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#980 没理想の三字を用いるは、あまたの不利あるが必ずしも他人の遮り留むべきことにはあらず

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

われは始より逍遙子が詩の質と詩人の技倆とを詩人の哲學上所見若くは實感のうちに求めたるを知らむやうなし。詩の縁起Genesisは姑くおき、逍遙子が地位より詩の質をいはむには、かの活差別相、活平等相などにてやゝ事足るべうおもはるゝに、これを一面なりとことわりたるは、我批評眼より見ていたづら事のやうに見えしがゆゑに、われ乃ちこれを評して一面審美學といひき。何ぞ料らむ、逍遙子が認むる第二面は作者の哲學上所見若くは實感ならむとは。逍遙子は後に雅俗折衷之助をして我一面審美學の評を方便戲論なるか、提喩的批評なるかと言はしめしが、こは我評を以てことさらに逍遙子が論の一面を擧げて其全體と看做したるものとなしゝならむ。われ今改めて逍遙子に告げむ。その嘗て示したる一面といふものは審美上には全體をなすべき筈のものなることを。その認めたる第二面の神祕はもとより審美學の範圍外にあるものなることを。
和尚われに問うていはく。沒理想(實は形而上論上無所見)の語を造化に對して方便として用ゐるは可なりやといふ。
われはこれに對して諾ともいふべく否ともいふべし。いかなればか我は諾といふことを得る。答へていはく。逍遙子が理想は哲學上所見の義なり、形而上論上所見の義なり。逍遙子が一時の方便にてこゝに見るところなしといはむは固より勝手たるべし。さて此義を語るに沒理想の三字を用ゐるは、あまたの不利あるが如くなりといへども、必ずしも他人の遮り留むべきことにはあらず。かるが故にわれはしばらくこれを諾して、そのこれを用ゐることの不利を告げおかむとす。第一、沒理想の理想を常の義に取られ、沒をも常の無といふ義に取らるゝときは、造化に永劫不減のものなきやうに解せらるべし。是に於いてや、逍遙子の懷疑Skepticismusは認めて虚無Nihilismusとせらるゝ虞[オソレ]あり。第二、逍遙子は文學界に於いて大勢力あるものなれば、その造語の流通するに至らむことは疑ふべからずとしても、古今の哲學者及審美學者が用ゐなれたる理想の語は矢張[ヤハリ]その用ゐなれたる義に使はるゝこと止まざるべく、逍遙子は斷えずこれと戰はざること能はず。その沒字に附するに埋沒の義を以てせむとするについても、亦漢字の義を論ずるものと永く相抗せざるべからず。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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