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#971 シェークスピアの主観があらわれないのは、戯曲の本体の性質に過ぎない!

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

鷗外は、レッシングの思想を参考にして、個人の哲学上所見は比量智であり、詩とは現量智であるといいます。詩が現量智であるかぎり、作者の哲学上所見を詩中にあらわすことはできないといいます。哲学で、「厭世・楽天」を明白にするときは、用語を定め、その用語に解釈をつけ、解釈どおりに使い、ほかの意味には使ってはならない。しかし、詩人は音響のために言葉を変え、意義に接するに意義でもってせず、比喩を使うことを好む者である、と。この「不能の理由」だけではなく、そもそも詩人は、哲学上所見を詩中にあらわすことを欲していないといいます。この「不欲の理由」を、レッシングの思想を参考に説明します。

レツシングのいはく。哲學上の所見をあらはすには、必ずしもいづれの部分も同じやうに明白なることを要せず。二三の眞理は直に根則より出づべけれど、その他の眞理は斷案と斷案とを積み疊[カサ]ねてはじめて出だすことを得べし。この斷案に斷案をかさねて出だしたる眞理は、他の哲學者の立脚點より見るときは、却りて又直に根則より出づべきものならむ。哲學者は人の廡下[ブカ]に倚ること能はざるものなり。哲學者はたとひ明なる室のみならで、暗き房もありといへども、みづから一家を營みて、そこに安ずべき責を負へり。詩人に至りてはこれに殊なり。その作るところは節々人に入ること深からざるべからず。一節の詩には光明透徹して一點の翳[カゲ]あらしむべからず。此故に詩人は快樂を寫さむとするときはエピクウルと共に語り、徳操を寫さむとするときはストアと共に語るべし。セネカ若しおのが所見の根則を守りつゝも、詩を作りて快樂を寫さむとしたらましかば、その果[ハカ]なきさまいかなるべき。これに反してエピクウル派の人若し徳操を歌はむをりには、その徳操といふものゝ姿遂に遊女の姿にあらはるべしといへり。(雜文神學及哲學部一面以下)
作者の哲學上所見は既に明白に詩中にあらはるべきものにあらず。されど常の生活にて歡喜の實感に富めるものは、其審美感の中に樂天の情ほの見ゆべく、常の生活にて悲哀の實感に富めるものは、其審美感の中に厭世の情ほの見ゆべし。これを作者の主觀といふ。
所觀の相と能感の情と互に相出入して、兩者の上に超出せるものゝ成就したる詩を戲曲といふ。ハルトマンのいはく。戲曲の作者は全く個人の主觀(能感)を遠離して、深く曲中人物の主觀に潜めり。個人の主觀の時ありて曲中人物の主觀に入ることあるは、意識ありて入るにあらず、料らずも流れ入るなりといへり。(審美學下卷七四九面)
されば明白に詩中にあらはるべきものにあらざるは獨り作者の哲學上所見のみにあらず、その詩を作るに臨みて動かしたる樂天厭世の情も亦戲曲なんどの中に明白にあらはるべきものにあらず。さればシエクスピイヤが曲にシエクスピイヤといふ個人の主觀のあらはれざるは、唯曲の妙處といふのみにて、戲曲といふものゝ本體に縁起したる性質に過ぎず。わが嘗て沒却理想を論ずるに當りて、早稻田文學の沒理想は沒理想にあらずして沒却主觀なりとおもひしはこれがためなり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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