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映画感想 IT/イット THE END それが見えたら、終わり

 今回視聴映画はまたまたスティーブン・キング。別に意識したわけじゃないけど、スティーブン・キングに行き当たるんだよなぁ……。
 大ヒット映画『IT それが見えたら終わり』の続編にして完結編! 興行収入に関する詳しいデータが出てないが、アメリカ本国でも日本でも、「前作よりやや低い」成績だったようだ。批評については、Rotten Tomatoesでは批評家支持率62%。前作の批評家支持率が86%と比較するとはっきり低い。どうやら「賛否両論」になっていたようだ。
 評価の微妙さにくわえて、まず目に付くのは169分という尺。ほぼ3時間だ。私も見始めてから「おや?」と気付いた。とても長い。どうしてこんな長さになってしまったのか……というと「愛情」ゆえ。見ればすぐに愛情の強い作品だとわかるんだ。登場人物を1人1人、丹念に描いて、それゆえにどんどん尺が伸びていく。賛否両論となってしまったのは、この尺ゆえ、というのはすぐに気付くのだが、しかし内容を見るとかなりしっかり作ってあって刈り込むのも難しい。難しい原作に挑戦したんだな……というのがわかる。そもそものストーリーが省略が難しい物を、どうにか映画としてまとめようとしている。
 今回はこの辺りの話を含めて、感想文を書いていこう。

 ちなみに、前作のストーリーをほぼ忘れている状態での視聴だ。原作も読んでいない。今回の映画から読み取れる内容だけで感想文を書いていく。

 さて、いつものように前編25分のストーリーを見ていこう。

 舞台はメイン州の田舎町デリー。その夜はお祭りだった。
 とあるゲイカップルもそのお祭りの夜を楽しんでいたが――しかし不良に絡まれ、殴られた挙げ句、橋から落とされてしまう。
 ゲイカップルのもう一方が慌てて橋を降りて、助けに行くが、そこにいたのは不気味なピエロだった……。
 その様子を見ていたもう一人の男がいる。マイク・ハンロンだ。マイク・ハンロンはあの事件の後もデリーに残り、事件の調査を続けていた。マイク・ハンロンはその事件現場の様子を見て、“それ”の痕跡を確かめる。
 “IT(それ)”が戻ってきた……。
 マイク・ハンロンはかつての友人達に連絡をする。27年の時を経て、かつての仲間達がデリーに戻ってくる。
 しかしかつての友人達は、あの時の事件を忘れてしまっていた……。

 このデリーを去った仲間達が再び集まってくる……という展開だけで25分。どうしてこんなに尺を使うのかというと、登場人物が多いから。登場人物それぞれの「その後」をきちんと描こうとすると、どうあがいてもこの尺になってしまう。

 とにかくも、内容を見てみよう。
 冒頭に登場してくるのはゲイカップル。なぜゲイカップルが登場してくるのか。アメリカの田舎では(さすがに今ではもうないと思うが)ゲイというだけで暴力を振るわれたりする。アメリカにおける因習のようなもので、かつてはゲイというだけで殺されたりしたし、しかもゲイへの殺人は同情もされなかった。
 なぜゲイがアメリカでそこまで嫌われるのか……1つ、「こういうことじゃないのか」という推測を立てているのだが、話が長くなるので省略しよう(これは別の機会に話そう)。とにかくもこれもアメリカの暗部の一つである。
 こうしたゲイカップルの前にピエロ姿をした“それ”が現れる。前作から見てみるとわかるが、“それ”が出現するのは、コミュニティから弾かれた人達だ。コミュニティから弾かれて、孤独の陥った人。人は孤独に陥ると“不安”を抱える。コンプレックスを抱える。そのコンプレックスに“それ”は巣喰う。
 “それ”がピエロの姿をしているのは、「道化恐怖症」あるいは「クラウン恐怖症」を元にしているから。アメリカではわりと普遍的に、「ピエロが怖い」という想いを抱く人は多いようだ(アメリカ以外にももちろんいる)。“それ”は映画中で示されているように、見る人によって実態が変わる存在。“それ”がもともとピエロの姿をしていたわけではなく、人々の不安感をベースにしているからあの姿になっている。
 逆に言うと、コンプレックスを持っていない人の前には、“それ”は姿を現さない。そもそも、何者の姿を持つことはない……からだ。
 ゲイカップルの前に現れたのは、ゲイは普遍的にゲイであることの疎外感やコンプレックスを抱えているから。そうした不安に反応して、“それ”は姿を獲得して、出現する。

 映画の中盤にも、とある子供が“それ”に襲われるシーンがある。なぜあの子供が襲われたのかというと、頬にアザがあるからだ。アザがあるから、なんとなく周りから疎外される人間になってしまったから。「ヘンだ」と周りから笑われる。そういう疎外感やコンプレックスを抱いていると、それを糧に“それ”が実体を持って、“食事”にやってきてしまう。

 前作、家庭環境が強烈な子供ほど、苛烈な恐怖体験をする……というふうに描かれていた。なぜそのように描かれるのかというと、“それ”が人間心理の暗部を糧に実体化する性質を持っているから。
 そうした子供は大きなコミュティから外され、孤立している。だからふらっといなくなっても、すぐには気付かれにくい。事件としてなかなか顕在化しない。
 “それ”はさらにより多くの人に心理攻撃を仕掛けている。第1作目の映像を見ても、大人達はテレビばかり見て、まるで白痴になっている。街で異常な事態が起きているのに、誰も騒がない。事件が起きても「認知外」の現象として処理されるようになっている。“それ”が人間心理に作用させる能力を持っていることがわかってくる。

 ちょっと映画本編から離れて、ディテールの話をしよう。
 お祭りのシーンには、可愛らしいビーバーの帽子が出てくる。ということは、大きな湖や川の近くということになる。そういえば、前作、川がよくでてたかな。
 もう一つ気付くのは、広場に置かれている巨人の像(映画の途中、恐怖シーンに登場してくる)。あの巨人はポール・バニヤンという像で、アメリカ開拓史時代に創造された伝説上の人物。生まれた時から8メートルの巨人で、成長してからは猛烈に働き、五大湖やミシシッピ川を作ったとされる。

 ということは、さてはアメリカ五大湖近くのお話だな……。

 見終えた後にメイン州の位置を検索してみたら正解だった。
 まあ、このあたりは原作を読んでいれば気付くでしょ、って話だけど。

 さて、27年が過ぎたあの少年達は……。
 意外といい大人になっている。みんないい職業に就いて、そこそこいい地位に就いている。
 ただ紅一点ベバリー・マーシュはDV男に悩まされている。問題のある父親に育てられると、なぜか似たような問題を抱える男と結婚してしまう……。よくある話だけど、そういうよくあるお話に陥っている。
 「ルーザーズ(負け犬)」だったはずが、全員まるごと「勝ち組」……。まあこれも人生だ。
 しかし、彼らは実は乗り越えていない子供時代のトラウマを抱えていて……。これが本作の大テーマとなっている。

 では次の25分を見てみよう。

 中華料理店に集まった6人は、かつての仲間達との再会を喜び、思い出話に華を咲かせるのだった。
 次第に街でかつて起きたことを話し合おうとするのだが――マイク・ハンロンを除いた5人はほとんど忘れていた。街にやって来た時、やっと「ペニー・ワイズ」の名前を思い出せた……というくらいだった。
 ところで、スタンリーはどうした? と話ながら何気なくフォーチュンクッキーを開くと……その中から「スタンリーは約束を果たしきれなかったようだ」というメッセージが出てくる。
 そこから奇怪な現象が起きる。“それ”はもうすでに覚醒していて、自分たちの側にいる!
 “それ”に対処するなんて無理だ。帰ろう。
 一同はそれぞれが泊まるホテルに向かう。しかし、ベバリーが思いがけないことを話す。
「みんなが死ぬところを見た」
 このまま何もしなければ、全員死亡する。
 一方、マイク・ハンロンはビル・デンブロウを連れて図書館を訪れるのだった。図書館の上階はマイクの住居兼研究所になっていた。そこでマイク・ハンロンは“それ”の起源について話す。
 はじまりはシャカピワー族の伝承だった。“それ”はある時、空から落ちてきた。それ以来、“それ”は何度も現れ、人々を密かに殺して食い、現代まで生き残ってきていた……。シャカピワー族は“それ”を封印するための儀式、“チュードの儀式”を編み出したのだった。

 次の25分は、物語作法的な展開だ。恐ろしい化け物と恐ろしい現象を目の当たりにして、子供時代のような勇気を持たない大人になった彼らは、「こりゃ無理だ」とそれぞれ逃げようとする。しかし、ベバリーはそこで「逃げると全員死ぬ」という予言を告げる。
 なぜこのような展開になったのか、というと「なぜ彼らはペニー・ワイズと戦う必要があるのか?」という動機付けをする必要があったから。
「別に俺たちが関わらなくてもいい。他の誰かがうまくやってくれるさ……」
 と考える彼らに、どうしてもその物語に参加させねばならない。さてどのようにすれば、彼らは事件を向き合うのか……というと「参加しなければ死ぬ」という未来を突きつける。さらにダメ押しとしてすでに一人死んでしまった実態を突きつける。こうすれば、どうあがいても事件と向き合わなければならなくなる。この辺りの手際の良さは、さすが売れっ子作家の原作。

 次の図書館のパートでは、“それ”の起源が語られる。
 「なぜいきなりSFになった?」と疑問に思う人もいたようだが、もともと“それ”の正体はこうだった。原作を読んでいない私ですら知っていた。
 もともと“それ”は宇宙からやってきた。“それ”は具体的な実態を持っていない代わりに、そこに住む人々の心理をベースに、人々がもっとも恐れる姿を持って出現し、狩りを始めた。開拓史時代以前の頃は、鷲や狼のような姿を借りて人々を襲っていたようだ。
 “それ”が人間を中心に襲うのは、人間が「意識」や「精神」、あるいは心理的な「イメージ」を思い描くことができる生き物だからだ。そういうことは人間以外にはできないし、“それ”はそういう心理を糧に実体を持つ性質を持っている。
 それがある時代を通り、“ピエロ”の姿に固定されていく。
 映画中のあるシーンで、ピエロとしての姿、“ペニー・ワイズ”の姿を持つようになった起源もちらっと描かれている。どうやら開拓史時代のピエロがペニー・ワイズだったようだ。ということは、ピエロの姿はその時代から人々に不安感を与えてきたようだ。

 余談だが、ヨーロッパでも中世の頃、たまにふらっと街に訪れる大道芸の笛吹きが恐れられていた。ドイツのハーメルン市に伝わる『ハーメルンの笛吹き』は有名だろう。なぜあの物語において「笛吹き」が忌まわしきもののように語られていたかというと、その時代、街の外からふらっとやってくる人間が忌まわしい事件や病気を持ってくると思われていて、どこからともなく現れて笛を吹く男はなんだかわからない漠然とした不安の対象だった。笛吹き男を「悪魔の手先」と語っている伝承も存在する。元になった事件(『ハーメルンの笛吹き』は実際に起きた事件が元になっている)はもしかすると中心人物は笛吹き男ではなかったかもしれないが、語り継がれるうちに笛吹き男の姿が固定されていくようになった。
 開拓史時代のピエロも、おそらくヨーロッパの笛吹き男のような、漠然とした不安の対象。一時の楽しみを与えてくれるが、なぜか人を不安にさせる。どことなく得体が知れない。どこからやってきたかわからない、謎の男……。そんなふうに楽しみと同時に恐れられていたのだろう。

 “それ”は「チュードの儀式」によって封印することが可能らしい。
 どうしてここで「儀式」すなわち「おまじない」が出てくるのか。現代人は「儀式」による心理的影響というのを軽く見ている。人は儀式によって現実を一時的に遠ざけ、神がかり状態になることができる。そうした状態にするために、儀式を行う。儀式に霊的な何かがあるとはいわない。が、人間に及ぼす作用は非常に大きい。
 人間は「おまじない」に簡単に騙されやすい性質を持っているのだ。その騙されやすさを利用したものが「儀式」といえなくもない。
 どうして古代人はチュードの儀式を行ったのか。わざわざ「儀式」という形にしなければならなかった理由は……?
 それがオチに絡んでくる。“それ”を封じるためには、ある状態を“信じ”なければならないからだ。なぜなら“それ”は人間心理の暗部をベースに実体化する性質を持っているから。“それ”が巨大で、恐ろしいものだ……と信じれば巨大で恐ろしいものになる。
 だが儀式を経て、「小さくて大したものではない」と信じれば……。
 この辺りは、結末を見てのお楽しみだ。

 ところで、ここまでの話でなんとまだ前半50分。普通の映画だったら、とっくに後半に向けてお話が進んでいるところだ。登場人物達の動機付け、戦うべき相手が何者か、という話を済ませたところでまだ50分。長尺映画はいろいろ大変だ。

 ここからはネタバレを防ぐためにも箇条書きで語ろう。

 ベン・ハンスコムが作ったかつての秘密の地下室へ向かう。
 そこで“少年時代の思い出”を集めることになる。
 ベバリー・マーシュはかつての自宅へ行き、そこで絵はがきを入手する。
 リッチー・トージアは廃墟になっているゲームセンターへ入り、メダルを手に入れる。
 ビル・デンブロウは子供時代の自転車を手に入れて、弟が持っていた船を手に入れる。
 ベン・ハンスコムは学校へ行き、ベバリーのサインを手に入れる。
 それぞれの思い出の品を手にれたところで、ビル・デンブロウは中華料理店で会った子供が危ないことに気付き、救出へ向かう。
 廃墟に全員が集合。ペニー・ワイズこと“それ”の根城へ侵入する。

 ここまでの内容で1時間50分ほど。ここから“それ”との対決となるクライマックスシーンが50分にわたって展開する。

 大人になった一同は、子供時代に遭遇した恐怖体験のほとんどを忘れている。なぜならこれも“それ”がもたらす作用だから。
 前作、大人達がテレビを見ながら白痴のようになっていたのは、“それ”に洗脳されていたから。子供たちがどんどん行方不明になっているのに、感心すら持てなくなっている。主人公達一同も、そうした影響下に晒され、頑張って「思い出そう」としなければ、忘れてしまいそうな状態になっている。
(“それ”が根城にしている廃墟だが、なぜあんなあからさまに危ない建築が放置され続けたのか……というと、これも人々の認知外にされているから。みんなそこにそんな廃墟があることをぼんやり認識しつつも、それをどうにかしようという発想を喪っている。これも“それ”がもたらす作用)
 そこで主人公達一同は、「子供時代の思い出の品」を集めることにする。なぜ子供時代の思い出を集めるのか、というと彼らは立派な大人になったように思えるが、実はみんな子供時代の体験をずっと引きずっている。「大人になりきれない大人」だ。実際、大人になっても子供だ時代のトラウマは案外引きずる。色んな局面でふわっと思い出す。子供時代のトラウマからはなかなか逃れられないものだ。
 “それ”はコンプレックスやトラウマに巣喰い、実体を持つ……というのはこれまで書いてきたとおり。だからこそ、あえて自分からそれぞれのトラウマの根源と向き合おう……と。そうすることで、“それ”と向き合う姿勢が生まれる。
 ただし、過去の思い出に向き合おうとすれば、トラウマも同時に思い出してしまう。するとトラウマに作用して化け物が出現してしまう。思い出の品を集めようとして、化け物と遭遇してしまうのはそのため。

 様々な紆余曲折を経て、“それ”がやってきた根源へと戻り、みんなが集めた思い出の品を燃やそうとする。これは心理カウンセラー的な展開で、自分たちの思い出を焼却し、乗り越えよう……と。トラウマと紐付いている思い出を焼くことで、少年時代、少女時代のトラウマを乗り越え、今度こそ本当の大人になろう……とそういう意味のある展開だ。心理カウンセラー的な発想で描かれているが、それこそまさに“それ”を倒すために必要なプロセス。またこれこそチュードの儀式の本体であった。
 しかし思い出の品を焼いたところで、ただちにトラウマを乗り越えられるかというと、そういうわけにはいかず。“それ”に襲われて大騒ぎ……という一幕を経て、ようやく“それ”が自分たちの心に巣喰う化け物であって、「アイツはでかい!」と思えば巨大になるし、「アイツは小さい」と思えば小さくなる。そういうものであるという発見に至って、ついに打倒する。
 “それ”と向き合うこと、それは即ち“大人になること”。『IT』が「子供編」と「大人編」に分割して作られているのはそういう意図がある。
 クライマックスシーンで、“それ”は不思議な一言を呟く。
「大人になったな」
 これは作り手の言葉。作り手の本音が出ちゃったんだろうね……。
 あの一言が出てきたということは、“それ”ことペニー・ワイズの精神がどこかにまだ残っていたのかもしれない。実は「子供を喰う」存在ではなく、「子供を喜ばせたい」というピエロとしての精神が、あの台詞を言わせたのかも知れない……。

 こうして完結編を見ると、前編で語られていなかったところ、謎めいていたことがすべて明晰にわかってくる。前編『IT』の恐怖シーンはどこか不思議だし、シュールで、時に笑えるものだった。どうしてあんな描かれ方をしているのだろう……というと、“それ”がゴーストでもなければ、モンスターでもないから。飽くまでも人の精神に巣喰い、それぞれのトラウマに合わせた実像を持つ……そういう存在だったから。
 改めて観ると、恐怖シーンがどれも独創性に富んでいて、この作品ならでは、というイメージが作られている。既視感のない不思議なシーンの連続は、見ていて楽しいものだった。

まさかの「完全一致」

 ただ、ベバリーのアパートに出てきたババアだけは笑ってしまった。「作/漫☆画太郎か!」って。どう見ても漫☆画太郎作画のババアが飛び出して、「マジかよ」と笑ってしまった。もしかしたら、あそこで笑っちゃうのは、漫☆画太郎作品を知っている日本人だからかもしれないけど。
 ベバリーのアパートのシーンでは、どうやらペニー・ワイズの起源らしきものが語られる。ベバリーの父親と、ペニー・ワイズの父親を掛けたシーン作りだったのだろう。

 こうやって見てみると、だんだん“賛否両論”となった理由が見えてくる。
 まず上映時間がおそろしく長いこと。この内容で2時間50分。確かに「ちょっと長いな……」と思ってしまう。
 なぜ長く感じるのか……というと単純に登場人物の多さ。6(+1)人。前半の、6人それぞれの紹介をして、集まってくるまでの展開でいきなり25分消費してしまっている。
 集合し、“それ”が復活しましたよ~という報告を受け、次にそれぞれの思い出を集めるシーンへ進むのだが、6人それぞれのシーンを掘り下げ、6人それぞれで化け物に襲われるシーンを一つ一つ丁寧に描く。ここで長く感じられてしまう。
(登場人物集合まで25分、中華料理店&儀式の話を終えるところまでで50分、次の思い出を集めるエピソードを終えたところで1時間50分)
 かといって、手抜きするわけには行かない。省略すると「なんでこいつは化け物に襲われなかったんだ」ってなる。化け物が登場しないと、印象に残らなくなってしまう。
 また、途中1時間がっつりこのエピソードだから、予定調和的に感じられてしまう(その予定調和的展開を回避するために、中ボス的存在のキャラが置かれている)。それぞれのシーンはしっかりと作り込んでいるのに、時間が長すぎてダレるのと、展開が見えているせいで飽きてしまう。
 かといって、シーンをショートカットするわけにはいかない。
 この辺り、構成がちょっと「テレビドラマ的」にも感じられた。映画だったらサクッとカットするところ。こういうところでも、「映画のドラマシリーズ化」現象の1つなのかもしれない。

 もう一つは、後編に入り、“それ”の神秘性を喪ってしまったこと。前編の時は、“それ”はなんなのかわからず、謎めいた存在だった。謎めいた存在だから神秘性に溢れている。神秘性をまとっていると、化け物であっても魅力的に映る。
 でも後編は、“それ”がそもそも何者だったのか――を追求するストーリーだ。“それ”の正体が明かされ、剥離されていく。最終的には“大人として”“それ”と向き合う。子供時代はトラウマがものすごく大きなものに感じられる。子供時代は色んなものに不安や恐怖を感じる。だからこそ、“それ”は子供の心理に巣喰う。子供こそ強烈な不安を抱くから、“それ”はより強力な存在として出現する。
(そもそもなぜ“それ”がピエロの姿をしていたのか……というと、“子供のトラウマ”をベースにしていたから。子供の多くがピエロの恐怖感を抱く。そういうところから、あの姿が決められている)
 しかし大人になると、子供時代のトラウマは小さなものと認識される。大人になっても逃れられないトラウマというものはあるのだけど、それを“焼き払って”浄化するという展開が本編の大部分になっている。そういうプロセスを経ると、“それ”は巨大な存在として実体化できなくなる。

 “それ”と対決するためには大人にならなくてはならない。しかしほとんどの大人は、“それ”の洗脳を受けて事件が起きているのに無関心になっていく。“それ”を打倒するのは、かつて“それと闘った経験のある子供”でなければならない。“それ”との決着を描くためには、子供編に続く大人編を描かなければならなかった。
 でもそれをやると“それ”がまとっていた神秘性が喪われていって、「なんだか残念」という感じになってしまう。子供の頃「凄い!」と思っていたものが、大人になって振り返ると大したものじゃなかった……みたいな現象を描かなくてはならないからだ。
 で、その現象をまさに描いたから、「なーんだ」という印象を持ってしまう。見ている側に“幼年期の終わり”を疑似体験させてしまう。この作品が描こうとしたことを体験して、「面白くなかった」という印象にさせてしまう。むしろこの作品が面白くなかった……と感じた人は、狙い通り……だったのかもしれない。


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