどうしてもアクションシーンの激しさは表現できない。
 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は映像作家として高い感性を持っているが、アクションを描く場合には、それが逆に邪魔をしてしまっているようにすら感じられる。そこが惜しいポイントだ。
 物語でも一つ引っ掛かるのはユエ医師。ユエ医師は映画前半から登場しているのだけど、あまり印象に残らない。印象に残らないのに、後半に入りいきなり重要なキャラクターに格上げされている。「妻が誘拐されて……」という話も台詞だけで、どことなく真実味がない。かなり重要なエピソードなのに、映像として描かれていない、というところが妙に引っ掛かってしまう。

 本作の『デューン』には、冒頭でも最後でも『デューン パート1』と表記されている。つまり最初から1本の映画ではなく、その後も数本続く予定で制作されている。
 これが過去の『デューン』にできなかったことだった。『ホドロフスキーのデューン』は、内情を聞くとどうやら「12時間の映画」になる予定だったそうだ。ということは、一日に上映できる回数は1~2回。なぜ映画会社がホドロフスキーの『デューン』にGOサインを出さなかったか、この辺りでわかってくる。そんな無茶な構想の映画、どこの会社もOKしないだろう。
 その後も何度も『デューン』の企画は浮かんでは消えを繰り返したが、問題は「上映時間」だった。実はホドロフスキーだけではなく、他の映画監督も脚本を書いたが、どうしても10時間ちかい映画になってしまう。デヴィッド・リンチ版は2時間程度に刈り込んだが、物語が無理矢理圧縮されすぎて、なんだかわからない内容になってしまっていた。
 『デューン』の原作は長大すぎて、その物語をきちんと描こうとすると、どうしても10時間前後の作品になってしまう。それで一部省略して2時間の映画にしたら……よくわからない映画になってしまう。これが『デューン』を映像化する上での難しさだった。
 まず『デューン』はイメージが壮大すぎる……というのもあったが、この物語の長さが「映画化不能」伝説を作る理由になっていた。
 それも時代の変化というやつで、切っ掛けは『ロードオブザリング』と『マトリックス』だが、この2作を切っ掛けに、「映画は1本で終わるもの」ではなく、何作も続いていくもの、という認識が生まれた。これが『デューン』の映画化に良い要素をもたらしている。映画は2時間の間にあれもこれも詰め込まなくてもいいんだ……という発見だった。こうした時代変化を踏まえて、やっと『デューン』は2時間で終わる作品と割り切ることができた。なぜなら『パート1』だけを描けばいいからだ!

 しかも第1作目の『デューン』は世界的大ヒット、充分な収益を上げて、批評家からも大絶賛、2021年の映像関係の賞をまるごともぎ取ってくれた。すでに『デューン パート2』の制作にもGOサインが出た、という話は聞いている。
 どんなに想いはあっても、売れなければ次が作られることはない……。『デューン』の1作目は賭けに勝ったのだ。

 『デューン』はただの映画ではない。いろんな人の想いが乗せられている。『デューン』が好きだったファン達の想いだけではなく、『デューン』を映画にしようとして挫折したありとあらゆる映画監督、脚本家、デザイナーといった人達だ。『デューン』のビジュアルイメージは、実は今回の映画が作られる以前から、山のように作られてきた。そうした前任者の想いを受けつつ、新しいものを作らねばならない。ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は『メッセージ』『ブレードランナー2049』といった難題作を手がけてきたが、間違いなく『デューン』が一番の難題だったはずだ。それらを引き受けて、見事に達成して見せた。
 これを受けての第2作目はまたしても難題だ。しかしこれをどうやって達成してみせるのか……。と、いう話よりも、今はポールの運命がその後どうなっていくのか、それを見届けたい気持ちになっている。


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