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映画感想 007/ノー・タイム・トゥ・ダイ

 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』は『007』シリーズ25作目で、ダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンド作品としては5作品目で、ダニエル・クレイグ=ジェームズ・ボンド最後の作品となる。
 監督はキャリー・ジョージ・フクナガ。来歴がかなり複雑な人物で、父親が日系アメリカ3世であるため、「フクナガ」という日本人名字を名乗っている。母親がスウェーデン、ドイツ、イギリスの血を引いている。キャリー・ジョージ・フクナガ自身はアメリカ人であるが、アイデンティティの源泉はかなり複雑である。
 どうしてこんな紹介の仕方をするのかというと、本作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の中にこの複雑さが反映されているから。プロローグとして登場する場面はノルウェー、モチーフに使われているイメージが日本、主人公はイギリス人……。『007』シリーズならばこういう複雑さはいつものことだが、監督の来歴と照らし合わせてみると、なるほど監督のアイデンティティが反映されてこうなっているのか……と感じるところはある(初見の時、日本のイメージは「なぜ?」と気になったが、監督の来歴を見ると納得できる)。
 劇場公開は当初は2020年2月14日と告知されていたが、コロナウイルスの影響で延期を繰り返し、2021年10月になってようやく公開となった。世界的にもコロナウイルス拡大中という、かなり不利な最中での興業だったが、最終的に世界興行収入7億ドルを獲得している。前作、前々作と比較すると興行収入は落ちるが、充分大ヒット映画と呼べるくらいには稼いでいる。
 評判は批評集積サイトRotten Tomatoesによれば321件の評論のうち、高評価は84%。10点満点中7.4。一般観客支持率は88%。かなり高い評価を得た1本となった。

 では前半のストーリーを見てみよう。


 冒頭のシーンはスウェーデン。辺りが雪に包まれる森の中、ぽつんと一軒の家が建っていた。家の中には、母と娘だけがいた。
 そこに能面を付けた謎の男が押し入る。
 能面の男は「お前のご主人に殺された。だからお前達を殺しに来た」と持っていたマシンガンを乱射し、母親を殺害。
 娘はベッドの下に隠れ、能面男が油断した隙に射撃。
 娘は能面男を引きずって外に連れ出そうとする。
 すると能面男が息を吹き返した。娘は慌てて逃げ出す。凍った湖を横断して逃げようとしたが、その途上でヒビが入り、冷たい湖面の中に落ちてしまった。
 能面の男はとっさに娘を救い出し――。

 湖に潜っていたマドレーヌは、ふと幼い時のことを思い出していた。
 マドレーヌはジェームズ・ボンドと旅行暮らしをしていた。ジェームズ・ボンドはMI6を引退し、2人で平凡な時間を共有していた。
 イタリア・マテーラにやってくると、そこで不思議な行事が開催されていた。過去の秘密や願い事を紙に書いて、燃やす……というものだ。そうすれば過去を忘れ、未来に進める――そう信じられていた。
 ジェームズ・ボンドにとって忘れたい過去……。といえばヴェスパー・リンドだ。ジェームズ・ボンドがイタリアにやってきたのは、彼女の墓があるから。その墓参りに訪ねたのだった。
 ジェームズ・ボンドがヴェスパー・リンドの墓を訪ねて、彼女との思い出を懐かしんでいると、突如爆破! 謎の男達がジェームズ・ボンドを攻撃してくる。
 ジェームズ・ボンドは謎の男を撃退するが、男の口から意外な情報が告げられる。
「マドレーヌの父親はスペクターだぞ。マドレーヌの父親はスペクター……」
 この襲撃にマドレーヌが関わっているのか……! ジェームズ・ボンドは疑心暗鬼に陥り、マドレーヌと別れるのであった。


 ここまでで22分。謎の男達との襲撃シーンを終えて、オープニングシーンに入る。
 今回の『007』は今までと方向性も構成もちょっとずつ違っている。今までなら、オープニングに派手なアクションシーンを展開し、切りのいいところでオープニング……という流れだった。しかし本作ではまずプロローグがあって、それからエピソードを一つ挟んでアクションシーン、それが終わってようやくオープニング……とここまでの展開で25分も使っている。

 まずプロローグを見てみよう。『007』シリーズとしてはかなり珍しい、ホラーテイストな演出作法で作られている。なぜホラーテイストに作られたのか? そこから見ていこう。
 冒頭のシーンは雪に閉ざされた一軒家で、少女時代のマドレーヌとその母親の2人だけで住んでいる。そこに、謎の能面の男が押し入ってくる。
 この能面男はこう話す。
「私はリュートシファー・サフィン。ご主人に殺された。だから家族を痛めつけに来た」
 吹き替え版はどのようになっているのか確かめていないが、字幕版ではこのようになっている。お気付きになられただろうか? 能面男ことサフィンは「ご主人に殺された」と話している。文脈を見ると「ご主人に“家族を”殺された」という意味になるが、これだけで見ると、あたかも“自身もすでに殺された”……といふうに読むことができてしまう。
 これはどういうことか? 次に「能面」の意味を見てみよう。
 能面は現実に存在する人ではなく、「超神秘的な存在」を表現するための舞台装置である。能面を被っている人物、というのは「人間」ではなく、幽霊・神・鬼などを表す。そして能面を被ったサフィンは、突如現れ、問答無用に人の命を奪っていく存在として描かれていく。
 ここから、この能面男は「死神」であると推測される。
 死神が現れ、母親が殺された。だからオープニングシーンはホラーテイストで描かれている。ホラーテイストに描かれたのは、単に観客を驚かせたいというための演出ではなく、そのように描くことで示唆したかったのではないだろうか。つまり、サフィンが「死神」である、ということに。
 だいぶ後のほうになるのだけど、ブロフェルドが死ぬシーンの“音”をよーく聞いていてほしい。ホラー映画でよく使われがちな、あの“音”が記号的に使われている。あそこも実はホラー的な現象によって死んだんだ……というふうに見せようとしている。サフィンの介入を死神的な現象として捉えようとしている場面だ。
 その能面男ことサフィンを、幼いマドレーヌは銃で撃って倒す。たぶん……サフィンは防弾チョッキを着込んでいたんじゃないかな。見間違いかも知れないが、銃弾が服の入り口のところで留まっているように見えた。
 それはともかく……。マドレーヌは逃げようと凍った湖を横断しようとして、その途上で落ちてしまう。サフィンはそれを救い出す。これは「死神の契約」だ。マドレーヌはこれで一方的に、理不尽に死神に救われてしまうという契約を結ばれ、囚われることとなる。

 今回の『007』はこういう暗喩的な、オカルト的な伏線が背景に流れている。これを読み取らないと、よくわからない作品になる。能面男サフィンや、サフィンの行動動機、あるいはその行いは、見ていてよくわからないというか、変に感じる部分が多い。合理的に感じない場面も多い。かなり不条理だ。しかしサフィンが生身の人間ではなく「死神」だという考えを代入すれば、いろんなものが克明になっていく。
 サフィンは最終的に大量虐殺を計画するのだけど、それだって意味がない。でもサフィンが死の引導を渡す存在であり、その動機しか持ち得ないのなら、納得できる。サフィンは死神だから、理不尽で問答無用の死を広げたかったのだ。

 そんなホラーちっくなプロローグを経て、ある意味いつも通りなアクションシーンに入っていく。その最中でジェームズ・ボンドはマドレーヌに対する疑念を覚え、その場で別れるという決断をする。
 その別れ際、マドレーヌはお腹を押さえる。「お腹に赤ちゃんいますよ」というサインだ。あんな場面で、あんなふうにお腹を押さえる人なんていないと思うが……。観客に見せるための説明的なサインだ。マドレーヌの赤ちゃんは後ほど登場することになる。

 続きのストーリーを見ていこう。


 5年後……。
 とある研究施設にテロリストが侵入する。そこで開発されていた“ヘラクレス”と呼ばれる兵器が強奪され、ロシア人のオブルチェフが連れて行かれる。

 このニュースは即座にMI6にももたらされる。しかしMは、何かをごまかすように「ガス爆発だ。そう報告しろ」と言うだけだった。

 一方その頃、ジェームズ・ボンドはジャマイカで悠々自適の引退生活を送っていた。一人きりで女の影はない。
 そのジェームズ・ボンドの元に、CIAのフィリックスが訪ねてくる。ローガン・アッシュという相棒も一緒だった。
 フィリックスは「君に頼みたいことがあるんだ」と切り出す。キューバで近くスペクター主催のパーティーが催される。そこに忍び込んで、オブルチェフを確保してきて欲しい、という。しかしジェームズ・ボンドはこういう仕事からすでに引退している。フィリックスの申し出を断るのだった。
 帰宅しようとするが、車がエンジントラブルで動かない。たまたま通りがかった女のバイクに乗せてもらって、家まで帰宅する。女はノーミと名乗り、ダイバーをしている……と語る。
 ジェームズ・ボンドが帰宅すると、ノーミは自身がMI6であることを明かし、しかも「007」のコードネームを継承したと話す。ノーミはジェームズ・ボンドに「余計なことはするな」と挑発するのだった。
 ノーミが去った後、ジェームズ・ボンドは直ちにフィリックスに電話するのだった。


 ここまでで45分。長尺映画なので、まだストーリー前半。
 25~45分のストーリーで他に(見落としがちな)重要なポイントは、ジャマイカにはイタリアでジェームズ・ボンドを襲撃したサイクロプスもやってきている。サイクロプスはジェームズ・ボンドの歯ブラシを盗んで帰っている。歯ブラシからDNAを採取し、これで「ジェームズ・ボンドだけが死ぬ兵器」を作り出して、殺すつもりだったが……。
 この結果がどうなるかは、キューバのシーンで。

 このパートの始めに、とある研究施設が襲撃される。この研究施設がなんなのか……というと後々明らかになるが、MI6肝いりの兵器開発施設。DNAに符合する相手を、無条件に、不条理に殺害してしまう……という恐ろしい兵器がここで開発されていた。
 これが能面男ことサフィンがどうして相手に触れただけで殺せるのか……という説明となる部分。「設定」としてこういうものがありますよ……と解説したところだ。
 本当言うと、サフィンは「死神」であるのだから、問答無用で、不条理に死をもたらす存在……でも良かったのだけど、『007』はホラーではなくスパイアクションだ。そういうお話にするとしても、「理屈」を付けねばならない(ホラーだったら「理屈」は不要になる)。その理屈として、「こういう設定が裏にありますよ……」と納得させるために出てきたのが、この設定だ。
 本当言うと、だからといって触れただけで、その相手を殺せちゃう……というのは不条理。そんな都合のいい兵器、あるわけがない。肌が触れあうとDNAが付着して……という理屈だが、実際は付着するとしても採取不能なくらい微量なものでしかなく、その程度のDNAで人を殺すなんて無理な話。そういう「設定」は裏にあるけれど、ほとんどホラー的な仕組みだと思ったほうがいい。
 後々明らかになるのだが、この兵器はいったん体に付着したら除去不能になる。ナノマシンが体内に入り込み、除染できないのだという。これはほとんど「呪い」のようなもの。これも考証的に無理のある設定なので「呪い」であると思ったほうがいい。
 「設定」のほうで原理的なものは説明され、そういう話として進んで行くのだけど、裏面を見るとこれはホラー。ホラー的な仕掛けを、スパイアクションの手法で解説しながらお話を進めていますよ……という感じになっている。

 ジャマイカでは久しぶりにフィリックスの登場だ。『慰めの報酬』で登場した男で、あの時ではかなり強面、クールなイメージだったが、本作では笑顔の絶えない朗らかな人物として再登場する。
 ジェームズ・ボンドはフィリックスと、掌の中にあるコインの枚数を当てあう、という遊びをする。しかしジェームズ・ボンドはひたすらに負け続ける。MI6の凄腕として知られるジェームズ・ボンドだが、勘は鈍ってしまっている。それに、まだ自分の運命を知らない存在として描かれる。(サイクロプスに尾行されていることにも気付いてないし)
 それどころか「007」のコードネームを知らない女に取られてしまっている。MI6でもCIAでもない……ジェームズ・ボンドがアイデンティティを喪っている状態だ。殺しのあらゆるテクニックを熟知している男であるのに、何者でもない。戦う理由がない。ジェームズ・ボンドが自身を取り戻すために戦場に赴く……という動機が描かれている。自身を取り戻す、ということは隠退生活で背を向けていた様々な「因縁」と再び向き合うことになり……。
 その007を受け継いだノーミというのが、黒人の女だ。昨今の世相を反映した……ともいえるのだけど、単純にジェームズ・ボンドの要素を反転させただけだろう。白人を黒人に、男を女に。それくらいの違いがあった方が、ここはわかりやすくていい。
 キューバに潜入してから、パロマという女性と合流する。今までで言うなら“ボンドガール”のポジションで、これまでのシリーズだったらこの女性とセックスする流れがあるのだけど、今回この展開もなし。マドレーヌに裏切られた……という思い込みがまだあって、女を遠ざけている……と台詞で説明されている。ジェームズ・ボンドも年老いて、慎重になっているのだ。

 今回の事件で、さすがのMも気が滅入り始める。自身が指揮していた兵器開発の成果がテロリストに奪われてしまったが、その相手が何者で、何をしたいのかよくわからない。あれだけの兵器を盗み出したのに、声明文すら出さない。つまり「要求」すらない。
 お金目的でもイデオロギーでもない。相手が国家であれば、その国家を相手に戦えばいい。能面男ことサフィンはその何者でもない。なにしろ「能面の男」であるから、由来もなく、陽炎のような存在。実体がない上に、何が最終目的かすらわからない。
「この国が正義とする物を命をかけて守る。かつての敵はじかに対決できたが、昨今の敵は空中に漂ってて、何が狙いなのかもわからない」
 とMは語る。今回の敵は今まで想定しうる何者でもない。MI6の役割は、その相手を見出し、戦うための組織だ――そう語ったのは先代Mだ。その先代の言葉に従って、戦い続けること……相手が何者かわからなくても、がむしゃらに戦い続けなければならない。

 サフィンの直接的な目的は、かつて家族をスペクターに殺された、その報復。それでスペクターと、その首領であるブロフェルドを殺害した。ここでサフィンの目標は達成されたはずだが……。しかしサフィンは、そこから一歩進んで、さらなる死を世界に拡散しようとする。
 その意味は……? どうしてそんな荒唐無稽な計画に、あれだけ多くの人が協力している? サフィンの資金はどこから出ている……? 今回はかなり奇怪な作品だ。
 スペクターの手先であるサイクロプスも、途中からサフィンの手先に変わっている。いったいなんだ……と不思議に感じる
(サフィンがスペクターを殺したのは、報復だけではなく、毒薬を培養しているある島を得るため……と説明されている。とすると、サフィンは別に「報復」を目的でスペクターを殺したわけでもなかった)

 映画後半に入り、ノルウェーのマドレーヌの生家へ行く場面がある。ジェームズ・ボンドがマドレーヌの家へ行くシーン、構図がプロローグとまったく一緒だ。リビングに入るカットは、プロローグとは逆の視点で――つまり能面男が見ていたであろう視点で描かれる。
 このマドレーヌの生家へ入る手前には、大きな橋を渡る場面がある。「橋」というモチーフはもう何度もこのブログで語ってきているが「境界」を示すモチーフだ。あの世とこの世、現世と異界。マドレーヌの生家はそういう境界の場所。そういう場所で、ジェームズ・ボンドとサフィンが一瞬重なるような描かれ方をしている。
 ノルウェーのこのシーンで、プロローグの構図が繰り返される理由は? それは能面男とジェームズ・ボンドが「光と影」の関係性だからだ。
 ジェームズ・ボンドとサフィンは“対”となるように描かれている。そもそもジェームズ・ボンドは何者か? 殺しのライセンスを持って、向かってくる相手を問答無用に殺して回って……。ある種の死神ではないか。しかし映画はジェームズ・ボンドを中心に描かれるから、その殺戮は肯定的に描かれていく。映画が肯定的に描いている部分を反転すると、何が浮かび上がるのか。
 ジェームズ・ボンドが祖国のために、人類のために戦う……という情熱を燃やせば、サフィンもその反対に「人類を死滅させる」ということに情熱を燃やす。サフィンはあくまでも「死神」であって、生々しい人間ではない。ただ「殺す」という機能をもっているだけだ。ジェームズ・ボンドが人々を守るという姿勢を見せれば、サフィンは反対に「殺す」という姿勢を見せる。ある意味で同じ手法を使って。
 映画のクライマックスに入り、サフィンのアジトが出てくる。日本とロシアが領有権を主張し合っている場所……だから「北方領土」だ。そのアジトだけど、細菌兵器を搭載したミサイルの発射口を中心に、枯山水が作られている。神棚なんかも置かれていたりする。
(日本の領土内だから、日本の文化で描かれている……という説明もできる)
 あの空間はなんなのか……というとこの世ではなく、異空間。あるいはあの世。その場所で、ジェームズ・ボンドは初めてサフィンと遭遇する。
 マドレーヌがサフィンと遭遇し得たのは、ある意味、呪われていたから(マドレーヌのサフィンに対する怯え方は、ちょっと大袈裟。なぜ大袈裟に怯えるのかというと、サフィンが死をもたらす存在だから)。サフィンは死神なのだから、現世でまともに会うことなんてできない。あの異空間にいって、ようやく会えることができる存在だ。

 『007』シリーズが毎回そうなのか知らないが、ダニエル・クレイグの『007』は毎回、自身の影と戦う物語だった。
 『慰めの報酬』では自身の映したような復讐に燃える女・カミーユと出会う。『スカイフォール』で対峙した敵/ラウル・シルヴァはジェームズ・ボンドが自分がそうなっていたかも知れない男だった。『スペクター』に登場する総帥ブロフェルドはかつてジェームズ・ボンドと幼少期を過ごした男だった。ジェームズ・ボンドがスペクターになっていたかも知れない。
 ジェームズ・ボンドは常に自分の影と戦い続けていた。『ノー・タイム・トゥ・ダイ』では死神としての自分自身と戦うことになる。ジェームズ・ボンドにとってある意味根源的な、精神的な「影」と戦うことになる。
 しかし「根源的な影」を殺すということは――自分自身にも引導を渡す、という意味にもなってしまう。その結末がどうなるかは、もうはじめから約束されていたものといっていい。設定的に、ドラマ的にあの展開になった……というより、ジェームズ・ボンドの宿命的にその帰結に向かわねばならなかった。今回の『007』はそういう作品になっていた。

 そういう理屈の話は、多くの観客にとってはどうでもいい話である。要はそこでドラマとして成立しているか。展開がエンタメをしているかどうか、が重要だ。『007』はエンタメ映画である。
 もちろん、ここが一番しっかりできていたところ。キャリー・ジョージ・フクナガ監督は映画監督としてのキャリアは実はかなり少ないのだが、これだけのスケールを、これだけの長尺で見事にまとめきっている。間違いなくダニエル・クレイグ=ジェームズ・ボンドの幕引きとして相応しい一本になっている。
 ダニエル・クレイグ=ジェームズ・ボンドはこの作品でシリーズを去り、永遠になったのだ。


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