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映画感想 MEN 同じ顔の男たち

 だいたいの男は同じ顔をしている。

 久しぶりにちょっと「クセものホラー」です。『MEN 同じ顔の男たち』は2022年公開のホラー映画。アメリカ映画だが、舞台となっているのはイギリス。監督・脚本はアレックス・ガーランド。アレックスは小説家としてキャリアをスタートさせ、映画にもなった『ザ・ビーチ』の原作小説を執筆している。その後『28日後…』の脚本で映画の仕事に関わるようになり、『わたしを離さないで』『ジャッジドレッド』などの脚本でキャリアを積み、2105年『エクス・マキナ』で監督デビュー。ついでにアカデミー賞オリジナル脚本賞、英国アカデミー賞優秀英国映画賞を受賞した。
 今作の製作を請け負ったのはA24。ハリウッドの中でも異色作を取り扱うインディペンデント系映画会社である。『LAMB/ラム』『X』『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』『ボーはおそれている』など、一見すると「なんだこりゃ?」と言いたくなるような、“一見さんお断り”な作品ばかり製作する会社である。
 制作費は明らかになっていない。興行収入は1100万ドルと控えめ。
 “一見さんお断り”のA24作品らしく、本作の評価は真っ二つに分かれていて、映画批評集積サイトRotten tomatoを見ると、批評家のレビューが266件あり、肯定評価が69%。オーディエンススコアが40%となっている。日本国内のレビューを見ても、極端なくらい好き/嫌いがぱっきり分かれる作品。あまり多弁ではない作品なので、そこで好き勝手解釈して面白がれる人からの評価は高い。一方、答えを提示してほしい観客からは徹底的に嫌われている。見る人の心構え次第で評価が分かれてしまう作品だ。
 実際、“一筋縄ではいかない”タイプの作品。“わかりやすいホラー”を求めてみると、「なんだこりゃ?」となる。怖い・怖くない以前に「なんだこりゃ?」が先に来ちゃう作品。見る前に心の準備をしておいてほしい作品だ。

 では前半のストーリーを見ていこう。


 ハーパーは一人でイギリスのとある田舎を訪ねていた。目的地は小洒落たカントリーハウスだ。その敷地内に入ると、庭にリンゴの木が立っている。ハーパーはそのリンゴを一つつまんで食べる。
 家のドアを叩くと、ジェフリーが出てきた。
「どうもこんにちわ。マーロウ夫人。地獄のドライブだった? M4はかつて最低の高速道路と言われていたんですよ」
 ジェフリーはこの家の大家だった。ハーパーはこの家に数日間宿泊する予定だった。ジェフリーは家の中を紹介して回り、それから、
「ところで……お一人ですか? ご主人は?」
「そうですけど……」
「マーロウ夫人?」
「あ、違うんです。まだ戻してなくて……。名字も」
 それでジェフリーは納得したように頷いた。
 すこし“離婚”をほのめかしたハーパーだったが……本当は違っていた。ハーパーは着替えを入れたトランクを開けながら、ふっとあのできごとを思い出す。
 夫……だった人と激しい喧嘩をしたこと。ジェームズとの夫婦生活はうまくいかなかった。1年目を過ぎた頃から喧嘩ばかり。そのうちにもジェームズは自殺をほのめかすようになっていた。
 気分を入れ替えようと、ハーパーは外に出て、田舎の道を歩いて行く。そうしているうちに、森の中へと入っていく。森の奥深くに入っていくと、なぜか行く手にトンネルが現れる。ハーパーはトンネルに入っていき、自分の声が木霊になって返ってくるのを楽しむ。
 トンネルの中をしばらく探検していたが……トンネルの向こうに、ふっと人影があることに気付く。なんだか不穏な気配だ。人影はこっちを見て……向かってきた。
 逃げよう。ハーパーはトンネルを出て、道をまっすぐに進んでいく。そのまま道に迷ってしまい、廃墟に出てしまう。まだ何者かの気配がする。ハーパーは廃墟の向こうへと走っていく。するとその先は、一面の野原だった。
 ああ、もう安心だ。振り返ると、森の中に佇む廃墟があった。美しい風景だ……そう思って写真を1枚撮るが――その写真に、奇妙な男が写り込んでいることに気付く。何か嫌な気配を感じたハーパーは、その場を急いで去って行く。


 ここまででざっくり25分。
 今回はネタバレ無しと、ネタバレ有りで解説をしていきましょう。
 まずネタバレなしパート。

 ハーパーはなぜ田舎にやってきたのか? それは夫のジェームズと激しい喧嘩をしてしまったから。

ジェームズ「君と離婚したいわけじゃない。君のこの1年間の僕への態度と別れたいんだ」

 この場面、二人の話し方に注意して見てもらいたいが、ジェームズは一貫して感情的、相手の情緒に訴えかけようとしている。一方、ハーパーはそれを受けて理性的に返そうとする。情緒的な性格のジェームズと、その情緒を理解できないハーパー……という関係性になっている。
 そのうちにもジェームズは「自殺してやる」と言い始める。君のせいで僕は死ぬんだ。君は僕を殺した、と自分をずっと責めて生きていくんだ……。
 うん、最低だよね。相手の気の引き方としては最低。でも……私もこういうところあるな……。「僕のことを理解してくれよ」「僕のことを受け入れてよ」「受け入れてくれないんだったら首つってやる」……我が身を見るようで、妙に居心地悪くなってしまう。
 僕の情緒を受け入れて欲しい……というジェームズに対し、理性的なハーパーは理性的ゆえにジェームズの言っていることがわからず、苛立ってしまう。おかげで口論は妥協点を見いだせず平行線。

 あるとき、ハーパーは我慢の限界に来て、ジェームズを罵倒し、家から追い出してしまう。その直後――ジェームズは身を投げてしまう。その時、ハーパーは窓際にいて、落下していくジェームズと目線が合ってしまう……。これでハーパーは“呪い”を受けてしまう。

 夫の自殺を目撃してしまう。しかもその切っ掛けを自分で作ってしまう。ハーパーは耐えがたいストレスを感じ、逃げるようにイギリスの田舎へとやってくる。やってきた場所はロンドンの北西、グルスターシャー州。なかなか雰囲気のいい田舎だ。こういうところ、旅行で行きたいなぁ……。

 田舎の別荘に数日泊まって、傷心を癒やそう……という旅だった。が、ハーパーは別荘にやってきて、庭に生えていたリンゴをかじる。もちろん旧約聖書モチーフ。エデンに生えている禁断のリンゴが元ネタ。「ハーパーは罪を背負っている」……ということの暗喩。

 ところが村には男しかおらず、しかも男たちは全員同じ顔。演じているのはロリー・キニアで、この映画に登場するほぼすべての男性を演じている。パブにやってくるシーンがあるが、全員が同じ顔をしている。
 監督のインタビューを見ると、「ハーパーは男はみんな同じようなもの」と捉えているから……と語られている。男はみんな似たようなもの……とハーパーが解釈したとおりの情景になっていて、男はどうせ同じようなものだから、同じ顔をしている男がそこら中にいても気にならない。
 ふとするとコメディになりかねない描写なのだけど、実際の映像を見ると違和感がなかったというか……。確かに同じ顔の男がポンポンと出てくるのだけど、同じ顔であることがさほど気にならないというか、そういえば映画に出てくるオッサンの顔ってどれも似たようなものに見えるよなぁ……。オッサンって、髪型と服装が違うだけでみんな同じ人間に見えてしまう。
 そこでロリー・キニアのオッサン顔が絶妙で、見事なまでの「どこにでもいるオッサン顔」。この顔の人が別の映画に出ていたとしても気にならないし、気付かない。テンプレート・オッサン顔。金太郎飴オッサン顔。ただ、あまりにもテンプレートなオッサン顔なので、同じ顔のオッサンが何人もいても引っかからなすぎるっていうのが……。

 お洒落な別荘だけど、家の中にいると夫との出来事ばかり思い出して、気分が重い。それで田舎の自然でも見に行こう……と外に出るハーパー。
 はい、もう“異変”が始まってます。“俗界”から離れてしまっている。理性的な世界観から、観念の世界観に入ってきています。途中、「浮遊するタンポポ」を意味深に見せているのも、この場所がすでに異界だということの示唆。

 森の奥深くに入っていくと、なぜかトンネル……。
 トンネル! もうおわかりですね。創作の世界で“トンネル”といえば、現界と異界の境界。この世とあの世の境界線。
 そんなトンネルの中で、ハーパーは「ハーパー!」と自分の名前が木霊になって返ってくるのを楽しむ。ここで自分の名前で遊ぶ……というのが一つのポイントで、このお話はずっとハーパー自身の意識のお話し。ハーパーはある意味、あの世とこの世の境界線で、自分の意識がえんえんリファレンスしている中でもがいている……という状況だと言える。

 するとトンネルのずっと向こう側で……小さな影がすっくと立ち上がる。
 トンネルが現界と異界の境界で、その向こう側にいる……おわかりだと思うが、“死者”である。この作品で死んだ人と言えば……もう正体はわかったよね。

 誰かいた。なんか嫌な雰囲気だ。ハーパーは走って逃げ出す。しかし辿り着いたのはやはりトンネルで、しかも入り口は塞がれていた。これはハーパーにもう逃げ場がないことを示している。トンネルの中に入るか、留まるか。

 さらに進むと、今度は廃墟。これもハーパーの心境を表している。ハーパーの心層はいま廃墟のように荒廃して虚ろ……。ユングの深層心理的な描写だ。すでに書いたように、ここは観念の世界。ハーパーの内面世界が描かれている。
 そんな廃墟に、男の影……。ハーパーが受けている呪いを現している。

 ネタバレなしパートの最後にこれを取り上げておきましょう。
 こいつは「シーラ・ナ・ギグ」と呼ばれるもので、イギリス・アイルランドの古い教会などで見ることができる。女性の外陰部を広げて見せている像だ。ただ、どういったものなのか、なぜ作られたのかはまったく不明。名前にしても「シーナ」が老婆のことで、「ギグ」が性器の意味だろう……“だろう”というくらいなので、実は名前の意味すらよくわかってない。
 一般的に「ヨーロッパといえばキリスト教」というイメージがあるが、遙か昔からそうだったわけではなく、ヨーロッパにはキリスト教以前の土着的な宗教というものがそれぞれの土地にあった。しかし歴史を通じてこれらの宗教は破壊され、キリスト教に改宗させられ、あるいは融合していった。例えばキリスト教会といえばアーチ建築だが、そのアーチをよく見ると樹木を思わせる装飾が一杯施されている。これはゲルマン民族の樹木信仰が原型で、その宗教観と融合したことを現している。教会にやたらいるガーゴイルも、もともとはヨーロッパに広がる土着的な宗教観の産物だった(ガーゴイルは聖書に登場するキャラクターではない)。
 ヨーロッパの古い建築を調べると、こんなふうにキリスト教以前の宗教観の痕跡を山ほど見ることができる。しかしこれらの宗教観はことごとく破壊されてしまったし、文字文化は基本的にキリスト教史観でしか語られなかったから、ほとんどが現在「よくわからないもの」となってしまっている。「シーラ・ナ・ギグ」もそういう「わからなくなってしまった」ものの一つ。なにか宗教的な意味があったのか、それともスケベな石工がイタズラで作った物なのか……それすらよくわかってない。

 シーラ・ナ・ギグとともに、作中繰り返し出てくるのが「グリーンマン」。これまた「謎の石像」で、ヨーロッパの古い建築のなかにぽつぽつと出てくる。葉っぱを仮面にしている男性の顔……ということで「グリーンマン」と名付けられたが、これが元々なんだったのか、なんのために作られていたのか、まったくの不明。おそらくはケルト民族の樹木信仰が原型になっているんじゃないか……と言われているが、そういう仮説があるだけで具体的なことは何一つわかっていない。

 映画の中ではシーラ・ナ・ギグとグリーンマンが表裏一体、コインの裏表みたいな関係性として描かれている。なぜなのか? 映画の中では説明的な台詞が一切ないが……。

 はい、ここからネタバレパートです。結末まで解説しているので、本編見ていない人は読まないように!

 別荘生活2日目。ハーパーはこんな感じの、微妙にダサいワンピースを着ている。
 このワンピースの意味だけはよくわからなかった……。監督のインタビューを見ても、特に言及されていない。ただ、この衣装のおかげで、これから起きる出来事が妙に儀式っぽく感じられる。アリ・アスター監督の『ミッドサマー』のようなものが意識されているのかも知れない。

 ピアノを演奏しているが、前日のシーンではハーパーは「ピアノは弾けない」と話していた。「ピアノは弾けない」というのが本来の脚本だったが、撮影の休憩中に女優さんが弾いている姿を見て、この場面を撮影することになった……ということのようだ。このシーンを入れることで、男性には真実の姿を見せない(本音を語らない)……という主人公の性格が読み取れるようになっている。

 田舎の自然の中にいても、憂鬱な気分は晴れない。ハーパーは村の教会にやってくることにした。信徒席に座り、ハーパーは自分の“罪”を思い出す。ある意味、観客に向けた“告解”である。
 この礼拝堂の“形”をよく覚えておいて欲しい。

 さてその礼拝堂。信徒席の先頭に、グリーンマンが彫られた彫像が置かれている。なぜキリスト教会に……? これもすでに話したように、ヨーロッパでは地方へ行くほど、その土地で信仰されていたであろう土着的な宗教観の残滓が残されている。そういう謎宗教とキリスト教が合体している状態だ。

 このグリーンマンの反対側に、シーラ・ナ・ギグが掘られている。彫像を見せるときは、必ず2つをワンセットにして描かれる。教会のシーンを見ると、しつこいくらいに、ハーパーと彫像を関連付けさせた構図になる。このカットでは、裏面のシーラ・ナ・ギグとハーパーが同時に映っている。

 教会でのやりとりの後、鹿の死骸が出てくる。ここでちょうど50分前後。全体で100分の映画なので、中間地点。映画の中間地点では必ず重要な何かが起こります。
 この映画では鹿の死体。これが何を意味するのか、見ていきましょう。
 この鹿の死体に、タンポポの種が入っていく。すると間もなく、鹿の死骸に草花が芽吹き始め、ウジ虫も沸く。鹿の死体が、新たな生命の糧になった……という様子を描いている。
 タンポポの種は、映画の最初の場面にも登場する。生命の種、あるいは「精子」を現している。
 もう少し、この場面の「カット配列」を見ていきましょう。
 まず鹿の死体が出てきて、タンポポの種が入っていく。次にグリーンマン、シーラ・ナ・ギグの彫像が出てきて、それから草花が芽吹いた鹿……という流れになっている。これを素直に読むと、グリーンマンが生命の種を受け入れ、シーラ・ナ・ギグが新たな生命を生み出した……と読み取れる。グリーンマンの口が入り口で、シーラ・ナ・ギグの女陰が出口だ。

 それに続いて出てくるのがこちらのカット。裸の男が奇妙な場所にいる。
 どこ、ここ? という感じだが、場所の“形”をよく見てもらいたい。先ほど見た礼拝堂と同じ形をしている。礼拝堂の彫像が置かれていた場所に、男性が座っている。男性の周囲には花が芽吹いている(たぶん礼拝堂に飾られていた花と同じもの)。背景をよーくみると筋のようなものが入っているが、これが5本。礼拝堂の画像と見比べると、5枚のステンドグラスが飾られている。この男性こそ、グリーンマンの化身。礼拝堂と同じ形をしているこの場所は、儀式の場所……と推測できる。

 パブのシーンを挟んで、いよいよ異変が起きます。庭のリンゴが一斉に落ちる。女性が抱えている罪が強調される。と同時に、草木が死を迎えていることが示唆される。

 奇妙な現象が一通り起きた後、ジェフリーが尋ねてくる。しかしライトがパッと消えて、パッと点灯すると……ジェフリーはフルチン男に入れ替わっている。
 フルチン男はふわーとタンポポの種を吹き付ける。そのタンポポの種の一つが、ハーパーの口の中へと入っていく。
 映画の途中、鹿の死体の中に入ったタンポポの種と同じ現象が起きようとしている。
 タンポポの種を飲み込んだハーパーは、妙にフワフワした心地になって、家の中へと入っていく。トランス状態に入ったのだ。
 おそらくはこのやりとりが、この地域に伝わる儀式的な何かだったのだろう。ハーパーが微妙にダサいワンピースを着ているが、これも儀式に関連付けられた衣装のように見せかけているのだろう。

 この後、フルチン男の腕を二つに切り裂くという、気持ち悪いシーンが入る。これがなんなのかというと……飛び降り自殺したジェームズの状態を再現しようとしている。
 さらにこの後、村の男たちが次々と現れるが、みんな同じように腕が裂けている……。これはなんなのかというと、村の男たちはそもそも同一人物だったから。“同じに見える”ではなく、同じ人物。で、村には男しかいない。そこにたまたまやってきた女であるハーパーが、儀式に参加させられている。

 家の中に次々とやってくる男を包丁で刺して、脱出するハーパー。この場面、なぜか3度もリファレンスする。
 リファレンスのモチーフは作品の中に何度もあって、例えばトンネルの中で自分の名前を木霊にして遊ぶ場面もそう。この場面の直前、走って逃げるハーパーが出てくるが、その場面を見るとすべて後ろ姿、3カットも続く。そういえばこの村には同じ顔の男たち……これもリファレンスといえる。
 ハーパーはこの体験を、同時に何度も体験している。もしかすると、別の男……というシチュエーションで。映画の中で描かれているのは、トランス状態に入って意識が混濁しているハーパーの体験そのものが描かれているので、あえて混乱した状態が描写される。

 ジェフリーが車を奪って去っていった直後、ハーパーは空を眺める。なんだか奇妙な星空……。この星空が、今まさにハーパーが異世界にいる……ということが示されている。ハーパーはいつの間にか、「トンネルの向こう側」に行ってしまっていたのだ。

 ふたたびフルチン男が登場。その顔がまさにグリーンマンとなっている。鹿の死骸が草花一杯になって新たな生命となったように、グリーンマンはこれから“何か”を生み出す。
 ここが映画の中でもっともグロテスクなシーンなんだが……不思議なことにハーパーは見ているうちに冷めていく。ホラー映画ではこういう場面、女優さんはパニックになって叫ぶのだけど、この映画の場合は逆。どんどん冷静になっていく様子が描かれていく。
 というのも、生み出されているものがだんだん“弱く”なっていくから。グロテスクな場面も、何度も繰り返されるうちに慣れる。ハーパーは理性的な性格だから、だんだん生み出されているモノが恐ろしくない……と察するようになる。

 その結果……とうとう男たちの中からジェームズが生まれた。
 なぜジェームズが生まれたのか? ハーパーはずっとジェームズに呪われている状態だった。何をしていても、ハーパーの意識はジェームズに捕らわれていた。グリーンマンはハーパーに魔術をかけたわけだが、その結果、ハーパーの意識に引っかかっていたジェームズを生み出してしまった。
 そのジェームズと、対話する。
「ジェームズ。私に何を求めているの?」
「愛だよ」
「そっか」
 ああ、そうか。ジェームズは私から愛されたかったのか。愛されたくて、怒鳴ったり、暴力を振るったりしていたのか。ハーパーはやっとそのことを理解する。

 では最後のシーンを見ていきましょう。

 ジェームズの最後の台詞を聞いた後のハーパーの顔が……

 まるで“憑きもの”が晴れたような笑顔に変わる。事実、あれでハーパーが背負っていた“呪い”は晴れたわけだ。ジェームズの死を受け入れることができた。頭のサイズがほぼ一緒に撮られているのも、狙って撮ったものでしょう。
 この笑顔を最後に終わる。

 映画の解説はここまで。ここからは感想文。
 A24のホラー映画……やはりというか、かなりの「クセもの映画」だった。いろんな奇妙なモチーフが出てくるのに、それらのモチーフの意味について映画中では一切語られない。それ以前に、グリーンマンも、シーラ・ナ・ギグも、なんなのかよくわかってないので説明のしようがない。説明しないかわりに、映像だけで描写されていく。重要なシーンが、鹿の死骸シーン。あそこで「これから、こういうことが起こります」と説明されている。単なる「雰囲気」だけで描写されたシーンじゃないんですよ。
 それで結局、作品が描きたかったのは普遍的な男と女の話。男はなぜ女に暴力を振るうのか? なぜやたらとマウントを取りたがるのか? 愛されたいからだ。褒められたいからだ。「すごい」って言ってもらいたい。女にチヤホヤされたい。男は自尊心を失うと、精神的に不安定になる生き物だから。しかし男は、そういう自分の心理を体系たてて語ることができず、ただ表現として暴力が出てくる。あまり語られない話だが、男性は潜在的にメンヘラ気質を持っているのだ。
 女のメンヘラに対し、男のメンヘラは少ない……とよく言われがちだが、これは嘘。男のメンヘラなんて、どこにでもいる。男中心社会だから、見えづらくなっているだけ。

途中に出てくるオッサン顔の少年。「一緒に遊んでよ」「なんで遊んでくれないんだよ」「遊んでくれないのか……クソ女」。……少年であっても男は男。自分を受け入れてくれない女はみんなクソ。男はみんな一緒なのだ。

 しかし女性からすると「ウゼーよ」の一言で片付けられる。「いや、だったらこっちのことも先に愛してくれよ。なんでお前は自分が主人公のつもりなんだよ。私は脇役か?」……というのが女性側の意見。女性側の心理もよく描けている。
 結局、お互い様。
 マウントの取り合い、意地の張り合いで、精神的に弱いほうから折れていく。この映画の場合、ジェームズが弱かった。ハーパーは強かったから生き残ることができた。
 映画の前半部分、あたかも「ヒーリングビデオ」のように描かれ、後半、ホラーらしいグロテスクな展開へと入っていく。でも実は一貫してハーパーの「心の回復」が作品のテーマ。作品のテーマが少しずつ重くなっていくのは、ハーパーの内面に入っていくから。村の男たちは、ハーパーが引っかかっている“男”のイメージが投影されている。だからみんな同じ顔。その男のイメージをどんどん突き詰めていくと、自殺した夫ジェームズが出てくる。ジェームズの死を忘却したり否定したりするのではなく、受け入れることができた……だから最後には憑きものの晴れた顔になって終わる。あれで一応、ハーパーは心理的な回復を達成させられたわけだ。
 なんにしても、人間心理をよく観察している。男だけの視点ではなく、女だけの視点でもなく、両方がどんな意識であるのかを描いている。深い洞察があってこその作品。しかし監督は男だから、男側から「男ってこういう情けない生き物だよ」……という独白が最終的なメッセージとなっている。たぶん監督自身の中に、ジェームズのようなメンヘラ男の属性があることに気付いたから、この作品があったのだろう。
「私に何を求めているの?」
「愛だよ」
 男ってこういうもんだよ。わかってください……。それが最後の台詞に込められている。

 で、この映画を見ていて私が思ったのは……ああ、田舎行きたいなぁ……。どこかの別荘を借りて、数日間ひたすらゴロゴロする生活をしたいなぁ……だった。うん、映画の感想文ですらないね。でも、そういう気分を描いた作品じゃないかな、という気がした。なぜなら、一人の女性の精神的な回復を描いた作品だから。


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