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#890 これにて没理想論争前哨戦を終わりにするぞぉ!

鷗外は、「逍遥子の諸評語」の最後に、逍遥の批評の手段について言及します。そして、この部分が、この先続く没理想論争の発火点となっています。

逍遙子おもへらく。批評は著作の本旨の所在を發揮することをもて專とすべし。歸納的なるべし。沒理想的なるべし。モオルトンが唱ふる如く、科學的なるべし。標準に拘泥[コウデイ]することなかれ。手前勘の理想を荷[カツ]ぎまはることなかれ。嗜好にあやまたるゝことなかれ。演繹的なることなかれ。芋蟲一疋を解剖するにも、人間を解剖するにおなじく、其間に上下優劣をおかぬ動物學者の心こそ頼もしけれ。批評とはもと褒貶の謂[イイ]にあらず。(#874参照)

著作の本旨の所在を発揮することをもて専とすべし。
帰納的なるべし。
没理想的なるべし。
科学的なるべし。
標準に拘泥することなかれ。
手前勘の理想を荷ぎまはることなかれ。
嗜好にあやまたるることなかれ。
演繹的なることなかれ。
芋蟲一匹を解剖するにも、人間を解剖するに同じく、その間に上下優劣をおかぬ動物学者の心こそ頼もしけれ。
批評とはもと褒貶の謂いにあらず。

これに対して鷗外は言います。

凡[オオヨ]そ世の中にて、觀察[ベオバハツング]と云ひ、探究[フオルシユング]と云ふ心のはたらきには、一つとして歸納法の力を藉[カ]らざるものなし。人の著作を批評せむとするときも、先づ觀察し、探究せではかなはじ。是れ科學的手段なり。是れ歸納的批評なり。然[シカ]はあれど觀察し畢[オワ]り、研究し畢りて判斷を下さんずる曉には、理想なかるべけむや、標準なかるべけんや。理想とは審美的觀念なり。標準とは審美學上に古今の美術品をみて、歸納し得たる經驗則[エムピリイ]なり。……拘泥すればこそ標準を憎め。手前勘なればこそ、杓子定規なればこそ理想を厭[イト]へ。蠋[イモムシ]を昆蟲なりといひ、拙[ツタナ]き小説家を固有派なりといふときは、其際におのづから褒貶存ず。是れ演繹的批評ならざらむやは。(#875参照)

逍遥は批評における「心構え」について述べていると思うのです。ところが、鷗外は、巧みに単語を切り貼り組み替えて、批評する上での「ものさし」の話にしてしまうのです。

逍遥は『梓神子』でこんなことを言います。

動物学者といふものを見たか。人間を解剖するも、芋蟲一疋[イッピキ]解剖するも、上下優劣を着[ツケ]いでこそ其道[ソノミチ]に熱心見えて有難い。人間の為の用不用は、葭[ヨシ]のずゐから天井のぞく人間といふ蟲けらの狭い料簡。人間に用が無いとて無造作に棄[ステ]られたものでは無いわさ。よしんば棄るとしやれ、それは用不用を目安にしての勘定、批評家の本分で無い。政治家としての、裁判官としての、道徳家としての批評家のする仕事。(#861参照)

これに対する鷗外の言い分はこうです。

われおもふにおほよそ世の中に、用と無用との別ほどむづかしきものはあらじ。……然はあれど必ず用を問はじといふも科學的手段を講ずるものゝ迷ならまし。動植をきはむる學者の心は、世の常の用をばげに問はざるべけれど、進化説を唱ふる人は、微蟲を解剖するときも、おのれが懷[イダ]ける説の旨に愜[カナ]はむことを願はざるにあらず。唯科學の公心あるをもて、預期せしところに反せし事實をも、言はで止むごときことなからむのみ。……われは逍遙子が縱令[タトイ]その量をせばめずとも、少しく用の有無を顧み、利害なき「バクテリヤ」を措[オ]いて、蝶になるべき蠋[イモムシ]を取り、再びは世の無頼子に牛刀鷄を割く(文苑)といはれざらむを望む。(#876参照)

ここもまったく一緒です。逍遥は、批評する対象に対峙したときの、人間にとっての用不用を勘定しない、その「態度」について述べますが、鷗外は「解剖」という生物の「構造」の話を「進化論」という生物の「時間」の話に置き換え、成否を検証する際に設ける仮説の用、その経験科学の「前提」の話にすり替えるのです。

こうして、「没理想」に関する論争に常に取り巻く「帰納か演繹か」という問題も、この前哨戦に準備されるのです。

ということで、ここで没理想論争前哨戦をひとまず終えて、再び没理想論争第二ラウンドに戻りたいと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!


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