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#991 新しい言葉を作る時の覚悟

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を途中ですが振り返っていきたいと思います。

鷗外は、逍遥からの「没理想という語を、造化に対する方便として用いていいか?」という問いに対して、「諾ともいふべく否ともいふべし。不利あるが如くなりといへども、必ずしも他人の遮り留むべきことにはあらず。」と答えます。と、言いながら、このあと、「没理想」という三文字を使うことの不利な点を挙げます。

第一、沒理想の理想を常の義に取られ、沒をも常の無といふ義に取らるゝときは、造化に永劫不減のものなきやうに解せらるべし。是に於いてや、逍遙子の懷疑Skepticismusは認めて虚無Nihilismusとせらるゝ虞[オソレ]あり。第二、逍遙子は文學界に於いて大勢力あるものなれば、その造語の流通するに至らむことは疑ふべからずとしても、古今の哲學者及審美學者が用ゐなれたる理想の語は矢張[ヤハリ]その用ゐなれたる義に使はるゝこと止まざるべく、逍遙子は斷えずこれと戰はざること能はず。その沒字に附するに埋沒の義を以てせむとするについても、亦漢字の義を論ずるものと永く相抗せざるべからず。(#980参照)

で、「造語」を行なう覚悟のようなものを諭します。

おほよそ造語はその必要ありてはじめて造らるべきものなり。こゝに個人ありて、われ形而上の事については少しも見るところなしといはむがために一新語を造れりとせむか。われは將にその不必要なることを言ふを憚らざらむとす。おほよそ造語はその既往の歴史を以て人の寛恕を得べき權利なきものなれば、そのこれを造るに當りて鄭重なる商量をなさゞるべからず。こゝに文人ありて解しがたき文字、若くは錯り解し易き文字、若くは解釋を附するにあらでは毫も解すべからざる文字、若くは解釋ありといへども尚且解しがたき文字を聯[ツラ]ねて新に語を製せむとせば、われはその不可なることを嗚らすを憚らざるべし。造化に對する沒理想の如きもの即是なり。(#981参照)

次に鷗外は、逍遥からの下のような問いを挙げます。

シエクスピイヤが作の客觀(實は曲の全體)を沒理想(哲學上所見の沒却)といふは可なりや、奈何。(#981参照)

これについて鷗外は答えます。

逍遙子既にシエクスピイヤが曲の全體を客觀となづけ、哲學上所見の沒却せらるゝことを沒理想となづけて、さてその所謂客觀の沒理想なるを説けるは義において不可なることなし。故いかにといふに詩は固より實感をあらはすべきものにあらずして、シエクスピイヤが曲は充分に詩の約束を具へたるものなればなり。されどこの意味にて沒理想といふ語を使ふことにつきては、われ諾して而して又否まむとす。(#981参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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