見出し画像

#881 「方便」で「理想」を傷つけ、「勧懲」で「美術」を汚している!

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日も、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。

恐ろしい夢にうなされている主人公が、怨霊の口寄せをしてもらうため神子の家を訪れます。神子が口寄せの呪文をはじめると、滝沢馬琴の怨霊が乗り移ります。そして、こんなことを語ります。

見よや、見よ、昔は我を非[ソシ]れりしものも、今は漸[ヨウヤ]く軽忽[カルハズミ]の夢醒めて、先非[センピ]を悔い、直譯[チョクヤク]小説の熱下[サガ]り、元禄風[ゲンロクカゼ]の吹[フキ]やみて、ありのすさみに憎かりし我が亡魂[ナキタマ]、希物[マレモノ]のなくてぞ今は恋しきか、隠然たる天下の大勢[タイセイ]、我為[ワガタメ]に美を鳴らさんとす。彼の明治の小説の中[ウチ]に勧懲の主旨を注げよといふものは、元より我黨[トウ]の遊軍にして、善即美なりと説けるものも、一度[ヒトタビ]さしまねかば我旗下[キカ]とならん。……新體[シンタイ]の歌を興[オコ]さんとする者も頻[シキリ]に其材[ザイ]を舊史[フルキフミ]に取り、多くは其句調を七五に因む。これもまた我魂[タマ]を招くものなり。右[ト]にも左[カク]にも、わが魂[タマ]のよみがへらん日は咫尺[シセキ]の程にあり。悦ばしや、快[ココロヨ]やなふ。勢ひのかくの如き中[ナカ]に、頑[カタクナ]にして鈍[オソ]きこと汝の如き輩のありて、我理想を低しと誹[ソシ]り、我観念を卑[イヤ]しと罵る。(#823参照)

なんぼ素敏[スバヤ]き世の中とて、老荘の門を汽車便で走りぬけ、儒佛[ジュブツ]の教へを生嚙[ナマガミ]にし、東西古今の哲学の名目[ミョウモク]ばかりを諳[ソラ]んじたるが、小兒[ショウニ]をあやす時でもあるか、高い/\といはるべきか。……ヤレ眞理だ、目的だ、運命だの、審美だのと、名目[ミョウモク]比べ聞[キキ]たくなし。(#824参照)

現在の作家や批評家の態度を批判するわけですが、このあと、主人公は怨霊がただの自慢オヤジだと悟り、なにを恐れることがあるかと怨霊の主張を諫めます。

今の勧懲は足下[ソコモト]の為には身方[ミカタ]にあらずして却[カエ]りて足下の大敵なり。さりとは知らずして悦喜[エッキ]あるは、さて/\憫然[キノドク]の義[ギ]なり。……人間の善悪を自證[ジショウ]しての上にて自[オノズ]から発する勧善懲悪とは、先づ其性[セイ]に隔[ヘダテ]あれば、其相[ソウ]もまた同じき事を得ず。(#827参照)

嗚呼[アア]、足下は方便といふことに拘[カカヅ]らひて理想をきずつけ、勧懲といふことに泥[ナヅ]みて美術を汚せり。……併しながら相[ソウ]の相肖[アイニ]たるは性の同じきにあらざることは、パノラマの煙と眞の煙、ところてんとこんにやく板[バン]。正法僧[ショウホウソウ]と末法僧[マッポウソウ]。末法僧が正法の獅子心中の蟲ならば理想詩人も足下の亜流を獅子心中の蟲といはんか。是れ先刻もいひたりし理想詩人が足下の為には大敵たるべき所以也。(#828参照)

然[シカ]はあれども公然[アカラサマ]に名宣[ナノ]りかけての仇なるゆゑ、一たび足下の外郭[ソトグルワ]を乗り取り、寫實派[シャジツハ]の旗を立てたる上は、當座[トウザ]の目的成就の道理なり。(#831参照)

然るところ此[コノ]たび起らんとする理想派の勧懲詩人といふは、其[ソノ]格構[カッコウ]面がまへ甚だ以て足下[ソコモト]と相肖[アイニ]たり。足下が狗[イヌ]の肉ならば彼輩[カノトモガラ]は羊の肉なるべく、足下が贋薩摩[マガイサツマ]ならば、彼輩は本場なるべし。かくいへば足下を酷[ヒド]く貶[オト]して言[イウ]やうにて、お贔屓[ヒイキ]さまの手前[テマエ]些[チト]相済[アイスマ]ぬ儀[ギ]なれど、我謂[ワガイ]ふ理想詩人とはまだ誕生の産聲[ウブゴエ]あげぬ輩なれば、假[カリ]にミルトンかシェレーか其邊[ソノヘン]の格構の男と想ひたまふべし。(#832参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?