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#882 「煩悩と時制」、「主観と客観」、「リリックとドラマ」

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日も、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。

神子の口寄せの呪文で乗り移った滝沢馬琴の怨霊を諫めるため、ウォルター・スコットの、架空の主人公が現実の歴史的な出来事で活躍する手法の作品を例に挙げ、主人公はこんなことを言います。

彼れの作は所謂理想詩の界[サカイ]を離れて折々自然詩の趣[オモムキ]あるなり。足下が勧懲を経[ヨコイト]とし、儒教を緯[タテイト]として、時代物を編[アマ]れしとは別なり。(#833参照)

そして、煩悩と時制の関係について語ります。

夫[ソ]れ人の煩悩は無數[ムスウ]なれど、古人[コジン]も申せし通り、最も著鋭[チョエイ]なるは四[ヨツ]なり。望[ホープ]と怖[フイヤ]と愛[ラブ]と憎[ヘトレッド]となり。望[ノゾミ]と怖[オソレ]とは二つながら未来に係[カカ]り、愛[アイ]と憎[ゾウ]とは過去の経験に基[モトヅ]く所重[オモ]なり。(#834参照)

人或[アル]ひは謂ふ、今の作者は下手[ヘタ]也[ナリ]、さるが故に大人讀まずと。大間違ひの沙汰也[ナリ]。下手にあらず、上手也[ナリ]。文の相[カタチ]のみをいはヾ、今の作者或ひは古人よりも上手なるべし。又学問も理想も上なるべし。……只其着想が現在相[ゲンザイソウ]に偏[カタヨ]りて人間固有の大愛憎[ダイアイゾウ]に訴ふること尠[スクナ]く、大怖望[ダイフボウ]に訴ふる所尠きのみこそ化政度の老爺[オヤジ]達に遠く及ばぬ所なるべけれ、勤王[キンオウ]といふは邦俗[ホウゾク]固有の大愛憎、それを生捕[イケドラ]れし足下[ソコモト]のお腕前流石と申しては鼻に似たれど、敬服の至極にこれあり。併しながら足下に於きてもこれはほんの世辞と見做し、例の羽団扇[ハウチワ]をひろげたまふ可[ベ]からず。……ちよん髷のついた挿畫[サシエ]の小説がちよろ/\見ゆるは其前表[ゼンビョウ]にて、寫實的社会小説のヒタと衰へたるは此故なり。已[スデ]に現在専門[バカリ]に厭[ア]きたりとせば、作者の趣向も未来か、しからざれば過去に及[オヨバ]ざることを得ず。されば見事、豫言者[ヨゲンシャ]の料簡[リョウケン]と罷[マカ]りなり(#835参照)

そして、明治24年以後に時代小説が起こったら、という仮定をもとに、馬琴と今の作者を比較します。

若[モ]し廿四年以後に於きて時代物の小説起[オコ]らば、此[コノ]たぐひ出来[シュッタイ]すべし、足下[ソコモト]の流義とは違ふなり。且[カツ]は又只相[カタチ]のみを見ても足下のとはちがふなり。足下のは客観にて、當今[トウコン]の傾きは主観なり。足下のはエポスにて、當今のはリリック風、ドラマ風なり。(#836参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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