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#827 おぬしの小説なんて、シガーの煙とともに吹き飛ぶぜ!

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

今日から「第三回」に入ります!

巫女に乗り移った怨霊が、近年の作家の態度を嘲ったあとのことです。口
寄せを頼んだ主人公の「おのれ」は、怨霊が、ただの自慢オヤジだと悟り、なにを恐れることがあるかと強くなります。

まだ承知はござらぬよな、今人[コンジン]の謂ふ勧懲とは、足下[ソコモト]の謂ふ勧懲と、名は似[ニ]て実の異なること、灌頂[カンチョウ]と灌腸[カンチョウ]ほどの相違なり。

たしか、二葉亭四迷も『小説総論』で似たような表現をしていましたよね。

小説に勧懲摸写の二あれど、云々の故に摸写こそ小説の真面目なれ。さるを今の作者の無智文盲とて古人の出放題に誤られ、痔持の療治をするように矢鱈無性に勧懲々々というは何事ぞと、近頃二三の学者先生切歯[ハガミ]をしてもどかしがられたるは御尤千万とおぼゆ。(#311参照)

「痔の治療じゃあるメェし、カンチョーカンチョーうるせぇってんだ!」

加ふるに、今の勧懲は足下[ソコモト]の為には身方[ミカタ]にあらずして却[カエ]りて足下の大敵なり。さりとは知らずして悦喜[エッキ]あるは、さて/\憫然[キノドク]の義[ギ]なり。いでや足下が勧懲を唱へられしは、某[ソレガシ]よくはぞんぜぬが、李笠[リリツ]とかやいふ毛唐人[ケトウジン]の訓[オシエ]に遵[ヨ]られたるものならん。到底は方便の為の勧懲なりといふ事には、ずッしりしたる明證[ヨイショウコ]山々あれども、今いはヾ長うなりて急場[キュウバ]の間[マ]にあひかぬれば、省き申すべし。

李笠は明末の劇作家である李漁[リギョ](1611-1680)のことです。李漁は、一般通俗の観点から戯曲本来のあるべきすがたをとらえ、『笠翁十種曲』で、恋愛や滑稽などの10種の戯曲(憐香伴・風箏誤・意中縁・蜃中樓・凰求鳳・奈何天・比目魚・玉掻頭・巧團圓・愼鸞交)にまとめました。李漁の作品は、井原西鶴(1642-1693)をはじめとした多くの戯作者に影響を与えました。

左[ト]に右[カク]に、人間の善悪を自證[ジショウ]しての上にて自[オノズ]から発する勧善懲悪とは、先づ其性[ソノセイ]に隔[ヘダテ]あれば、其相[ソウ]もまた同じき事を得ず。譬[タト]へば、足元[ソコモト]が勧懲の常套手段は、積悪[セキアク]の家には餘殃[アマンノワザワイ]ありといふ事を饂飩[ウドン]のやうに引[ヒキ]のばして見せる事なるが、文化、文政にはかやうなアキシオムをも得解[エゲ]せぬ善男女[ゼンナンニョ]がござったか知らねど、當今[トウコン]の悪漢[ワルモノ]右様[ミギヨウ]の義[ギ]五六歳の頃より熟知いたし居り、現[ゲン]に予[ワシ]などは積悪の家に生[ウマ]れ、みづからも随分悪事をいたしたが、只今斯くの通り豪富[ゴウフ]と相成[アイナ]り、紳士などヽ尊[タット]まれ居[オ]ることでござる、と足下[ソコモト]の小説ぐらゐはシガーの煙と共に吹きとばす者あまたあれば、皮相流[ヒソウリュウ]の勧懲はガス燈[トウ]の今日[コンニチ]丸行燈[マルアンドン]の光ほども役にたゝず。

儒教の経典『易経』には、「積善の家には必ず余慶有り、積悪の家には必ず余殃有り」という一節があります。善行を重ねた家には必ずいいことがあり、悪行を重ねた家には必ず悪いことが起こる、という意味です。

アキシオムは「Axiom」で「公理」のことです。

「ガス燈」に関しては、#426#542でちょっとだけ紹介しています。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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