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#874 帰納的なるべし!没理想的なるべし!

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

逍遙子は叙情、世相の二派を立てたる標準を以て、我國の節奏文を批評し、上は短歌、長歌より下は連歌、俳諧、謠曲、淨瑠璃に至るまで、(淨瑠璃のある部分を除く外は)おほむね理想詩(叙情派)に屬すといひて、世相派の詩少きを歎[ナゲ]きつ。こゝに所謂理想詩をば、類想詩と解しても善かるべく、又(謠曲、淨瑠璃をも除かば)叙情詩と解しても善かるべし。

ここで言っているのは、逍遥の「梅花詩集を読みて」の、こんな一文です。

倩[ツラツ]ら皇国[ミクニ]の節奏文[セッソウブン]を案ずるに上[カミ]は短歌長歌[ミジカウタナガウタ]より下[シモ]は連歌俳諧謡曲浄瑠璃に至るまで(浄瑠璃の或部分を除く外[ホカ]は)おほむね理想詩の門に属し就中[ナカニツキ]和歌と称せられたる限[カギリ]は叙情詩のいと小なるものにて大かたは一身の哀観(神祇釈教恋無常の感)を詠ずるに止[トド]まり未だ曾て現実を解脱せるはあらず。(#807参照)

では続きを読んでいきましょう。

因[チナミ]に云ふ。逍遙子が梅花道人を樂天詩人なりとせしは面白し。ハルトマンが詩統よりいひても、梅花道人が詩は慥[タシ]かに樂天詩なるべし。上に詩統の略圖を示せり。

ということで、鷗外は「詩統の略図」を示します。

又云ふ。忍月居士はみづからハルトマンを祖述すと稱しながら、小説三派及梅花詞集評を讀みしときは、忽[タチマチ]認めて人と事とにおなじおもさをあたふるものとなし、(國會、人物と人事)忽又認めて事を從とし、人を主とするものとなしつるのみ。(同新聞、人物、人事に就きて逍遙先生に寄すと題したる文及此頃の文學界)かくてなほハルトマンを祖述すといはむはいとなん影護[ウシロメタ]かるべき。
逍遙子が前の三派、後の二派に就きては既に論じ畢[オワ]んぬ。これよりは其批評の標準を措いて、其批評の手段に及ばむ。
逍遙子おもへらく。批評は著作の本旨の所在を發揮することをもて專とすべし。歸納的なるべし。沒理想的なるべし。モオルトンが唱ふる如く、科學的なるべし。標準に拘泥[コウデイ]することなかれ。手前勘の理想を荷[カツ]ぎまはることなかれ。嗜好にあやまたるゝことなかれ。演繹的なることなかれ。芋蟲一疋を解剖するにも、人間を解剖するにおなじく、其間に上下優劣をおかぬ動物學者の心こそ頼もしけれ。批評とはもと褒貶の謂[イイ]にあらず。

ここで言っているのは、逍遥の『梓神子』の、こんな一文です。

動物学者といふものを見たか。人間を解剖するも、芋蟲一疋[イッピキ]解剖するも、上下優劣を着[ツケ]いでこそ其道[ソノミチ]に熱心見えて有難い。人間の為の用不用は、葭[ヨシ]のずゐから天井のぞく人間といふ蟲けらの狭い料簡。(#861参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!



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