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きのう見たテレビの番組で、小学生の学習道具をタブレットにするのはどうなのか?というテーマで話していて、少し思うところがあった。

要は、学習教材をすべて電子化し、紙のノートなども使わずにタブレット一枚に簡略化するということだが、これに対して反対の意見の論者は、日本の伝統文化や、漢字文化の継承を訴えていたが、それだけだと断片的で、あまり共感できなかった。

自分もすべて電子化するのには反対なのだが、日本の文字文化の質を維持するために必要だと思うのではなく、もっとフィジカルな学習という側面で必要だと思っている。

具体的にいうと、タブレットなどにすでに折り込まれている記号を使うよりも、物質に、個人個人が書くものをイメージしながらそれぞれの形をともなった文字を書く行為は、質的に異なるということと、そうやって書かれたものは、読みとる受け手とのコミュニケーションも複雑化させる。

そして、自分はこの過程が個性の形成と、コミュニケーションをとる双方の、きめの細かい関係をつくる一助になるものと考える。

例えば一つの文字を書くにしても、その形態、筆圧は千差万別だし、良い悪いは別として、書き順だって異なるだろう。また、文字も元々は絵だったように、子どもは文字を覚える過程で文字を書くというよりは、文字に真似た絵を書いている。つまりものを真似るという、人間の根源的な学習を行っている側面もあるのだ。

また学校などで先生は、子どもの文字の特徴などを見て、文字の意味内容以外のメッセージも読み取り、コミュニケーションをとる。消しゴムで消した文字の形跡ですら、その子どもの性質を感じとる一つの手がかりになるかもしれない。

もしかすると、この考え方は古いのかもしれない。もはや、デジタル化した場合の学習の過程の中にもこれらの要素はあるのかもしれないし、もはやコミュニケーションのとり方自体に、こういうものが不必要な未来がくるのかもしれない。

しかし、教育全体の方針がそういう方向に進んでいくにしても一部は適応できない子どもたちもいる。例えば特別支援学級の子どもたちなどは、フィジカルな側面から教えていったほうが適切に思われる。

なので段階的に、現場の指導者が個々の能力を見極めた上で、慎重に導入することが必要なのだろう。

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