とんちゃん

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最近の記事

2022/2/23

自分が絵を描く動機について。 これはとても複合的なことだが、一つの断面を切り出して思い直してみると、記憶にとどめたいという願望がある。 これは、ある景色や現象を目の前にしたときに、とっさにシャッターをきるカメラマンの衝動に近いかもしれない。 ただし、絵画は極端にそのシャッタースピードがおそいので、絵を支持体に焼き付けるまでにいろいろと考えてしまうが、もっとシンプルに考えていいのかもしれない。 何か、心をグッとつかまれる経験をすると、その記憶を形にしてとどめておきたいと

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      これまで自分の制作に関して、他人に説明するのが難しかった。それは一見して衝動的であり、とりとめもないものの連続に見えるし、そのような部分もなくはない。 しかし自分の中には何か、もやもやとした一貫性のようなものはあって、それをかたちをもって説明することができずにいて、これまでは「土着的なもの」という言葉で表現していたが、いまは「土地の肌理」という言葉の方がしっくりくる。 土地の、細部やディテールが現れているものを見ると、自分は感動する。この言葉だと、土地の壁の肌理、野の仏、

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        絵を描く行為が自分にとってどんな感じで進んでいくか、明瞭に語れるようになりたい。芸術家の神秘の技とかそういうのではなく、できるだけ簡単な言葉で。 料理に例えたらどうだろうか?レシピがあって、そのレシピどおりに材料を選び、加工していくのが王道かもしれないが、自分の絵を描く感じはこれとはちょっと違う。 どちらかというと、スーパーで安く手に入った食材があったり、冷蔵庫の中にあまったものがあって、それを使おうとまず切ってみる。切りながら、これに合うものは何か?スープか?炒めものか

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          昨日モンドリアン展を見た。 作品点数と関連作品が少なくて、展示の構成には少し拍子抜けしたところがあったが、それでも依然としてモンドリアンの作品自体は素晴らしかった。 とくに晩年のコンポジションシリーズを、間近に見れたことには感動した。 白、黒、黄、赤、青とグレーによって構成されたその絵画は、それぞれの色面を黒の格子状の帯が分け隔てられており、それぞれが独自に発光しているようにも見える。 図版やウェブ画像だと、ただの絵の具の塗り分け程度に見えなくもないその色面は、しっか

          4/20

          古絵馬の、あの表面のリアリティはなんなのだろうか。 たんに雨風による経年変化が及ぼした年季とか、味わいとかと、一言では表現しつくせないあの儚げな、朦朧とした像の存在感は何だろうか。 古絵馬の表面の表情の形成過程とは、意識的な筆致で描かれた絵を、自然が溶かし出してその秩序の中に、ふただび招き入れることのようにも感じられる。 これは、幽霊や妖怪の気配のような、半分自然に身をかえしたものにも通じるものだ。 自然物が、自然の中にあって経年をへても、それはもともと自然の中にあっ

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          きのう見たテレビの番組で、小学生の学習道具をタブレットにするのはどうなのか?というテーマで話していて、少し思うところがあった。 要は、学習教材をすべて電子化し、紙のノートなども使わずにタブレット一枚に簡略化するということだが、これに対して反対の意見の論者は、日本の伝統文化や、漢字文化の継承を訴えていたが、それだけだと断片的で、あまり共感できなかった。 自分もすべて電子化するのには反対なのだが、日本の文字文化の質を維持するために必要だと思うのではなく、もっとフィジカルな学習

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          絵を描くということはどういうことか? 自分とっては、いくつかの要因が複雑に重なりあっている。 単に自分の能力の問題で、小さい頃から得意だったということ。美術の分野に進学し、造詣が深くなったこと。 自発的な部分もあれば、何かの因果で流されてきただけの部分もある。 とはいうものの、今は大半の時間を絵に費やしている自分がいるのも事実で、心底絵に惚れ込んでいる部分もある。 しかしその惚れ込んでいる理由を合理的に説明しようとすると、いつも失敗する。 対外的な説明のために、美

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          先日、郡上一揆という映画を見て、思うことがあった。 この映画は、実際に起きた一揆をテーマとしており、一揆を起こした百姓たちの必死の姿もさることながら、映画のつくりとしても見応えがあった。 そして百姓たちの、同志や村に対しての忠義心には心をうたれるものがあったのだが、この気持ちを、そっくりそのまま受け止めていいのか疑問に思った。 というのも、昔は一揆をするのは命がけで、中でも駕籠訴(幕府の有力者や大名が駕籠で通る場所に待ち受けて、訴状を出すこと)は厳禁とされていたので、死

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          デッサン、ドローイング 頭の中のイメージを一回とりだして、外で泳がせてみる。外にとりだして泳がせてみると、泳いでいる間にだんだんフォームが変わってきて、かつて頭の中にあったものとはだいぶ変わっている。ときにはそういう行為を繰り返していくうちに、やっと本画にたどり着けたり、それそのものが作品として完成してしまったり。 drawという単語の意味を調べてみると、引く、引っぱる、牽引する、などの訳語が出てきて、ここから単純に線を引く人のイメージも読み取れるが、それと同時に、自分に

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          子どもの頃、根っからの天の邪鬼だった自分には、2次元という概念が理解できなかった。 ノートに鉛筆で引いた線だって、その上を這っているアリから見れば、人間でいう、校庭に石灰の白線を引いたくらいの感じだろうか。 もっと小さなダニなどから見たら、足が引っかかるくらいの障害物くらいにはなりそうなものだ。 そう考えていくと、人間の視点でものごとを2次元、3次元、、、と、わりきって考えることがしっくりしなかった。 そしてこの感じは今でも抜けきらず、絵を描くときに、次元の問題がつき

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          デッサンとドローイング。 グーグルで調べてみると、デッサン、ドローイングとは素描のことで、素描をおおまかに定義すると、単色で描く、絵画の下絵のことのようである。 自分にとっては、美大受験のために訓練した石膏デッサンや静物デッサンの、あの感じが強く印象として染み付いているが、一般にはもっと広義な印象があるのだろう。 近頃は単色の絵はほとんど描いていない。なので、デッサン、ドローイング的なものを描くとすれば、自分の中でそれ相応な理由が生じているはずだ。 昔は、ものを観察す

          2/26

          2月は終わりに近づき、暖かくなったり寒くなったりを繰り返す今日このごろ。依然として祭りは、中止や、関係者のみでとり行うところが多いようだ。 なので、実際に現場におもむくのはもう少し辛抱して、今はこれまでに見て回ったものを思い返してみたい。 ニ週間ほどくらい前だろうか、東京は板橋の赤塚エリアで、田遊びというお祭りが行われた。今年は関係者のみで執り行うということで見に行かなかったが、自分は3年くらい前にそれぞれの田遊びを見て回った。 板橋の田遊びは、赤塚氷川神社、徳丸北野神

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          自分で価値があると思うことに対しては、一定の熱量を持って書けるのだが、価値がなくつまらないものに対しては熱をあげられないようでは、自分の感性自体がどんどんつまらないものになっていくような気がする。 昨日、絵を描きながらユーチューブを聞いていたら、いつからか上岡龍太郎の独演会かなんかになっていて、ほとんど聞き流していただけなのだが、その中でも耳にとまったのが「客にとって興味のないことでも、それとなく聞かせてしまうのが芸」という意味のことだった。 これにはなかなか納得がいって

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          ひき続き今年もコロナの影響で、祭りは中止か、実施しても地元の人のみのものが多くなりそうだ。 こんな時勢に無理に遠征しても、都会から来た疫病神になりかねないので、あと1年は自粛したほうが良さそうだ。 そんな中、まれにオンラインで開催するものもあったりして、去年は郡上おどりなどはズームを介して行われた。 それはそれで、現場の連帯感あふれる踊りとはまた違った、個人の顔がよく見れる面白さがある。 16:9の画面で仕切られたマスの中では、それぞれの部屋や踊り場が見えたり、ズーム

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          ここ最近、マイ「野のカミ」ブームがおきている。 仕事がらいろいろな町に出向くのだが、その度にグーグルマップを頼りに、「野のカミ」巡りをしたりする。 なぜ自分が「野のカミ」に対して惹かれているのかを、美術的な価値や民俗学的な価値では説明しきれないが、「記憶」という言葉をつかうとわりとしっくりくる。 ユーチューブで小林秀雄の講演の録音を聞いたことがあるが、小林の歴史観は自分の昨日の記憶からさかのぼっていって、どんどん昔の出来事まで進んでいくものであったように思う。 いわゆ

          11/6

          金沢21世紀美術館で、ミヒャエル•ボレマンスとマーク•マンダースの展覧会を見た。 2人に共通する点は、アカデミックなスキルを踏襲しながらも、独自かつ現代的な表現に落とし込んでいるところだ。 ボレマンスはその絵画において、写実性と抽象的な平面性を共存させており、マンダースもある意味、このロジックを彫刻に置き換えているとも言えるかもしれない。 自分がボレマンスに感動した点は2つあり、1つ目は絵を描く態度というか、遊び心のようなものがひしひし伝わってきた点だ。 何か、絵を描