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#836 怨霊の作は「客観・エポス」、今の小説は「主観・ドラマ」

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

第四回は、「我慢」の上中下を論ずるところから始まります。我慢の「最大」は一切の善悪を受け入れて余りある状態で、我慢の無いことに等しい状態。我慢の「中[チュウ]」は衆善を容れる量はあるが、衆邪を破るには疾風のなかの枯葉を掃うに似ている。そして我慢の「下々[ゲゲ]」は、目の無い笊[ザル]のようで、善をも容れなければ悪をも容れない。ゆえに自分を尊び、思い上がる。巫女に乗り移った目の前の怨霊は、まさにこれで、どんなに論じても退散の効き目がない。ひとたび外郭を乗っ取り、写実派の旗を立てるのが目的成就の道理であるが、理想詩人はまだ誕生の産声をあげていない。最近起ころうとしている理想派の勧懲詩は怨霊の描いていた物語と似ているが、古来より似て非なるものが近所にあることが迷惑至極であるわけで…。近年の作家の時代物を、怨霊が描くような勧懲を横糸として儒教を縦糸とした時代物の復興と思うのは、いよいよもって勘違いである。今の作者は下手で、だから大人は読まないというが大間違いである。文のカタチも学問も理想も古人より上手である。ただし、着想が現在に偏り、愛憎や怖望に訴えるものが少ないため飽きがくる。現在に飽きがきたとなれば、未来か過去に及ばざるを得ず。

此[ココ]に於[オイ]て乎[カ]自然の勢ひ百年の昔に還る夢物語、時代小説に気が向いて何の何右衛門尉[ジョウ]何虎が重藤[シゲトウ]の弓よつびくも、其の分の事であるまい歟[カ]。

「重藤」とは、大将などが持つ弓で、弓のつかを黒漆塗りにし、その上を藤で強く巻いたものです。

古きを温[タズ]ねて新しきことを知るといへば、昔の夢も自然派の心を以て語る時は、一つには国俗[コクゾク]の特質を発揮する故に彼等が固有の大愛憎を牽[ヒ]き、二つには過去の人間相を描く故に、瞑々[メイメイ]の間に人間の命[メイ]を諷[フウ]して、或ひは浮虚[ウワノソラ]なる楽天教徒[キラクモノ]に灸[ヤイト]をすゑ、偏固[スネカタマ]りたる厭世教徒[ナキムシ]の悪血[ワルチ]を吸取る蛭[ヒル]ともなるべし。

ちなみに、魚のスマは、別名「やいとがつお」と呼ばれており、エラの下の腹側に黒い斑点がいくつかあり、これがお灸の跡のように見えることから「やいとがつお」と呼ばれています。

即ち其[ソノ]名は過去なれども隠然[インゼン]未来を含めばこそ、効能は三世に亙[ワタ]るなれ。若[モ]し廿四年以後に於きて時代物の小説起[オコ]らば、此[コノ]たぐひ出来[シュッタイ]すべし、足下[ソコモト]の流義とは違ふなり。且[カツ]は又只相[カタチ]のみを見ても足下のとはちがふなり。足下のは客観にて、當今[トウコン]の傾きは主観なり。足下のはエポスにて、當今のはリリック風、ドラマ風なり。何と幽霊、合點[ガテン]がいたら退散消滅、頓生菩提[トンショウボダイ]、南無々々幽霊、浮[ウカ]べ/\、とたてうけて、樒[シキミ]の葉の水ふりかくれば、あなうらめしの世やなふ。さては我はや世に厭[ア]かれけるよ。時代物の世となりしとは眞實か。定[ジョウ]か。といふしやがれ聲[ゴエ]以前の怨霊のに似ぬはいぶかし。これはまた面妖な。

というところで「第四回」が終了します!

さっそく「第五回」へと移りたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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