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#876 世の中の「用」と「無用」を分けるのは難しい!

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

われおもふにおほよそ世の中に、用と無用との別ほどむづかしきものはあらじ。物物而責之用[モノヲモノトシテコレガヨウヲセムレバ]、用亦窮矣[ヨウモマタキュウス]と東坡[トウバ]外傳の首[ハジメ]に題せし西疇子[セイチョウシ]が言もおもはるゝは、二三の新聞の文學を視るこゝろの狹さなり。文學國を滅ぼすといふものあり。(讀賣)文士は樂隊の如し、事あるときは何の用をもなさずと罵るものあり。(中新聞)美を度外に視ること能はざる人性を知らず、趣味の高卑より國民の文野分るゝことを知らぬ人々なればこそ、かゝる決斷をなすならめ。如法[ニョホウ]これ等の輩に向ひては、應用評判を斥[シリゾ]けて、純粹評判を勸むる逍遙子が言、大に開發の功を秦するなるべし。然はあれど必ず用を問はじといふも科學的手段を講ずるものゝ迷ならまし。動植をきはむる學者の心は、世の常の用をばげに問はざるべけれど、進化説を唱ふる人は、微蟲を解剖するときも、おのれが懷[イダ]ける説の旨に愜[カナ]はむことを願はざるにあらず。唯科學の公心あるをもて、預期せしところに反せし事實をも、言はで止むごときことなからむのみ。生物の最微なるを細菌とす。世界第一の細菌學者コツホはつねに其徒に誨[オシ]へていはく。利害なき細菌を取りて、一々種を定め名を命ぜむはいともおろかなるべしと。されば膠中[コウチュウ]に栽ゑたるとき、紫色を見する水中の細菌、立派なる拉甸[ラテン]名を得たるは、利害なき中にても、その紫の色に出にければなりかし。今の小説界に入りと入りぬる人の作を取りて、一々蠋[イモムシ]を解く勞を取らむこと、さりとては難義ならむか。われは逍遙子が縱令[タトイ]その量をせばめずとも、少しく用の有無を顧み、利害なき「バクテリヤ」を措[オ]いて、蝶になるべき蠋[イモムシ]を取り、再びは世の無頼子に牛刀鷄を割く(文苑)といはれざらむを望む。

森鷗外はドイツ留学中の1887(明治20)年、北里柴三郎(1853-1931)とともに細菌学者ロベルト・コッホのもとを訪ねています。また、コッホは、北里の誘いを受け、1908(明治41)年6月、日本を訪ね、74日間に渡って滞在します。日本は、国賓並みの歓待と、多くの歓迎行事でこれに応え、歌舞伎座では官民合同の観劇会が催されます。このときに、通訳を務めたのは森鷗外です。

逍遙子はまた世の批評家が二千餘年前に死せし人の肋骨[ロッコツ]を息杖にして、アリストテレエスなどが言を引用ゐるを笑ひき。こは眞の卓見なり。然はあれど審美學の道理には、アリストテレエスが詩學にて早くも充分に發揮せられたるものなきにあらず。レツシングがハムブルクにありて、二千零八十九年前に死せしアリストテレエスを引きけむも、吾人が今年の文界に立ちて、二千二百十三年前に死せしアリストテレエスを引かむも、おそらくは大なるけぢめなかるべし。支那學者が道徳を説きて、いつも先王の道といふを笑ふものはさはなり。されど獨逸[ドイツ]の民がいまもユスチニヤンの法典を參考律[ズブジヂエエル]にするを笑ふを聞かず。是れ識者のつら/\慮[オモンパカ]るべきところなり。モオルトンはげに新なるべし。セント・ブウウはげに近かるべし。されどアリストテレエスも廢つべからず。

「モオルトン」は、イギリスの文芸批評家のリチャード・グリーン・モールトン(1849-1924)のこと、「セント・ブウウ」は、フランスの文芸評論家で「近代批評の父」ともいわれるシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ(1804-1869)のことです。

自ら註す。梓神子の取次の翁が言を、直に逍遙子が言とせしを疑ふ人もあるべし。されど作家が言と作家が其作中の人にいはしむる言とは、時ありて大差なきをば、フイツシエルも斷言せしことあり。(流俗及褻語[セツゴ]一四七面)況[イワン]や逍遙子はさゝのやみどりに對して、わが批評に關しての意見は、近頃の讀賣新聞に、戲文もてほゞいひ顯しおきぬといひしをや。(文苑、明治二十四年九月)

というところで、「逍遙子の諸評語」は終わります!

とりあえず、これまでの流れを振り返ってみようと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!


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