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#985 没理想における、哲学的な追及と、詩的な発想

それでは今日も、鷗外の「早稲田文学の後没理想」を、途中ですが振り返っていきたいと思います。

逍遥は、「没」の一字の義は、「埋没」でも「没却」でも「無」でも良いというし、「絶対」と「相対」に対する立場は、没理想の変化でもって変わるかもしれないと言います。

この煮え切らない態度に、鷗外は言います。

一時の詩興にて浮世を悲しと觀じ、また人間を樂しと觀ずるは、哲學上の厭世主義若くは樂天主義にあらず。哲學上の厭世樂天なんどの主義を明白にあらはすには、先づ用語例を定めざるべからず。その用語には解釋を附せざるべからず。その用語をば必ず一たび解釋したるとほりに使ひ、他の意味には使ふべからず。その用語のかはりには他の意味同じと見ゆる語を据うべからず。世間豈かく窮屈なる法度を守りて詩を作るものあらむや。
詩人は音響のために言葉を換ふるものなり。詩人は觀相に繼ぐに觀相を以てすれども、意義に接するに意義を以てすることなきものなり。詩人は言葉とこゝろと大小相掩はざる諸譬喩を出すことを好むものなり。詩人は哲學者の如く論理の道を走りて單より複に赴くことなきものなり。これ等は皆詩人の明白に其哲學上所見を詩中にあらはすこと能はざる理由なり。(#970参照)

哲學者は人の廡下[ブカ]に倚ること能はざるものなり。哲學者はたとひ明なる室のみならで、暗き房もありといへども、みづから一家を營みて、そこに安ずべき責を負へり。詩人に至りてはこれに殊なり。その作るところは節々人に入ること深からざるべからず。一節の詩には光明透徹して一點の翳[カゲ]あらしむべからず。(#971参照)

私は没理想を哲学的に追及しているが、あなたの没理想は詩的な発想なんだ、と言っているように読み取れるのですが……

そして、鷗外は「主観」と「戯曲」を定義します。

常の生活にて歡喜の實感に富めるものは、其審美感の中に樂天の情ほの見ゆべく、常の生活にて悲哀の實感に富めるものは、其審美感の中に厭世の情ほの見ゆべし。これを作者の主觀といふ。所觀の相と能感の情と互に相出入して、兩者の上に超出せるものゝ成就したる詩を戲曲といふ。(#971参照)

鷗外は、かつて、「没理想」のことを、「没理想」ではなく「没主観」「没挿評」「没類想」「没成心」であると定めますが、あらためて、上の定義でもって、シェークスピアの「戯曲」における「没主観」について、こんなことを言います。

されば明白に詩中にあらはるべきものにあらざるは獨り作者の哲學上所見のみにあらず、その詩を作るに臨みて動かしたる樂天厭世の情も亦戲曲なんどの中に明白にあらはるべきものにあらず。さればシエクスピイヤが曲にシエクスピイヤといふ個人の主觀のあらはれざるは、唯曲の妙處といふのみにて、戲曲といふものゝ本體に縁起したる性質に過ぎず。(#971参照)

ちなみに鷗外は「早稲田文学の没理想」の「附記 その言を取らず」で、「没主観」について、こんなことを言っていました。

主観の情を卑みて、客観の相を尊む。是[ココ]に於[オイ]て乎[カ]、今の叙事詩[エポス]すくなき世にありては戲曲[ドラマ]をして第一位に居らしめざることあたはざるべし。これを早稲田文学が没理想を説きて戯曲を嗜[タシ]む所以[ユエン]とす。われは其意を取りて其言を取らず。没理想は没理想にあらずして、没主観なればなり。(#676参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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