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#875 逍遥と鷗外の「理想」観が初めて絡み合う!

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

鷗外は、逍遥が思う批評の標準・手段をまず羅列します。すなわち「批評」とは……
著作の本旨の所在を発揮することをもて専とすべし。
帰納的なるべし。
没理想的なるべし。
科学的なるべし。
標準に拘泥することなかれ。
手前勘の理想を荷ぎまはることなかれ。
嗜好にあやまたるることなかれ。
演繹的なることなかれ。
芋蟲一匹を解剖するにも、人間を解剖するに同じく、その間に上下優劣をおかぬ動物学者の心こそ頼もしけれ。
批評とはもと褒貶の謂いにあらず。

こは實に今の批評家の弊を撓[タ]むる論なり。唯夫れ弊を撓むる論なり。かるが故に寖[ヤヤ]偏なるにはあらずやとおもはるゝふしなきにあらず。凡[オオヨ]そ世の中にて、觀察[ベオバハツング]と云ひ、探究[フオルシユング]と云ふ心のはたらきには、一つとして歸納法の力を藉[カ]らざるものなし。人の著作を批評せむとするときも、先づ觀察し、探究せではかなはじ。是れ科學的手段なり。是れ歸納的批評なり。然[シカ]はあれど觀察し畢[オワ]り、研究し畢りて判斷を下さんずる曉には、理想なかるべけむや、標準なかるべけんや。理想とは審美的觀念なり。標準とは審美學上に古今の美術品をみて、歸納し得たる經驗則[エムピリイ]なり。唯[タダ]哲學者は經驗則を經驗則として應用せず、これをおのが哲學統裡に收めたる上にて活かし使はむとするのみ。審美的觀念は拉甸[ラテン]人が爭ふべからぬものと定めし一人々々の嗜好にあらず。學問上にあきらめ得たる趣味なり、「エステジス」なり。拘泥すればこそ標準を憎め。手前勘なればこそ、杓子定規なればこそ理想を厭[イト]へ。蠋[イモムシ]を昆蟲なりといひ、拙[ツタナ]き小説家を固有派なりといふときは、其際におのづから褒貶存ず。是れ演繹的批評ならざらむやは。

おそらく、ここが、逍遥と鷗外の「理想」観における相違が明示された初めての箇所じゃないでしょうか。そして、最初にしてすでに論点がズレていることがわかります。

逍遙子又いへらく。批評家は猶植物家の植物を評する如く。動物家の動物を評する如く、理想を離れて其物を評すべしといふのみなり。それの某[ナニガシ]は世に益あり、又は益なしといふは、當世又は未來世に對しての評判なり。これは科學的批評にあらずして、實地應用批評などゝいふべし。純粹評判と應用評判とは殊なり。
これも亦今の批評家の弊を撓むる論なり。その偏なるが如き迹あることは、上の歸納、演繹の辨におなじ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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