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古絵馬の、あの表面のリアリティはなんなのだろうか。

たんに雨風による経年変化が及ぼした年季とか、味わいとかと、一言では表現しつくせないあの儚げな、朦朧とした像の存在感は何だろうか。

古絵馬の表面の表情の形成過程とは、意識的な筆致で描かれた絵を、自然が溶かし出してその秩序の中に、ふただび招き入れることのようにも感じられる。

これは、幽霊や妖怪の気配のような、半分自然に身をかえしたものにも通じるものだ。

自然物が、自然の中にあって経年をへても、それはもともと自然の中にあったもので、自然のディテールの1つにすぎない。

しかし、人工物の場合、自然の秩序の中から極端な形で鋳造されたものだから、自然にかえる過程で表面に独特なものが現れる。これが、幽霊や妖怪に通じる何か、である気がする。

人間が、かつてまだホモサピエンスに分化したてのころ。まだ文明と呼べるほどの、自然からの距離を持っていなかったころ、もちろん死は順ぐりに訪れていたわけだが、死はすぐに自然に溶け込んでいたのではないだろうか。現在のように幽霊や妖怪のような過程をへずに、すんなりと自然にかえっていたのではないか。

文明化された人間社会が自然から距離をもったせいで、新しく幽霊的なものを生み出し、また、その社会からの働きかけによって歪められた自然も、そのような相貌を持ちはじめたのかもしれない。

汚れという観念も、死穢につながる生理的なもの以外の、壁のしみとか、床の汚れといったものは、やはり自然から鋳造された表面と、自然的なものの対比によるだろう。

もう少し感覚的につかみやすい話に置きかえると、滅菌されたホワイトキューブのような空間には座敷わらしは現れないであろうということ。やはり古びた民家や蔵の、すす汚れた隅の方から出てきそうなものである。

古絵馬の、あの表面の怪しげな美しさは、人為的な絵が自然の力によってそちら側に引き戻された、幽霊や妖怪さえも現れえるもの、によって見る人に訴えかけてくる。




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