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#835 なぜ写実的社会小説は衰えたのか?

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

第四回は、「我慢」の上中下を論ずるところから始まります。我慢の「最大」は一切の善悪を受け入れて余りある状態で、我慢の無いことに等しい状態。我慢の「中[チュウ]」は衆善を容れる量はあるが、衆邪を破るには疾風のなかの枯葉を掃うに似ている。そして我慢の「下々[ゲゲ]」は、目の無い笊[ザル]のようで、善をも容れなければ悪をも容れない。ゆえに自分を尊び、思い上がる。巫女に乗り移った目の前の怨霊は、まさにこれで、どんなに論じても退散の効き目がない。ひとたび外郭を乗っ取り、写実派の旗を立てるのが目的成就の道理であるが、理想詩人はまだ誕生の産声をあげていない。最近起ころうとしている理想派の勧懲詩は怨霊の描いていた物語と似ているが、古来より似て非なるものが近所にあることが迷惑至極であるわけで…。近年の作家の時代物を、怨霊が描くような勧懲を横糸として儒教を縦糸とした時代物の復興と思うのは、いよいよもって勘違いである。今の作者は下手で、だから大人は読まないというが大間違いである。文のカタチも学問も理想も古人より上手である。

只其着想が現在相[ゲンザイソウ]に偏[カタヨ]りて人間固有の大愛憎[ダイアイゾウ]に訴ふること尠[スクナ]く、大怖望[ダイフボウ]に訴ふる所尠きのみこそ化政度の老爺[オヤジ]達に遠く及ばぬ所なるべけれ、勤王[キンオウ]といふは邦俗[ホウゾク]固有の大愛憎、それを生捕[イケドラ]れし足下[ソコモト]のお腕前流石と申しては鼻に似たれど、敬服の至極にこれあり。併しながら足下に於きてもこれはほんの世辞と見做し、例の羽団扇[ハウチワ]をひろげたまふ可[ベ]からず。さるほどに時勢は争はれぬものにて、米の代[ダイ]ぞんぜぬ男女[オトコオンナ]も、只今にては漸[ヨウヤ]く現在専門[バカリ]の作には厭[アキ]がまゐりたり。ちよん髷のついた挿畫[サシエ]の小説がちよろ/\見ゆるは其前表[ゼンビョウ]にて、寫實的社会小説のヒタと衰へたるは此故なり。已[スデ]に現在専門[バカリ]に厭[ア]きたりとせば、作者の趣向も未来か、しからざれば過去に及[オヨバ]ざることを得ず。されば見事、豫言者[ヨゲンシャ]の料簡[リョウケン]と罷[マカ]りなり、條約[ジョウヤク]改正後の有様若[モシ]くはジュール・ヴェルネの二の舞でも致さうかといふに、八幡[ハチマン]、七里[シチリ]結界、今の美術家にさる場當[バアタ]りめいたる義かりそめにも試[ココロ]むる者あるべき筈無し。さるは聖賢[セイケン]とても三十にもならぬうちに、未来を見抜かれし人はいと稀[マレ]なり。東洋一の釈迦無尼世尊[シャカムニセソン]とても、何とやらいふ種々[クサグサ]の未来経[ミライキョウ]は二世を知りぬいて後[ノチ]に口外せられしことならんを、何もしらぬ我々が豫言三昧に入[イ]ったればとて、本願寺内の卜者[ウラヤサン]ほどにも中[アタ]るまじ。徒[イタズラ]に場當[バアタ]りの耻[ハジ]を柿の種の見ちがひ、橋の袂[タモト]の車夫[クルマヤ]に笑はるべきのみ。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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