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#941 鷗外がほかの解釈を打破できないのなら、わが名目を撤去すべき義務はない!

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

げにやハルトマン先生が理想論を奉じて、感情を主観の理想とし、観相を客観の理想とせらるゝ見解より見そなはさば、理想見えたり、とのたまはんこと、理の當然にして怪しむに足らず。げにこそ、その意味にていはば、シェークスピアが理想といふものも見えたらめ、さりながら、吾が黨がかねてしも知らまほしく願へるは、理想見えたり、といふ、抽象の議論にはあらずして、如何なる理想か見えたる、といふ疑問なれば、その答には、分明畫の如きシェークスピアが理想の解釋を賜はるべきなり。こゝもまた、前の絶対に対するときと、吾が黨の覚悟はおなじなれば、将軍が呈出せらるゝシェークスピアの理想が、絶対唯一の解釋にして、他の衆解釋を打破するに足らざる限は、吾黨が用ひたる没理想の名目は、これを撤去すべき義務なきものとす。吾黨はもと衆解釋を容るゝことの自在なるを稱して彼れが作の客観を没理想と名づけたればなり、理想の有無を断じたる名稱にあらざる由は今更に繰返すべき必要あるまじ。あるはまた、将軍の所謂理想は、わが黨が謂ふべき理想にはあらざらんか、即ち総合の根本となりたる一種の観念にはあらざらんか、ドウデンが以てシェークスピアの観念とし、未詳氏(「没理想の由来」参照)が以てシェークスピアの理想とせるが如き、理想にはあらざらんか、さすれば将軍は明かにわが所謂理想の語義を誤解せられたるなり。かばかり相論辨せしだに、互ひの徒労にてありけりとやいはまし。あるはまた、将軍の所謂理想は、ウルリチーが見て以てシェークスピアの観念とし、ゲルヰナスが見て以てシェークスピア着想の根底とし、若しはテーン、ハドソン、エルデル、其の他幾十家の解釋家が見て以てシェークスピアが観念なり、と思惟したるが如き理想ならんか、将軍乞ふ、審にその理想の本體を総論し、分析して、尠くとも、彼れが作の六七篇に渉りて、證[アカシ]を挙げ、據[ヨリドコロ]を示して、さて以てわが黨の罪を責めよ、わが黨は楯を投じ、干戈[カンカ]を伏せ、先づ謹みて将軍が解釋を奉聴して、これを古来幾百の解釋と照繳對較して、徐ろにそが當否を判ぜん。

ドウデンに関しては#663で、ウルリチー、ゲルヰナス、ハドソンに関しては#664で、テーンに関しては#936でちょっとだけ紹介しています。

「エルデル」に関してなんですが、これが誰なのかまったくわからなくて、もしかしたら、ドイツの哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)のことかもしれません。ヘルダーは1773年の『Von deutscher Art und Kunst』のなかで「シェークスピア」と題する論文を発表しています。ヘルダーは、「シェークスピアをあるがままに解説し、感じ、利用して、できることならドイツ人のために彼を復活させる」という意図のもと、ギリシャ悲劇とシェークスピア劇の相違を追究します。ヘルダーはシェークスピアによって描かれたものすべてが、あたかも自然の縮図であるかのように感じ取ります。

干戈とは、盾を意味する干と、矛を意味する戈で、「武器」のことです。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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