見出し画像

#981 造語はその必要ありてはじめて造らるべきものなり

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

さらば又怎[イカ]なればか我はこれを不可とすることを得べき。おほよそ造語はその必要ありてはじめて造らるべきものなり。こゝに個人ありて、われ形而上の事については少しも見るところなしといはむがために一新語を造れりとせむか。われは將にその不必要なることを言ふを憚らざらむとす。おほよそ造語はその既往の歴史を以て人の寛恕を得べき權利なきものなれば、そのこれを造るに當りて鄭重なる商量をなさゞるべからず。こゝに文人ありて解しがたき文字、若くは錯り解し易き文字、若くは解釋を附するにあらでは毫も解すべからざる文字、若くは解釋ありといへども尚且解しがたき文字を聯[ツラ]ねて新に語を製せむとせば、われはその不可なることを嗚らすを憚らざるべし。造化に對する沒理想の如きもの即是なり。
和尚重ねて問うていはく。さらばシエクスピイヤが作の客觀(實は曲の全體)を沒理想(哲學上所見の沒却)といふは可なりや、奈何。
答へていはく。逍遙子既にシエクスピイヤが曲の全體を客觀となづけ、哲學上所見の沒却せらるゝことを沒理想となづけて、さてその所謂客觀の沒理想なるを説けるは義において不可なることなし。故いかにといふに詩は固より實感をあらはすべきものにあらずして、シエクスピイヤが曲は充分に詩の約束を具へたるものなればなり。されどこの意味にて沒理想といふ語を使ふことにつきては、われ諾して而して又否まむとす。その理由は上に造化に對する沒理想のために辨じたるが如し。和尚は次に時文評論の記實主義の自比量なるか、共比量なるかを問はれしが、そはこなたに向ひて問ふべきことにあらざるが上に、既にこの篇のはじめにてもこれにつきて一言しつれば、今復別に答ふべきところなし。
公平入道常見が陣頭の宣言畢りて、逍遙子は又英和字典膳といふ假設人物を出し、これにいと勇ましき軍歌を歌はせ、その響と共にわが論陣を攻めたるが、その時の

雅俗折衷之助が軍配

に對するわが反撃は左の如し。
折衷之助が先づ言ひしは逍遙子が對絶對及對相對の二生涯の差別なりき。されどこれに就きては既に辨じおきたり。こゝには唯逍遙子が對絶對地位の説明を擧げて、聊[イササカ]又これを評せむ。
折衷之助のいはく。逍遙子が對絶對の地位を始の空といふ。こは終の空に對していふなり。又始の絶對といふ。こは終の絶對に對していふなり。又覺前の空といふ。こは覺後の空に對していふなり。この地位は立脚點にあらずして數學點なり。(こは城南評論記者に對して逍遙子自ら言へるなれど、折衷之助が言葉の中には立脚點ともいへること時文評論にて見るべし)この地位は靜坐にあらずして動くべき性を具へたるものなり。この地位は停りたる水の如し。唯そのいづかたに流るべきかを知らざるのみ。この地位は「タブラ、ラザ」なり。心頭の印銘はことごとく消除し去れり。この地位は發程なり。終の空、終の絶對の歸着處なるに殊なり。この地位は未生なり。覺後の空の死して空に歸したるが如きに殊なり。覺前空の無明にして不知なるや、覺後空の知にして覺なるに殊なりと雖、衆理想(衆人の哲學上所見)はいづれより見ても皆是皆非なりといふ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?