見出し画像

#970 用語の解釈や意味や音響を守って「詩」は作らなければならないのか?

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

逍遙子は今後沒理想を以ておのれが本意なりとし、評者たる我が嘗て早稻田文學の沒却理想論中に於いて、その中に埋沒したりし後沒理想の生涯を穿鑿し得ざりしを咎めて、これを誤解なりといふ。殊[コト]に知らず、相對に對しては欲有限の我を立てゝ、聖教量を僣上なりといふ逍遙子が、嘗て一たび相對なる衆理想に對して皆是皆非の斷案を下し、おのれ欲無限の我を立てゝ衆理想家を濟度せむとするが如きさまを見せしは、全く是れ誤り説きたるものなるを。
わが此文に題して後沒理想といふことの止むべからざるはこれのみにても明なるべし。いでや、これより逍遙子が後沒理想の論を評しこゝろみてむ。
逍遙子は先づ

沒理想の由來

を説きて、かたはらハルトマンの審美學と我評論とに及びぬ。
われは此篇を讀みて、始て逍遙子が理想といふものゝ解釋を聞くことを得たり。蓋し逍遙子が所謂理想は個人が平生の經驗學識等によりて宇宙の事を思議し、現世の縁起、人間の由來、現世と人間との何たる、此世を統ぶる力、人間未來の歸宿、生死の理、靈魂、天命、鬼神等に關して覺悟したるところなりといふ。逍遙子が所謂理想は個人が哲學上の所見なり。
わが見るところを以てすれば、個人の哲學上所見は比量智なり。詩といひ、美文といふものは現量智なり、若し直ちに比量の所見を詩に入るゝものあるときは、レツシングが嘗てポオプを論ぜしとき、ルクレツツをためしに引きて詩人の衣を藉りたる哲學者なりと笑ひしにや似るべき。いかなる樂天の詩も、いかなる厭世の詩も、一たび思議にわたりては詩天地より逐ひ出さるべきこと勿論なり。
既に詩を認めて思議を經べからざるものとし、現量智生のものとするときは、作者の哲學上所見は到底明白に其詩中にあらはるゝこと能はざる理由あり。一時の詩興にて浮世を悲しと觀じ、また人間を樂しと觀ずるは、哲學上の厭世主義若くは樂天主義にあらず。哲學上の厭世樂天なんどの主義を明白にあらはすには、先づ用語例を定めざるべからず。その用語には解釋を附せざるべからず。その用語をば必ず一たび解釋したるとほりに使ひ、他の意味には使ふべからず。その用語のかはりには他の意味同じと見ゆる語を据うべからず。世間豈かく窮屈なる法度を守りて詩を作るものあらむや。
詩人は音響のために言葉を換ふるものなり。詩人は觀相に繼ぐに觀相を以てすれども、意義に接するに意義を以てすることなきものなり。詩人は言葉とこゝろと大小相掩はざる諸譬喩を出すことを好むものなり。詩人は哲學者の如く論理の道を走りて單より複に赴くことなきものなり。これ等は皆詩人の明白に其哲學上所見を詩中にあらはすこと能はざる理由なり。
されど詩人はひとりその哲學上所見を詩中にあらはすこと能はざるのみならず、またこれをあらはすことを欲せざるべし。われは前段なる不能の理由をも、おもにレツシングによりて陳じたれば、こゝに不欲の理由を陳ずるに當りても、又レツシングが論に據らむとす。

ということで、このあと、レッシングの考えに言及するのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?